大企業・重原総合科学の半生

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第十話 救出

公開日時: 2020年10月10日(土) 18:10
文字数:4,771

 戸原は、右腕を総支配人から離して頭のてっぺんに乗せた。左手は顎を乗せるように変える。それから、バルブをひねるように力を入れた。


 ごりっと手応えがあり、総支配人の首が折れた。


 次に、ベッドに横たわったまま両手で顔を覆っている女の元へ行く。


 まず喉を握り潰した。女は、戸原の右手を外そうとして必死になったのも虚しく両目を大きく見開いたまま苦痛にもがいた。


 それから両肩に手をやり、関節を外した。両足も同じ運命をたどった。悲鳴を上げようにも喉は潰され手足は思うように動かない。


 残酷なようでもこうしないとすぐに通報されてしまう。死体に加え、身動きも会話も出来ない状態にされた女を目にすれば一種の脅しを察する者もいるとの計算もあった。


 そこで、本棚を戻し診察室を出た。帳場で女将が立ったまま何か喚いていた。どうでもいい。


 靴をはいてすぐに大通りを目指した。幸か不幸か金はたっぷり持って来ている。


 タクシーを拾い、国鉄の川崎駅を告げる。運転手が事情など知るはずも無く、ごく滑らかに出発出来た。


 横浜駅で乗ると、現場が近い事から足取りを掴まれ易くなる。ただ、多少なりとも都合の良い点があるとしたら殺したのが闇稼業の総支配人である事だ。


 下手に通報したら、それこそ幾らでもほこりが出てきかねない。それに、殺害そのものは残った人々からすれば単なる他人に過ぎなかった。


 だから、連中が警察をやり過ごす為の筋書きをまとめるまで少しは余裕がある。


 タクシーに身を任せつつも、『赤手鞠』に着いた後を算段する必要があった。


 場所柄、用心棒の一人二人はいるだろう。無力な素人を連れて逃げる以上、取っ組み合いは避けねばならない。


 客を装うのが一番だが、間接的にせよ政治家と付き合いのある暴力団が経営しているのなら会員制を敷いているに違いない。つまり、一見がおいそれと出入り出来る場所では無い。


 給仕か何かに化けて潜り込むのも考えた。男では、娼婦のいる部屋にはまず出入り出来ない。


 いよいよとなれば鍛造の名前を出そうかと思いついたところで、ふと去年殺した首席秘書を思い出した。


 つまり、秘書には欠員が一人出ている。蛍と一緒に新天地を目指すつもりで、今の身なりもしっかりしたものにしていた。それで目処は立った。後は『赤手鞠』に行くだけだ。


 その日の夕暮れ、戸原は目的地の正門前に立った。『春椿』とはまた違い、書院造りにより忠実な、より古風な建物だった。


 自分自身が助かる為で無く、誰かを助ける為に戦う。


 数々の修羅場をくぐった彼が今自覚しているのは、それが初めての行為だというものだった。ニューギニアで鍛造を助けた時とは全く違う。


 そして、不安。


 これまでの仕事は、綿密な計画を立ててから実行した。極言すれば、始まった時には終わりが見えていた。


 プロなら突発事態にも対応出来るし、しなければならない。何も殺しには限らない。……だからこそ、不安を強く感じる。


 それは一種の警報で、あらゆる困難を想定して神経を尖らせた。虚心に。ただ、彼女を求めて。


 敷地に入った。中庭の飛び石を踏み締め、玄関を開けた。


「ごめんください」


 我ながら抑えの効いた、それでいて良く通る声が出た。


「はい、いらっしゃいませ」


 仲居がすぐに現れた。


「予約していた内山です」


 平然と嘘をつくと、仲居は困った表情になった。


「失礼ですが、内山様でご予約は承っておりませんが……」

「え? 入って無いですか?」


 想定内の問答である。


「はい……確認致しますので、少々お待ち願えますでしょうか」

「ええ」


 一礼した仲居は廊下を歩いてどこかに行き、五分ほどして帰ってきた。


「あの、申し訳ございません。やはりご予約は……」

「おかしいなぁ。先生から確かにここだと言われたんですけどね」


 そこで戸原は続けて、殺した首席秘書が仕えていた政治家の名を出した。


「ええ……。もう少々お待ち下さいませ」


 再び仲居は消えた。今度は、十分ほどかかった。


「申し訳ございません……お客様、やはり……」

「さっき、事務所に電話をかけたんですか?」

「はい」

「そりゃあ駄目ですよ。僕は、先生が個人的に雇った人間なんですから。事務所はそもそも無関係です」

「個人的に?」

「いちいち説明しなけりゃ分からないんですかねぇ! 政治家の秘書には二種類あるでしょうが! 今、先生は国会で忙しいんです! どこで行き違いがあったか知りませんが、僕はいつまでここに立ってなきゃならんのですか!」

「か、かしこまりました。どうぞ」


 完全に圧された仲居は、彼が敷居をまたぐのを認めた。黙ってうなずき靴を脱いだ。


「それでは取り急ぎ、空いているお部屋にご案内致します。先生がおいでになられましたら、すぐご連絡致します」

「分かりました」


 そうやって案内されたのは、玄関から大して遠くない部屋だった。


「何ですか、ここは」

「いえ、空いている……」

「どこまで僕を虚仮にするんですか! 僕は、ここの名物の担当なんです! 案内する部屋が違うでしょう!」


 『名物』なるものが、単なる食べ物で無いのは言うまでも無い。


「は、はい、申し訳ございません。あの、これ以上失礼を重ねてはなりませんので、改めてきちんと確認して参ります。どうか、もうしばらくお時間をお借り出来ませんでしょうか」

