真夜中の選対事務所で、記者陣のカメラからほとばしるフラッシュを浴びながら津本は毛筆を手にした。毛筆には墨がたっぷりつけられている。
満面の笑顔で巨大なダルマの片目に丸をつけてから、津本は毛筆を机に置いて深々と一礼した。フラッシュが一段と激しくなった。自由党公認として鳥取県から選出された少壮気鋭の政治家。マスコミが飛びつくのも無理はない。
鍛造は、社長室のテレビでその様子を見ていた。テレビそのものは去年の暮れに経費で購入したものだ。白黒だし時々粒だの筋だのが画面に浮かぶものの、ラジオをはるかに上回る迫力があった。
吉田『元』首相は、結局のところ造船疑獄から脱出出来なかった。去年の秋に海外視察になど行ったばかりに余計に叩かれ、身内に迫られ詰め腹を切った。
年が一九五五年に明けてすぐ、第一次鳩山内閣は左右両社会党との取引を経て衆議院を解散した。マスコミは鳩山の台詞を元に『天の声解散』とこぞって書き立て国民の期待をあおった。
二月になり衆議院議員総選挙が行われ、鍛造と互いに太いパイプを繋ぐ津本も晴れて議員一年生である。選挙資金を重原鉄鋼センターが支援したのはいうまでもない。非公式に。
なんにせよ、選挙は当選しなければ何も始まらない。ソファーからテレビまで歩き、鍛造はスイッチを切った。その上で、テレビの上にめくって二つ折りにしていた掛け布を元に戻して画面に垂らした。
余程裕福な家でないとテレビは入手出来ない。その意味で、テレビはまるで神棚か仏壇のように丁重に扱われた。スイッチをつけてない時のテレビはインテリアの一種としてわざわざ飾りを刺繍した布までつける。
社長室のテレビを飾るそれは、小都子が縫った。そうした濃やかな気遣いは鍛造と全く違う角度からもたらされている。反対に、桑野は煮炊きや裁縫は全くの不得手だった。包帯を巻くのは上手だが。
ともあれ、鍛造が常々暖めてきた構想……重原鉄鋼センターのスポーツ業界進出……が大きく前進したのは間違いない。
翌日の昼休み。
社長室の応接ソファーで、鍛造は沼橋と共に仕出し弁当を頬張っていた。いずれも会社の経費である。
「津本先生にはお祝いかたがた明日にでも伺うつもりですよ」
黒い角縁眼鏡を不気味なほど白く細長い右人差し指でずり上げながら、沼橋は明言した。芋の煮っ転がしから漂う香気が場違いな弛みを添えている。
「それはそれは。私の分もよろしくお願いします」
「はい、勿論」
ブリの照り焼きが二人の舌を喜ばせ、それが出世魚……成長に応じて名前が変わる魚をそう呼ぶ……なのが一層味わいを引き立てていた。ちなみに去年の夏に津本との会食で口にしたスズキも出世魚だ。
思えば沼橋も運が良い。成り行き次第では手島からも鍛造からも切り捨てられ、戸原に始末される可能性があったのだから。
「それから、仁川化学ですが……。おおよその最新研究は入手し尽くしましたし、社長が放漫経営を始めてぐらつき始めています。いかが致しましょう」
仁川化学は沼橋が産業スパイとして入社している会社である。その情報は全て、小都子が別名義で借りているアパートに沼橋自身の手で暗号化されて届けられていた。
社長が放漫経営をしているからこそ沼橋が短期間で社外秘を獲得出来た。沼橋が有能な事も無論ある。その一方で、そもそも社長が頓珍漢な経営を始めたのは小都子が送り込んだホステスを愛人にしてからだった。
「そうですな。沼橋さん、宮取大学に戻る気はありませんか?」
そう尋ねつつ、鍛造は箸休めの沢庵をかじった。
「え!?」
「手島教授もそろそろお歳ですし、弊社としても大学総出でご協力頂けると非常に助かります。寄付金も気兼ねなく払えるようにしたいですし」
言外に、沼橋が大学を牛耳るのを期待する意味合いが含まれていた。
元々、研究生時代の沼橋にとって手島は理解し難く許容すべからざる変人であり暴君だった。戦時中から続く筋肉増強ホルモンの研究における手島の優れた先見の明と着想だけが、沼橋を抑えつける鎖と重りであった。
「い、いや……手島先生のご実績からすればとても私など……」
そんな謙遜は形ばかりの張りぼてに過ぎない。鍛造は残った白米をかきこみ、良く噛んでから飲み下した。ついでに湯呑みの茶を一口飲む。その間、沼橋は手を止めてじっと鍛造を見据えていた。
「食事中ながら、失礼します」
一言断って鍛造は席から身体を遠ざけ、書類棚から分厚く大きな封筒を出した。
「まあ、弁当を食べ終わってからお見せしましょう」
「いえ、差し支えなければすぐにでも拝見したいです」
機を見るに敏というより、研究者の本能だろう。あたかも封筒の中身を透視したかのように、沼橋は察しをつけていた。
