陣地から攻撃開始地点へ出発する前に、兵士達は所属する各中隊の隊長から簡潔な訓辞を受けた。鍛造もまた、数十名の戦友達と共に同じ立場にあった。
中隊は、書類の上では中隊本部を含めると小隊四つからなり、小隊は分隊三つからなる。
分隊を指揮するのが、伍長か軍曹だ。
鍛造は、直属の上官……分隊長にあたる戸原軍曹から前日に聞かされた情報を思い出していた。即ち、ちょうど自分達が受け持つ戦闘区域に、アメリカ軍の基地の下水管がある。
いうまでも無く川の向こう岸から水中に突き出されているのだが、下水管の大きさはゆうに大人一人が出入り出来る。
突撃が始まったら、迷わずそこを目指して下水管に潜り込むべし。他の兵士に見とがめられないよう、下水管に近づいたら弾丸が当たったふりをして水中に飛び込む。後は泳いで行けばいい……という寸法だ。
要するに敵前逃亡である。
戸原によれば、自分以外にこれが実行出来るのは鍛造だけだという。
まずもって体力、戦闘技術が無いのは論外。口が軽いのも駄目。そして、義理堅い反面、極限状況では仲間を見捨ててでも生き延びられる意志を持つ事。
この、最後の条件が一番難しかったそうだ。仲間の為に命を投げ出すという類の人間は、かえって足手まといになりかねない。
普段は約束を守り、いざとなったら我が身が可愛くなる性格の方が動きを把握し易い。戸原からすれば、まさに鍛造は理想の相手だと語られ甚だ返答に困った。結局は応じたのだが。
戸原は、日本が負ける事はとっくに察していた。共倒れになる気も無かった。
ただ、日本に帰った時に気心の知れる味方が欲しい。数はいらない。それら全てが、戸原からすれば当然の布石であった。
「……以上、大日本帝国の未来と栄光の為、必勝を期して突撃する」
川から少し離れた、ジャングルの中にこしらえた陣地で士官学校出の若い中隊長が誇らし気に述べた。ある意味で、この戦争のなんたるかを知らないままでいて幸福ですらあったろう。
戦友達と共に直立不動で訓示を聞く鍛造の頭の中は、馬鹿にゆっくりと戸原の発言を思い返していた。そして、場違いにもベルトに装着している弾薬盒が頭に浮かんだ。弾丸は十発しか入っていない。満タンならその六倍くらいはあるはずだが。
「それでは中隊全兵士、皇居を向いて気をつけーっ」
中隊長の命令と共に、兵士達は一斉に北東の方角を向いた。
「敬礼ーっ」
中隊全ての、といっても定員の約四分の一……四十人そこそこの右手が一斉に敬礼した。彼らだけでなく、二万人の兵士達が皆そうしただろう。
儀式を済ませて川岸に集結した日本軍は、ラッパの音を合図に川に繰り出し浅瀬を渡った。どこかで味方の砲撃が散発的に始まり、敵の陣地からぽつぽつ土煙が上がったもののすぐに止んだ。
不意をつかれたアメリカ軍は混乱し、渡河は拍子抜けする程簡単に終わった。しかし、ものの三日と立たない内にアメリカ軍は次々と増援部隊を繰り出した。
日本軍は結局押し返され、鍛造達のいた中隊は彼と戸原の二人を除いて全滅した。いや、形式としては、彼ら二人も戦死者扱いだった。
「こんな馬鹿げた戦争で死ねるかや」
下水管の中で腰まで汚水に浸かって座り込みながら、戸原は悪態をついた。
「全くその通りであります」
同じ格好で隣に座りながら、鍛造は心から同意した。とっくに臭気や湿気には慣れている。敵の反撃を確実にやり過ごせるという意味では、普通なら反吐がでるこの場所は宮殿さながらだった。
ほとぼりが冷めるのを待って外に出た二人は、川を泳いでジャングルに入った。泳ぐことで自動的に汚水は洗われたものの、とにかく猛烈に腹が減っていた。蛇だのトカゲだのを手に入れて口にするのは慣れたものだが、ジャングル生活初日から獲物に恵まれなかった。一応、小銃も弾丸も持ってはいるものの小鳥一匹現れない。
