土曜の深夜、とうに閉店したあとの『銀羽根』……重原鉄鋼センターの社員食堂が土曜の晩に少しだけ開くスナック……では鍛造がカウンターで酒を飲んでいた。
女の子達もママを除いて引き上げており、小都子は小皿に炙ったイカを乗せて出したところだ。食べやすいように短冊に切ってある。
「ありがとう」
礼を述べたのと同じ頑丈な歯でイカを噛み裂き、むしゃむしゃ食べながら猪口の酒を干した。空になったそれに、小都子はすかさず酌をした。
「まあ、予想していた事ではあった」
再び満たされた猪口を右手にしつつ、独り言のように鍛造は述べた。
普段からカーテンで仕切られているが、将来を見越してピアノと簡単なステージもここ『銀羽根』には設けてある。まだ活躍する場面はなく、何やら恨めし気な雰囲気を放っていた。
今日は『無念! 日本、第一七回東京オリンピックならず』という類の見出しがついた新聞各紙が全国を悲嘆に暮れさせた日だ。六月一五日という日付は、梅雨時も相まって大半の日本人の心を重く湿らせた。
一九六〇年に開催されるそれは、イタリアのローマが勝ち取った。日本は得票数においても各立候補国中最低の四票……ちなみにローマは三十四票……に終わり、折角の復興機運に水が刺された格好になった。
「でも、間違いなく前よりは進んだのでしょう?」
小都子は自分の台詞に内心で驚いていた。
思い起こすと、戸原は優しくはあったし仕事の愚痴は一切口にしなかった。口に出来るような仕事でないのも最初から察しがついていた。
鍛造もまた、滅多に愚痴めいた話はしない。ただ、ここ最近は小一時間ほど店にきて軽く自分の心境を語ったりはしている。
それやこれやが戸原と鍛造を内心で比べているような気がして、彼女は一人で自己嫌悪を募らせた。
戸原の母は、年齢からしても容態からしても高知県から動かせない。金を出して手を尽くすようにはしてあるので、控え目にいっても看護に問題はない。言葉は悪いがどのみち意識もほとんどない。それは、鍛造の説得の一環でもあった。
ともかく、小都子の小さな手は鍛造が取り上げた銚子に応じて猪口を手にしていた。
「次だ。次こそだ」
小都子にお流れを注ぎつつ、再び鍛造はぽつりと語った。
「はい、次」
少しおどけて小都子は猪口の酒を飲み干し、鍛造にそれを返した。
「ママ、津本先生は知っているか?」
「え、ええ……新聞で」
実はそれ以前に『赤手鞠』の地下で会っている。死体の解剖が趣味で戸原に叩きのめされた外道。
個人的な恨みはないし、まして抱かれた経験も全くない。しかし、まさか当選とは。もっとも、どうせ先方は覚えてもいないだろう。小都子から積極的に会いたい人間では決して無い。
「二の矢を放たねばならん。その相談にここを使いたい」
「え? も、勿論、喜んでおもてなし致します」
いまや小都子は『娼婦・蛍』ではなく『女将・小都子』だ。大恩人である鍛造の要望を拒絶出来ない。
「その席には沼橋先生と桑野も同席する」
「桑野さんも!?」
桑野が一方的に自分を嫌っている事くらい、知らない彼女ではない。
「誤解するな、ママをどうこうしたいんじゃ勿論ない。ここからはオフレコだ」
「はい……すみません、声が大きくなって」
「構わん。平気な方がおかしいんだ。いや、とにかく近い内に会合を設ける。こうなったからには第一八回だ」
「はい、とても大切なお話になりますね」
小都子からすれば、とても大切なお話なるものの実態はあやふやで良く分からない。ただ、鍛造が文字通り不退転の決意を内心に誓っているのは理解した。
数週間後。
外は蒸し暑い夜が続いている。社員食堂にはいち早くエアコンが取りつけられていて、その晩の『銀羽根』は閉店してからもずっと涼気をもたらし続けていた。
テーブル席には鍛造、津本、沼橋、桑野が膝を詰め、そこから隔たったカウンターの向こう側には小都子がいる。
テーブルの上には水割りが三杯とオレンジジュースが一杯あった。桑野は酒が飲めないのを一同既に了承している。まだ肴の類は机になく、半ば公で半ば私の席である事は全員が承知している。
「この度は、津本先生並びに沼橋先生にお越し頂き大変光栄です」
津本と沼橋と桑野の名刺交換から乾杯を経て、鍛造がおもむろに口を開いた。当然ながら、名指しされた二人も型通りに礼を述べた。
「さて、今回は少々変わった肴を用意致しました」
鍛造が、ちらっと桑野に目配せした。桑野はうなずき、座席の肘かけと自分の身体に挟むように置いてあった封筒を出した。いつぞや沼橋に出したのと同じ要領で開け閉めするものだ。
封筒から、桑野の少しばかり節くれだった指で引っ張り出されたのは写真付の資料だった。桑野を含むテーブル席の全員に配られると、大して分厚くない量なのがすぐに知られた。
写真は白黒で、パンツ一丁で背中を向けて体重計に乗る男性が撮影されている。身長は一六二、三センチだろうか。
ただ気をつけの格好をしているだけなのに、被写体の背筋は素人目にも分かる程盛り上がっていた。もっとも、プロスポーツ選手という程でもない。
資料自体は被写体の具体的な詳細で、二十代後半の男性、事務職で目立った運動経験はなし云々とあった。
