大企業・重原総合科学の半生

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第十話 破壊は建設の始まり

公開日時: 2020年10月19日(月) 12:10
文字数:3,017

 失敗だった。休みの日にまで仕事の内容を聞きたくない。


「あー、分かった。もういい。とても優秀です。良く調べました。じゃあ、明日よろしくお願いします」

「はい、こちらこそ。それから、今日は好きに出歩いても支障ありません」

「それはどうも、ご親切に」

「いえ、どう致しまして」


 精一杯の皮肉も通じたかどうか分からない。


 出す台詞に困っている内に二人はお辞儀し、椅子を引いた。何とも異様で珍妙な会合だった。


「ああ、それと」


 と、蒲原は森場が出したとされるUSBを出した。


「これはあなた達に渡しておきます。どっちみち、私の手に余りますし」


 いきさつを話すと、エルンストとイザベラは深々と頭を下げた。


 翌朝。


 いつも通りに出勤したはずの蒲原は、いつも通りで無い光景に出くわした。


 会社のビルそのものが、外側から足場と布ですっぽり覆われている。解体工事さながらだ。


 さすがに玄関は出入り出来るようになっていた。とにかく入ってタイムカードを押した。


 『蛍光灯』だの内部告発だの、これから雲隠れだの……そんな言葉が頭をよぎる。


 総務課に上がると……もう、何年もたったような気がするが……いつも通りの光景が広がっていた。いや、錯覚だった。いつもと少し違う。


「お早う」


 ほうきを持った津本が、歯切れ良く挨拶した。


「お早うございます」


 頭を下げてすぐ、津本の脇をすかしてイザベラの姿が見えた。


 緊張した風でも無く、パソコンを開けてマウスを操作している。


 その隣では、後輩の木島が何やらアイコンの説明をしていた。


 木島は今年採用されたばかりの新人で、穏やかで気遣いの上手な女子社員だ。小柄で、少し体脂肪を気にしている割には甘いものを良く食べる。


 二人が並んでいると、娘が母に教えているような愉快さが自然に込み上げてきた……イザベラは、津本と同じ位の背丈があった。


「朝礼を始めるぞ」


 田上が宣言した。総務課の職員は全員、彼の前に並んだ。ついでながら、課長と課長補は長期出張中で海外にいる。


「皆には昨日伝えたが、新入社員を受け入れる事になった。イザベラ・フォン・ローレンツだ。兄のエルンストは、本日付で資料ビルに勤務。なお、蒲原は、今月末をもってアメリカ支社に転勤の内示が出た。ローレンツに引き継ぎをしておくように。では、イザベラ、皆に挨拶」

「はい、お早うございます」


 いかにも日本風にイザベラは言った。


 モデルさながらの彼女が優雅にお辞儀したので、男性も女性も……田上でさえ……少し遅れてから返礼した。


「初めまして。イザベラ・フォン・ローレンツです。出身はドイツのベルリンです。重原総合科学は、ドイツでは特にスポーツ医学で有名です。私もその一員になれてとても嬉しいです。よろしくお願いします」


 はきはきした口調だった。蒲原も含め、全員が拍手した。


「他に、連絡事項はあるか……? 無ければ、業務開始」


 会社を取り巻く足場や布には何の説明も無かった。


 恐らく、蒲原が休んでいる間に周知したのだろう。後で誰かから教えて貰えるはずだ。


 それにしても、もはや労務データがどうこうと述べるつもりはなくなっていた。


 自分の机を目指しながら、エルンストを思い返した。あの資料ビルで、千島のような頓珍漢と顔を付き合わせるとは気の毒だ。案外、馬鹿正直に声を録音させているかも知れない。