敵も味方もいなくなったのだけが気楽で良いかと思いきや、さ迷う二人の前に死体が一つ現れた。小川の岸辺でうつぶせになっている。顔はまだ分からないが、少なくとも軍服で米軍だとは分かった。銃は誰かが持ち去っていて、ヘルメットには銃弾が突き破った穴が開いている。頭のそばの地面には血だまりがまだ残っていた。
「死体でも食うかや」
酒でも飲むかといった持ちかけ方だ。
鍛造は、すぐには答えられなかった。作戦前から飢えに苦しむ日本軍では、人肉食が公然の秘密だった。敵のはまだしも味方のは許さないという命令書まで出回っている。噂では、肝臓が一番精がつく反面食べ過ぎるとのぼせて理性を失うとされていた。
少なくとも鍛造は、まだ誰の人肉も経験してはいない。
「死んでまだ三日四日ばあしかたっちゃせんき、焼いたらえいかもねや」
そう言いつつ、戸原は爪先で死体をひっくり返した。死体の顔は、目玉を虫に食われている上に口や鼻からムカデや蟻が一斉に這いでてきた。
「軍曹殿、よろしいでしょうか」
「なんなや」
「どうせなら虫を餌にして釣りでも罠でもしかけてはいかがでしょうか」
「ああ、その方が結局はえいねや。死体は虫の養殖場にしちょいたら元手に困らんわや。おまん頭えいやいか」
「あ、ありがとうございます」
それからは呆気ないほど簡単だった。枝やツルで釣具を作り、蛆虫を餌につけるといくらでも小魚がかかった。
何十匹かの小魚で腹を満たすと、今度は小魚を囮にして鳥や亀を捕まえ始めた。結局死体は食べずに済んだが、思い返せば間接的にはそうしていたのだ。死体を食べていた虫を使って食糧を調達したのだから。
米兵の死体は、多少の余裕ができた時には白骨化しかけていた。埋葬しようかとも二人で思ったが、いつだかのスコールで小川ごと流され結局行方不明になった。
それやこれやで一年ほど潜伏し、敗戦を経て残留兵の捜索にきた元日本兵の一団に『救助』された二人はジャングルよりずっと文明的な手当てを受けた。なにより飯盒に満ち溢れた白米は涙をぬぐいながら食べた。
「ニューギニアもこれで見納めやねや」
武装を外し、復員船として働く元駆逐艦『ゆきかぜ』の甲板で戸原は言った。
「はい、軍曹殿」
「もう戦争は終わったし軍隊ものうなっちゅうき、戸原でえいわや」
気さくに戸原は応じた。
「日本はどうなるんでしょうね」
捜索隊から、日本の様子……というより惨状……について教えられた二人は根掘り葉掘り質問攻めにした。原子爆弾なる兵器についても知った。
「さあねや。手続きもあるけんど、あとのことも含めて連絡先ばあ交換しちょくか」
「はい」
敗戦時、鍛造の階級は一等兵だった。日本では戦死して二階級特進し、兵長となっていた。
誤報であるから復員後に取り消しされる筈だったのが、直属の上官である戸原軍曹申告により『作戦前に前任者戦死の為上等兵に昇進、次いで作戦中に前任者戦死につきに昇進』となった。
そして、負傷した戸原を助けようとして二人とも友軍からはぐれ、そのまま終戦を迎えたという筋書きであった。
戸原自身は戦死による特進を取り消されて軍曹のままというのがミソだ。どうせ他の中隊員達は戦死しているのだから確認のしようが無い。
何故ここまでして階級にこだわるかは単純で、金の問題だった。
旧日本軍は給与の格差が極端に激しく、兵長と一等兵では大きな差がある。
あんな過酷な戦場ですり潰されるまでこき使われたのであるから少しでも搾り取ってやれというのが本音だった。
卑怯だの醜悪だのと言う感覚は全く無い。何故なら、鍛造はそうして得た金と体験を持って重原鉄鋼センターを作り、行き場の無くなった復員兵達に職場を提供しているのだから。
戸原は、いつものように黙々と依頼を果たすだろう。封筒の口を糊づけしながら、鍛造は次に処理すべき案件を既にまとめ始めていた。
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