大企業・重原総合科学の半生

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第三話 飛躍と跳躍

公開日時: 2020年10月16日(金) 21:10
文字数:3,012

 森場を襲った悲劇は理解した。風呂の湯も止めて入った。


 それらが過ぎ去り、次の日になって蒲原は出勤早々田上に呼ばれた。


「この資料を、病院の受付まで持って行くように。二十分以内に帰って来い」


 田上は、使用済みの封筒を出した。


 どこの部署でも、身内同士の書類のやり取りはこうした品を使う。それは当たり前として、宛名は院長先生となっていた。


「はい、二十分で済ませます」


 中身を詮索してもしようが無いので、そのまま受け取った。


 蒲原達の総務課は、病院内の職員に関する庶務も処理してはいる。しかし、田上が院長に書類を出すのは入社してから初めてだ。


 とにかく、封筒を小脇にしつつ白板に行き先を記して外に出た。病院の受付は歩いて五分程で到着し、すぐに用は済んだ。


 実のところ、もう一つの用事の方が個人的には急を要した。田上に報告を済ませ、ごく短く労われてから席についてすぐ内線電話を取った。


 社長秘書宛にかけるのも初めてながら、ためらっている場合では無い。


「はい、秘書室の近村です」


 なめらかな女性の声がした。蒲原は、早口にならないよう言葉を選びつつ、茶封筒について伝えた。


「社長は、先程外出されたところです。急げば社員駐車場で追いつけるかもしれません」

「ありがとうございます」


 電話を切ってから茶封筒を手に白板に『駐車場』とだけ書いて、足早に総務課を出た。


 飛び降りんばかりに階段を駆け降り駐車場にたどり着くと、一人の女性がロールスロイスのドアを開けたところだった。


 小柄で小太りの上に化粧も濃い目で、その癖指先からは洗練された仕種が見て取れた。


 髪は短めにカットして茶色に染めており、丁寧に櫛が入っていた。


「あのっ……すみません」


 息を整えながら、やっとそれだけ蒲原は言った。


「何?」

「私、総務課の蒲原と……申し……ます……。しゃ、社長に、これを……。あの、社長でいらっしゃいますよね?」


 思わず失礼な質問をしてしまったが、蒲原が出した茶封筒を、黙って受け取った。


「どこで、これを?」

「資料……ビルです。三階に、ありました」

「そう。わざわざありがとう。確かに、私は社長だけど、そう緊張しなくて構わないわよ」 


 明らかに上機嫌になり、社長……重原 なのは言った。


「ありがとうございます。失礼します」


 おかしなタイミングで呼吸が整い、最後の最後にちゃんとしたお辞儀が出来た。社長はうなずき、愛車に乗った。


 ロールスロイスがアクセルをふかす時には、蒲原は非常口のキーボタンを押していた。


 奇妙な解放感のせいか指が震え、二回も間違えてしまった。ようやくにも……と言いたくなるほどの疲労を覚え、総務課の出入口をくぐって田上に茶封筒の顛末を語り自分の仕事に復帰出来た。