「……さん、蒲原さん」

「あ、はい、ええ?」


 木島が、不審げにこちらを眺めている。


「イザベラさんにアイコンの中身を一通り説明しましたって言ったんですけど、聞こえてます?」

「う、うん、ごめんね。じゃあ、後は私が教えるから。郵便物はどう?」


 社外に出す郵便は、蒲原たちが一度宛先や差出人を入力しないといけない。


 このデータは経理課に送信され、経費対策の下準備に用いられる。ちなみにEメールの送受信記録も総務課が管理しているが、蒲原の受持ちでは無い。


「二日前までは登録済みです。昨日の分は整理が終わって入力待ちです」


 郵便物が膨大な数量になるので、緊急便以外は一日遅れの入力となる。しかし、蒲原が緊急に休んでいた分木島達の負担が大きくなっていた。


「分かった。ありがとう。じゃあ、入力は私とイザベラがやるから、補助金の申請書類をお願いしていい?」


 グループ企業にあたる重原病院は、国の調査事業に協力する見返りに通信費の補助金を受け取っていた。


「はい、分かりました。あと、ビルが工事中みたいな感じでびっくりしたと思いますけど耐震工事ですから気にしないで下さい」


 にこっと木島は笑った。


「ああ、そうだったの」


 会社の抱える秘密を知っている今、木島のような善良な人間に黙って抜けてしまうのは苦い葛藤を味わわざるを得ない。いっそ、今すぐ大声を出してぶちまけたくなる。


 イザベラがこちらを注目している。


 彼女に会議スペースから椅子を持って来させ、蒲原は具体的な説明を始めた。


 会社の行く末がどうあれいい加減な引き継ぎは出来ない。それこそ自尊心に係わる。


 午前中はそんなこんなで過ぎた。さすがにイザベラは物覚えも理解も早かった。エクセルもワードも自由自在、平社員を通り越して管理職から始めても構わないだろう。


「もうお昼か。ローレンツさん、休憩に入って……」


 内線電話が鳴り、木島が取った。


「蒲原さん、ローレンツさん、社長がお呼びです」

「社長が……?」


 その時、ごくかすかな変化を蒲原は悟った。他の社員は全く気づかない。


 彼女にしてからが、数日前なら見過ごしていただろう。


 ほんの僅かながら、蒲原は接していた。自分の命が危険にさらされる状況に。他人の命が危ぶまれる事態に。


 それは、新たに強制的に付け加えられた遺伝子のようなもので消えはしない。


 イザベラから、ごくかすかに漂った気配……香りとも、表情ともつかぬ何か……が本能を刺激した。


 木島が少し心配そうにこちらを見ている。警察沙汰に巻き込まれたのは知っているだろうから、社長に呼ばれた理由を別の意味で想像しているのだろう。


「はい、じゃあ、この際ですからローレンツさんにも社長室を案内しますね」

「ありがとうございます」


 二人して総務課を出て、エレベーターに向かった。


 社長室は、場所自体は知っている。行った経験は無い。まして冷戦時代の遺物を抱えているのを知った状態で会うなど誰が予測出来ただろう。


 唯一、心強いのはイザベラだ。エルンストほどでは無いが、なにがしかの心得があるのだろう。


 社長室は二階にある。そこは、エレベーターか社長室専用の非常階段からしか出入り出来ない。


 下手に最上階に作ったりすると面会の時等に時間がかかるし、地震でも起きたら脱出しにくくなる。といって一階だと社員がやりにくくなる。


 そうした条件を噛み合わせた結論が二階を丸ごと社長室となった。


 ボタンを押すとエレベーターはすぐに来た。中に入り、ドアを閉じると静かに箱は下へ向かった。


「蒲原さん」

「は、はいっ」


 どちらが後輩なのか分からない。


「社長室を出るまで、私をあてにしないで下さい」

「え、えええ~!? だってあなた、私の……」


 二階に着いて、ドアが開いた。


 窓の無い廊下が左右に伸び、一方の端は手洗いがあった。もう一方の端は非常階段。そして、正面にドア。


 天井に灯っている蛍光灯が白く輝いている。ドアを開ける前に、せめて何か打合せでもしたかった。


 喋りかける前に、イザベラは軽く天井へ目配せした。天井の隅に防犯カメラがセットしてある。高感度であろうマイクもついているに違いない。


 観念して、蒲原はドアをノックした。

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