年が明けてもオイルショックは収まらなかった。むしろ増大した。
田中内閣の日本列島改造論で跳ね上がった地価が拍車をかけ、福田大蔵大臣は日本経済そのものをいみじくも『狂乱物価』と名づけた。
重原総合科学は、株価こそ下がったものの稚内での事業を受注してどうにか持ちこたえている。
もっとも、一方ではスポーツ医学部門を手放した事で株屋の雀連中からは東証二部降格も囁かれていた。
そんなある日、鍛造は珍しくも定時で仕事を終えて帰り道にデパートに寄った。
はっきりとは知らないが、何やら今日は気になる人間にチョコレートを贈る日らしい。それも、女性が男性に贈るものだという。
欧米の習慣が日本風に変化したからそうなったのであって、本来は性別に関係ないそうだ。
狂乱物価の事とて客足は余り盛んではなく、変なところで目立たないのは助かった。
相変わらず身の回りの事は自分でしたがる性格でもあり、鍛造は慣れないデパート巡りをしながら地下の食品売場でハート型のチョコレートを三箱買った。
それでようやく気づいた。自分の家で男性は鍛造自身のみである。だから何だというのではないのだが。
重原総合科学がスポーツ医学部門を手ばなし、つぐみの現役復帰は幻となっている。
救護室は残っているし、別な部門でもとにかく戻れば良かろうとする鍛造の説得をつぐみは丁重に断った。
その気持ちは良く理解出来るところであるから強いては勧めず、少なくとも表面上は重原家に変化はなかった。
買い込んだチョコレートを入れた紙袋を手に愛車に戻り、帰宅するまでの間にどんな表情でどう渡すのかを頭の中で数えきれないほど思い浮かべた。
「ただいま」
「お帰りなさいませ」
ばあやだけが玄関で出迎えた。
「つぐみとなのは?」
「奥様は大事な書き物があるとかで映写室にこもっておられます。お嬢様は軽いお風邪で休んでらっしゃいます」
そういえば、数日前からなのはくしゃみをしていた。それこそつぐみが症状の軽重を判断しただろう。
「そうか。じゃあ、ばあやに先に渡しておくか」
「え?」
鍛造はチョコレートの包みを一つ渡した。
「まあまあ、何と嬉しい驚きでございましょうか。お祝いでもございましたか?」
「いや、最近そんな行事がはやっているらしくてな。ばあやも良く働いてくれているし、仲間外れに出来ないだろう」
「そんな、もったいない。頭が下がるばかりでございます」
昔気質の人間らしく、ばあやは涙を流さんばかりに嬉しがった。
「大袈裟だよ。食堂で待っていてくれ。ああ、なのは寝ているのか?」
「はい、良くお休みでございます」
「なら夕食はなのを抜いておこう。あとでお粥でも作って貰うと助かる」
「かしこまりました」
靴を脱いで上着をばあやに預け、鍛造は映写室に進んだ。
豪邸だけあって、十六ミリ映写機とそれを写すスクリーンやスピーカーを備えた部屋がある。
家族だけで上映会をした事もあり、特になのがお気に入りにしている部屋だ。
ドアをノックしても返事がない。しばらく待ってからノブを回したが鍵がかかっていた。
邸内の鍵は、普段からマスターキーを車のそれと一緒にして持ち歩いている。防犯上の懸念もあったが、本当に大切な品は銀行の貸金庫にまとめてあった。
ともかく、部屋の性質上、特に分厚く音が漏れないドアにしてある。鍵を外し、少し力を入れて開けるとスクリーンが降りて映写機が動いていた。
好き勝手に歩く選手達、公式スーツ姿もいれば競技服姿もいる。先頭は男子マラソンで金メダルを得たアベベだった。
東京オリンピックの閉会式なのは、鍛造にもすぐに理解出来た。スクリーンの正面に、天井から垂れ下がるつぐみの姿を理解するには数秒かかった。
余りにも馬鹿げた現実は、かえって目に入りにくくなるものだ。
つぐみの首と天井を繋げる丈夫なロープが閉会式の実況中継に触れてかわずかに揺れている。つぐみ自身は爪先が床から一メートルほど浮いた状態でぴくりとも動かなかった。
チョコレートの紙袋を手から落とし、鍛造は地下室に飛び込んだ。
園芸用の脚立と鉈を引っ張り出し、改めて映写室まで戻ってつぐみのロープを切った。
作業そのものは簡単に終わり、肩に担いだつぐみはもはや人の体温を備えてないのが直に伝わった。
つぐみを床に横たえ、今度は救急車を呼ぶ為に寝室に行かねばならない。
電話を手にするまでは一瞬だったのに、ダイヤルは指が震えて何度も間違えた。
自分で自分を怒鳴りつけたくなるのを我慢してようやく一一九番をかけ、詳細を述べた。無我夢中で、自分が何をどう語ったのかさっぱり覚えていない。
電話に出た救急隊員からは、諦めずに人口呼吸を続けて欲しいといわれた。それだけははっきり記憶している。
「お父様……どうしてお母様にはロープがついているの?」
背後から声をかけられ、二つの間違いに気づいた。
まず、つぐみの首に縄がついたまま人口呼吸をしていた。