「構いませんよ。汚れてはなりませんから、弁当箱を脇に避けて下さると助かります」
「ありがとうございます」
速やかに鍛造の指示を実行した沼橋に、鍛造は微笑みかけながら再びソファーに座った。封筒はボタンに紐がけして封をするもので、糊づけはされていない。
いちいち焦らしたりせずに、鍛造は慣れた手つきで紐を解いて蓋を開けた。中身を出して両手で捧げ渡すと、沼橋は興奮も隠さず同じように両手で受け取った。
「こ、これは……」
「ウチの社員に用いた栄養剤の効果実績ですよ」
それは手島から桑野に渡った薬品だった。桑野自身は単なる栄養剤としか思っていない。
「た、宝の山です」
それはそうだろう、生の人体実験なのだから。
いうまでもなく、鍛造は社員を死に至らしめたり回復不能な後遺症が残るほど酷い薬品を使わせたりはしない。それは、厳しく手島に注文してある。
だいいち、マスコミにでも漏れたら全てが台無しだ。あくまでも程々の範疇でコントロールしなければならない。それでこそ、きたるべき東京オリンピックに『改造人間』を送り込める。
「現在は手島先生にデータを渡していますが、復帰なさるのなら沼橋さんにお渡ししますよ」
「はい、是非とも」
即答してから沼橋は濁りの目立つ白目をまばたきで何度も隠した。
公平に見て、沼橋からすれば手島は研究者として、かつ先駆者として尊敬に値する師であった。それ以外の部分が原因となって追放された。どのみち手島は沼橋が仁川化学からもたらす情報がなければ研究を進められないようになっていたのだし。
だから、沼橋が良心に恥じる必要はない。仮に恥じる必要があるとすれば鍛造だろう。こうした状態を最初から全て作り上げたのは彼だ。
「さ、お昼の続きをどうぞ。資料は封筒ごと差し上げますから」
にこやかに鍛造は勧め、付け加えた。
「それから、手島先生には私から話を通しましょう」
その日の夕方。春とはいえまだまだ冷えた空気に満ちた街中を抜けて、鍛造は自らトヨペット・スーパーを運転して宮取大学に進んだ。いまだに運転手はつかないものの、趣味らしい趣味のない鍛造にとっては唯一の気晴らしでもあった。
大学の構内に入り、医学部棟で筋肉生理学の教授室を示すドアの前に立つといつぞやロックジェラルドとすれ違った記憶が思い起こされた。そのロックジェラルドはもういない。手島も、前回と今回では立場が真反対になる。鍛造はドアをノックした。
「誰だ」
「先生、重原です」
「入れ」
その横柄な口調を聞くのもこれが最後か。そう思うといささか感傷がましいものが湧かなくもない。
「失礼します」
鍛造はドアを開けた。手島は、去年から全く時間が止まったかのように古ぼけた回転椅子に座って背を向けていた。なにか資料であろう書物を読んでいる。
「先生、最後の商談に参りました」
後ろ手にドアを閉めてから、挨拶を省いて鍛造は伝えた。
「最後の商談だと?」
回転椅子をきしませながらようやく手島がこちらを向いた。久しぶりに間近で顔を合わせる。以前よりずっと老けているように思えた。
「そろそろ後進に道を譲って頂きたいのですよ。つきましては慰労金を用意しました」
懐から小切手を出すと、手島はロイド眼鏡越しに鍛造と小切手をかわるがわる眺めた。小切手の金額は、つつましやかな生活をすれば二、三年は遊んで暮らせる金額が記されていた。
「ふんっ。後釜は沼橋か」
「ご賢察の通りです」
どんな時でも話が早く、この時ばかりは助かった。
「いいだろう。小切手を置いて失せろ。だが一言だけ述べておく」
近づいて小切手を渡そうとした鍛造は、ぴたっと止まった。
「何でしょう」
負け犬の遠吠えを聞くのも勝者の義務、くらいに鍛造は考えた。
「貴様の肉体はおろか、精神だろうと魂だろうと、要するに人生そのものが会社に吸収されたんだ。貴様もまた会社を増強するホルモン剤に過ぎん」
「これはこれは。先生にしては非科学的な表現ですな」
皮肉を込めて答えると、手島は再び椅子を回転させて背中を向けた。
「短い間でしたがご苦労様でした」
この上なく儀礼的に述べて、鍛造は手島の背後から左肘の脇に小切手を滑らせるように置いた。
「では、失礼しました」
戸口で慇懃無礼に告げてドアを閉めた直後、バシーンと激しい音がドア越しに響いた。研究書か何かをドアに……厳密にはドアの向こうにいるであろう鍛造に……投げつけたのだろう。
それが、手島との係わり合いの終焉となった。
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