 これからまた、いつもの日常が始まる。それは約五時間しか続かなかった。


 昼食を挟み、午後の仕事を進めていた時、目の前の電話が鳴った。内線なのは鳴り方で分かった。


「はい、総務課 蒲原です」

「社長秘書の近村です。社長から、出張の指示が出ましたのでお伝えします。詳細は社内メールで送信します。あなたの上司には、私から別個に知らせます」

「え? ええ?」

「質問があれば、メールを読んでから返信でお願いします」

「はい、分かりました」


 電話は向こうから切れた。


 溜め息をつきたくなるのを我慢してメールを確認すると、確かに新着が一件入っている。否応なしに、本文を読んだ。


 何故、よりにもよって北海道なのか。それも稚内。飛行機とホテルの手配はするそうだが……。


 それにもまして異様なのは、業務だった。


 一週間後、市の外れにある天候研究所の資料館へ行き、事務室から指定されたUSBを回収して来いとは。


 管理人が急死して、他に手立てがつかないそうだ。


 資料館と事務室の出入口を開ける為のキーナンバーも添えられている。ついでながら、物理的な意味での鍵は無い。


 あらかじめネット回線を通じて割り当てられたキーナンバーを電子ロック自体に送信しておき、開けに来た人間がそれを入力するという仕組みだ。


 バーコード付の電子キーを併用していた時期もあった。犯罪のハイテク化につれて電子キーからキーナンバーを割り出す機械が出回るようになり廃止された。


 手配そのものは完璧で、質問のあろうはずが無い。ではあるのに、誰かに叫びたい気持ちがせり上がるのを無視出来ない。何故、自分で無ければならないのか。


 一週間後。


 羽田空港から一路、稚内に到着した彼女はバスに乗り換え、大黒三丁目にあるホテル前田まで来た。


「ううう……どうして私がこんな目に……」


 北海道には初めて来た。とにかく寒い。北方領土を外すと、稚内は日本の北端となる。


 ゴールデンウィークも終わったのに、早春並の冷たい風が吹き抜けている。それだけに、バスの車窓から目にした物寂れた光景もより強く思い出された。


 空港は、不慮の事故に備えて街中から離して造る。だから、店も家屋もまばらで当たり前ではある。


 つまるところ単なる主観なのだが、元々稚内は全体として寂れつつあった。


 市側も手をこまねいているのではなく、複合商業施設や駅前の再開発等に注力して話題を集めている。


 近村が伝えていた宿泊先……ホテル前田は旧来の、つまり再開発の輪から外れた宿泊施設だった。


 白塗りのコンクリートはところどころ色が褪せている。自動ドアは反応が鈍く、今にも止まりそうだった。


 そこをくぐると、絨毯ごしに薄暗いカウンターが正面にある。


「いらっしゃいませ」

「すみません、予約していた蒲原と申します」

「はい、承っております」


 黒い制服を着た中年の女性が一人で立っていて、チェックインを受け付けた。


 鍵を渡されはしたものの、ビジネスホテルという事もあり荷物係はいない。


 部屋は二階の一号室との事で、蒲原は一人でエレベーターに乗った。ついでながら素泊まりである。


 エレベーターが二階に着き、部屋で荷物を降ろしてすぐにホテルを出て資料館へ向かった。


 観光旅行でないのは当然として、要はさっさとUSBを回収すれば済む。


 その後は海産物セルフツアーでも楽しめば良い。……実は彼女は、魚介類に目が無かった。まぁ、どうせ飛行機は明日だ。


 資料館までは、歩いて五分で着いた。平屋の木造建築で、アメリカの植民地時代風の造りになっている。


 緑色の屋根の下、正面玄関の前にポーチがあり、ドアに向かって右隣には『天候研究所 資料館』と黒く書かれた縦長の看板が釘付けされている。左隣にはキーロックのパネルがあった。


 ポーチに入ると床がめり込みかかり、思わず赤面した。床が腐りかかっているだけだ。にも係わらず体重を意識してしまった。


 テンキーを押すと、かすかにかちゃりと音がした。ドアのノブを回し、錆とほこりが小さくも鋭い音を立てる。そのまま開けて中に入り、後ろ手にドアを閉めた。


「今日は。お邪魔します」


 返事がないのを承知で挨拶した。そして、きょろきょろ辺りを見回した。


 室内は、予想よりは明るい。駒形の切妻から陽射しが差し込んでおり、ここがホールである事も右手の券売機のすぐ隣に受付がある事も分かる。いずれもとうにお役御免だ。


 いうまでもなく誰もいない。左手には緩やかな螺旋らせん階段があり、屋根裏まで延びていた。


 しかし、向かいの壁に貼られた展示物や奥に続くドアは、差し込んだ光の向こう側にありかえって良く分からなかった。


 目当ての品は、受付……厳密には事務室にあると判断するのが妥当だろう。


 その時、ドアがノックされ危うく叫び出すところだった。

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