「資料にあります通り、写真にあるのは弊社の事務員です。溶接や鍛造には全く係わっていません。三ヶ月前までしきりに貧血を訴えるような状態でした」
なるべく薄っぺらな芝居口調にならないよう、努めて冷静に鍛造は述べた。
「しかし、こちらにいらっしゃる宮取大学の沼橋先生が開発した栄養剤を定期的に摂取して以来、ご覧の通り貧血の改善どころか筋肉量の明確なる増大を果たしたのであります」
「なるほど、興味深いですね」
会話のタイミングを上手く掴んで津本は相槌を打ち、水割りを一口飲んだ。
「今回、オリンピック誘致で我が国が敗れたのはまことに無念の一言です。しかし、今一度。国民たっての悲願、津本先生から働きかけを何卒」
三人の視線が津本に集中した。
「実のところ、私はまだ一介の陣笠議員です。何かを提言出来る立場にはありません」
津本の反応は、鍛造ならずとも簡単に予想出来たところではある。問題は、その台詞に続きがあるかないか、あるとしたらどんな内容なのかだ。
「ですが、永田町でもちょっとした動きがあります。お返事はその動きを待ってから、としても良いでしょうか」
「それはもう、私どもとしては当然待たねばならないお話です」
「あと、資料はお預かりしても構いませんか?」
「はい」
そこで、桑野は手際良く予備の封筒を出した。軽く礼を述べて津本は受け取った。
オリンピックはアマチュアの祭典とされる。同時に国家の威信をかけた祭典でもある。行事としての成功は当然として、開催国がパッとしないメダル獲得数では意味を成さない。
一同の誰もが知っていて黙っている話がもう一つある。
仮に次々回を東京でするなら、有色人種の国家が主催する史上初のオリンピックとなる。まして日本は敗戦国であり、二重の劣勢がつきまとっていた。
だからこそ、今回の誘致合戦ではローマに屈辱的な惨敗を喫した。第二次大戦中、イタリアは枢軸同盟からいちはやく脱落した経緯もあるから尚更酷い。
沼橋の開発した『栄養剤』は、それらを覆す陰の秘策だった。急成長中とはいえ一介の鉄鋼業者が即席の肉体改造を可能ならしめる薬剤を開発したなどと、誰が想像するだろう。
そして、会社でデータを取得する……つまり実行役の……桑野はあくまでも栄養剤と固く信じている。
実態は、手島が開発し沼橋が改良した筋肉増強ホルモンである。未知の部分が多い代わりに検査に引っかからない。もっとも、主催国である以上どうにでも融通は効くだろう。
被験者の実態に応じてバレないよう各自の症状に合わせた薬剤も処方しているところに鍛造一流の芸の細かさがあった。
「津本先生、お礼にもう一つ甘えたいのですが、よろしいでしょうか」
鍛造としては、どうしても確かめておきたい数字があった。
「何でしょう」
「このお話……いつ頃までにお返事を頂けそうでしょうか」
相手によっては気分を害しかねない際どい質問だった。同時に、ここでしないと二度と出来ない質問でもあった。
「そうですね。確証はありませんが、年度末くらいまでには」
「ありがとうございます。不躾な話ばかりで申し訳ありません。まあ、固い話はそのくらいにして余興に移ろうではありませんか」
「ええ、そうですね。そちらも楽しみにしていたんですよ」
いかにも屈託なく津本が応じた。
「わっはっはっ!」
愉快そうに笑いつつ、鍛造は小都子に向けて軽く両手を叩いた。小都子はうなずき、一度厨房に入った。
ステージと店内を区切っていたカーテンがするすると開き、黒く大きなピアノと一人の弾き手が現れた。ピアノの隣にはマイクスタンドがあり、ちょうど鍵盤の真上でマイクが固定されていた。
弾き手は青紫色のドレスを身につけた女性で、小都子よりはずっと発達したスタイルをしている。まだ二十代の前半くらいだろうか。この日の為に、わざわざ小都子は幾つかの音大を一つ一つ訪ねて回った。宮取大学にはさすがに音楽向けの学科はなかった。
「皆様、初めまして。桐本音大の非常勤講師で、高町 房子と申します。この度は、皆様に本場仕込みのピアノジャズ弾き語りをお届けしようと思います。座間の米軍基地で、元ジャズマンだった憲兵隊の将校から教わりました。最後までお付き合い下されば幸いです」
深々と頭を下げた高町に、一同は熱心な拍手を送った。
そこで小都子が厨房から出てきて、飲み物のお代わりを持って鍛造達の元で膝を曲げた。
「失礼致します。お代わりをお持ちしました」
「ありがとう」
鍛造が、小都子が携える盆からコップを受け取っては津本以下各自に渡した。一瞬、自分が立ち上がってそれを実行しようとした桑野だが、鍛造が手で制した。
その瞬間、小都子と桑野の目があった。互いに鍛造の理解者たらんとするライバル同士が、火花を散らさんばかりに表情を強張らせた。
しかし、それはごくわずかな間に終わった。鍛造にせよ他の人々にせよ、誰も気づいてない。
飲み物が配られ終わり、小都子は盆を小脇にお辞儀して離れた。それを見計らって演奏が始まった。
鍛造は、津本が一番熱心に聞き入っているのにすぐに気づいた。
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