次に、映写室のドアを開けたままにしていた。
「いや、子供が見るものでは……」
「お嬢様、寝ていなければ……」
お粥の小鍋と深皿やれんげを乗せた盆を両手に持って、ばあやが映写室の出入口に現れた。
盆ごと小鍋や他の品々が床に落ち、お粥をぶちまけたばあやがその場に倒れてから玄関の呼び鈴が鳴った。
これほど愚かな手遅れが二重三重に加わったのは生涯でも初めてであった。
「お気の毒です。心からお悔やみ申し上げます」
かつてつぐみがなのを出産した、宮取大学医学部付属病院。
学長に昇進したての沼橋が、久しぶりに鍛造に顔を合わせて最初に発した台詞がそれだった。
病室のベッドには、首にくっきりと縄の痕を残したつぐみが死ぬ直前の服装のまま横たわっている。
そして、鍛造の傍らにはなのがいた。ばあやが意識を保っていれば自宅で待機させていたところだ。そのばあやも入院している。
「具体的なお話は、またのちほどに致しましょう。御遺体はしばらくお預かりしたいのですが、よろしいですか?」
これは、検死解剖で死因を明確にせねばならないという意味である。
事件性はないに等しいが、とにかく確認して書類を上げねばならない。
「はい、お願い致します」
いつになく沈んだ様子で鍛造はうなずいた。
なのは母親が死んだらしいことは察しているものの、それが何を意味するかは大人ほどには理解出来ていない。それもこれも全て自分の責任だ。
「失礼、奥様のポケットから封筒か何かが……」
沼橋に指摘されて初めて気づいた。確かに、つぐみのスカートのポケットからそれらしいものがはみ出ている。
鍛造が手で引っ張り出すと、『遺書 重原鍛造様』と表書きが記してあった。厳重に封印してある。
「開封はまず警察にして頂きましょう」
一刻も早く中身を読みたいのを抑え、鍛造は言葉を絞り出した。
「分かりました」
沼橋の返事になののくしゃみが重なった。
「お嬢さんの具合もありますし……」
「はい、ここで失礼します。お世話になりました」
大人同士の社交に比べると、はるかに不器用な手つきでなのを促した。なのは大人しく従った。
鍛造もなのも、救急車につぐみと共に同乗したので帰りはタクシーか電車になる。
なのの具合もあるし、何より出来るだけ人を避けたいので病院を出てすぐにタクシーを呼び止めた。
それから数週間。
つぐみの死は、公式には事故死と発表された。映写室の天井を清掃中に脚立から転落し、弾みで電気コードが絡んだという筋である。
つぐみの復帰どころか不慮の死に、ようやく経営を持ち直して明るくなりかけたはずの社内は再び沈鬱になった。
検死も終わり、葬儀は鍛造となのとばあやだけでひっそりと行った。それからすぐ、ばあやは自分から暇乞いをして去った。
それやこれやが落ち着いてようやく、鍛造は自宅の寝室でつぐみの遺書を開いた。なのはとうに寝ている。
つい最近までつぐみが使っていた鏡台は、ばあやもいなくなったせいで誰も掃除をしないままだ。
薄くつもったほこりをちらっと眺めて、封筒から中身を出した。
『前略
あなた。
今これを読んでいるということは、つまり私はすでに死んでいるものと考えられます。
私が自ら死を選んだ理由は、母としての、また妻としての役割に自分自身が耐えられなくなったからです。
ご承知の通り、私は家事がほとんどできません。その理由は、私が実の両親から四六時中日常的に暴力を振るわれ、そうした事どもを学ぶ機会が無いに等しかったからです。
奨学金制度を知り、藁にもすがる思いで必死に勉強し大学生活そのものは 医学部のアルバイトをこなすことでどうにかしのぎ続けてきました。
あなたと結婚する時に、私は自分の両親についてほとんど語らないままでした。
また、私の両親の側もあなたが著名な実業家ということで表だって私に暴力や暴言を振るう事はもはやなくなりました。
しかし、私は人の愛情というものがついにはっきりとは理解できないままでした。
娘のなのが甘えたりすがったりして来るたびに、私はどのように振る舞って良いのか分からず、実際のところばあやに全てを丸投げしていました。
それはまた、私自身の良心の呵責にも 係わる話でした。それらから逃げるために、現役復帰を願い出たのです。
しかし、それも叶わないと分かり、私はもう追い詰められてしまいました。
あなたは夫として出来るだけのことを私にしてくださいました。それは心から感謝しています。
叶う事ならスポーツ医学部門を元のように会社に戻して下さいませ。
社員の皆様、ばあや、そしてなのによろしくお願い致します。
さようなら』
何度も遺書を読み返した。さようなら。最後の言葉が何度も頭の中で乱反射した。
これまで自分の都合で他人を殺させたり遠ざけたりした事は何度もあった。
いざ自分が似たような立場になると、それがいかに冷たく押し潰されるかのような気持ちになるのか思い知らされた。
黙って遺書を封筒に戻していると、室内の電話が鳴った。しばらくためらってから受話器を手にした。
「もしもし」
誰とも話をしたくないのが半ば、誰かに話しかけて欲しいのも半ば。
「夜分に申し訳ございません。小都子でございます」
「どうしたんだ、突然」
正直な話、自分から小都子に話をするのは気が引ける立場であった。その意味で、彼女から電話がかかってくるのはこの際ありがたかった。
「奥様の事、本当にお気の毒でした。場違いかとも思いましたが、ここまで延び延びになったことですし、失礼を承知で娘の江奈にお顔を会わせて頂けないでしょうか」
当然、なのにも面通しとなる。今のところ、なのは大人が考えるよりずっと健気に耐えてはいる。ばあやに教わった通りに家事もこなしていた。そうであってもすぐには返事が出来ず、考え込んだ。
確かに、一つの機会ではある。だが、それをやるとつぐみへの思いがいかにも軽く薄っぺらなものになってしまいそうで恐ろしかった。そして、何を今更と自嘲する気持ちも湧いてきていた。
「江奈にせよ、なのお嬢様にせよ、血を分けた相手がいるのであれば親としてそれをはっきり知らせるのは何か特殊なことでしょうか」
何の特殊なことがあろうか。むしろ、それを避け続けてきた鍛造の方こそ反省すべきだろう。
「その通りだ。都合の良い日取りはあるか?」
「社長に合わせます。どうぞ、決めて下さいませ」
お互いに譲り合いを続けていても仕様がない。
鍛造の方で都合の良い日にちをいくつか並べ、小都子がそれを選ぶという形で段取りは落着した。今から四日後になる。
電話を切る時、話をする前よりはずっと気分がほぐれた事を我ながら認めざるを得なかった。
四日後。
昼下がり、中々に高級な衣服をめかしこんだ蒲原 母娘が重原家を訪問した。
鍛造となのの親子二人だけでいかにもがらんとしていた邸宅に、久しぶりに活気が戻った。
実のところ、江奈となのは同い年である。ただ、江奈の方が数ヶ月ほど姉に当たる。
父親が同じである以上、江奈の外見は鍛造にもなのにも少しずつ似ていた。それでいて大人しく控えめななのよりもずっと活発な、いかにも人目を引く印象があった。
「良く来てくれた」
玄関で、なのと共に小都子達を迎えつつ鍛造は感謝した。
「こちらこそ、本当にありがたく存じます」
「ありがとうございます」
江奈が如才なく頭を下げた。
それから食堂に二人を通し、鍛造はなのと二人で来客をもてなした。
鍛造と小都子にはコーヒーが、なのと江奈にはココアが出され、付け合わせにクッキーを出した。
しばらくは互いの思い出話を楽しみ……子供に聞かせて良い話題に限られたのは当然だが……飲み物を飲み終わってから子供は子供同士で遊ぶ事になった。
なのが自分の部屋に江奈を案内する一方、大人達は食堂に残った。
「私共の訪問を受け入れて下さりありがとうございます」
いつになく堅苦しい他人行儀な切り出し方ながら、鍛造にはむしろ自然な気持ちの現れと思えた。
「いや、こちらこそ」
「実は、この度伺いましたのは他にあと二つ用件がございます。お聞き頂けますでしょうか」
「聞こう」
とうに飲み干したコーヒーのカップを右手でくるくると回しながら、鍛造はうなずいた。
「まず、社長から頂戴した私や私の子孫への会社への出入り云々につきまして、はっきりした書面を交わしてほしゅうございます」
「良かろう」
言った言わないでもめるくらいなら、互いに納得のいく契約書でも交わした方がずっとましだ。
「実は、弁護士を通じて書類を作成して参りました。甚だ厚かましくは思いますが、この場でお目を通してご決裁下さると幸いでございます」
小都子が出した書類を、鍛造は受け取った。確かにかつて鍛造が約束した内容が記載されている。
今更小都子が誰かの子を妊娠するとも思えず、判子を押した。
「ありがとうございます。二つ目に移りたく存じます。娘の江奈は、親の私からしても歌舞音曲に優れた素質を備えています」
小都子が所属していた娼館は、昔ながらの意識が残っていた。従って三味線や都々逸のセンスを磨く機会があった。
「それで?」
「社長を通じて江奈を芸能界デビューさせて欲しいです。会社に明るいニュースがもたらされますし、科学というのは何も理数系のそれだけではないでしょう」
「確かに」
正論だ。むしろ、今からこそ『総合科学』の名にふさわしい業務を始めねばならない。
それで実績を上げて初めて、世間から再び注目されるようになるというものだ。
「ふむ。確かめておくが、君ら母娘がこの屋敷に住み着くというわけではないのだな」
「無論です」
いささか強調し過ぎた台詞がかえってきた。
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