「いいでしょう。手短にお願いしますよ」


 仲居は戸原がコートを脱ぐのを手伝い、それを丁寧に畳んで渡してから最敬礼で頭を下げた。そして、可能な限りの速さで立ち去った。


 仲居の歩幅はもう掴んでいる。十歩……二十歩……三十歩で左に曲がった……さらに十歩……二十歩。止まった。


 ドアを二回、連続してノック。少し間を置いて、もう一回。ドアが開く音がした。すぐに閉じた。


 それを頭に叩き込みながら部屋に入り、座布団に座って暫く待った。


 目の前のちゃぶ台には陶器製の灰皿がある。手にすると、まず一、二キロはあろうか。もう十分ほど時間が経って、ふすまの向こうで誰かが座る音がした。


「内山様、よろしいでしょうか?」

「どうぞ」


 ふすまが開かれ、正座する仲居と男が一人立っていた。でっぷり太っているが、腕の盛り上がりはなかなかのものだ。用心棒なのはすぐ分かった。


「こちらにいる者が……」


 仲居が言い終える前に座ったまま灰皿を取り、男の眉間に投げつけた。狙いは過たずに直撃し、脳震盪のうしんとうを起こした男は灰皿ごと仲居の上に倒れた。


 仲居の身体がクッション代わりになって大きな音は立たず、仲居も潰されて気絶した。


 ここで初めて立ち上がり、仲居の足取りから確かめた通りに歩く。


 なるほど、『故障中』と札のかかった男性用手洗いがある。聞いた通りにノックすると、鍵が外れる音がしてドアが開いた。


 今度は中肉中背の男が現れる。間髪をいれず、後頭部に手刀を叩き込む。勝負は一瞬でついた。


 その男を戸口の裏に押し込みがてら、室内に入ると一応は本物の手洗いになっていた。小便器が五つ、個室も五つ。


 しかし、何故か大便器が……珍しくも洋式だ……通路の上に置いてあった。


 ドアを締めて施錠し、男を一番手前の個室に入れてから一番奥の個室を開けた。そこは、便器では無く取っ手のついた上げ蓋があった。軍艦のハッチのような案配だ。通路のあれは偽装だろう。


 取っ手を持ち、一息ついてから持ち上げると……相当な重さだが……手すり付の螺旋階段が現れた。


 どこかに電球でもあるのか、それなりに明るい。それと引き替えに、二つの『異質』があった。


 まず、臭気。換気はしているようだが、湿ったコンクリートの臭いに満ちている。それから、湿気。どこか、じめじめべたべたしている。とにかく階段に踏入り上げ蓋を閉じた。


 螺旋階段を降り切ると、大人が三人並んで歩ける程の廊下の端になっていた。


 廊下はずっと延びていて、両側の壁に等間隔にドアが並んでいる。


 一番手前の、螺旋階段を背にして右側のドアには『更衣室』とプレートが釘打ちされていた。その隣は『手術室』とある。


 堕胎や性病の治療をする部屋かと思っていたら、『手術室』のドアが開いた。血まみれの白衣を身に付けた男が現れる。


 この機を逃さず素早く踏み込み、右手の指を五本そろえて喉仏に突き入れた。相手は呻き声一つ立てず、喉をかきむしりながら床に膝を着いた。意識を失う程ではない。


 その場で抱え『更衣室』に入った。そこは文字通りの更衣室では無かった。どちらかというと小さな舞台で、三脚付のカメラまで構えてある。


 舞台の脇には、衣装棚とおぼしき棚が壁際にずらっと並べてある。まるで撮影室のようだ。良く見ると舞台の隅にはベッドもある。


 白衣の男を舞台の前に投げ出し、苦痛を味わう暇さえ与えず胸を踏みつけた。


「あんた、ここに今日来たばっかりの女がいるの知ってるだろ? 検梅したはずだよな?」


 政治家も絡むような娼館なら、必ず新入りには梅毒の検査をする。用心して土佐弁は使わず標準語で語りかけた。


「私は医者じゃ……」

「つまらん嘘をつくなよ」


 靴の踵に力を入れると、恐怖が身体全体に広がって行く感触が伝わった。


「私も客なんだ。医者の真似事をするのが楽しみで来ているだけだ」

「なら、その血は何だよ」

「解剖だ」


 余りにも予想から外れた返事に、危うく力を緩めるところだった。


「私は死体の解剖が趣味なんだ」

「けっ、外道が」

「待て、大事な情報を知っている。生かしてくれるなら教えるぞ」


 満更でも無い様子に、さすがの戸原も少し手心を加える気持ちになった。


「この娼館には非常用の出入口がある。そこには門番が一人いる。ソ連からやってきた軍人くずれだが腕は恐ろしく立つ。ピストルも持っている。そのソ連人は、娼館全ての鍵を開けられるマスターキーを預けられている」

「どうして、ソ連人がそこまで信用されるんだ?」


 終戦直前、日ソ中立条約を一方的に破棄し中国東北部で残虐の限りを尽くした極悪非道の国家……ソ連に対してそうした見方をする日本人は少なく無かった。


「政府は、何もアメリカにだけ媚を売るつもりは無いんだ。ソ連の機嫌にも注意しておかないと、もし戦争が始まったら、一方的にアメリカの尖兵にさせられかねない。この娼館は、ソ連の政治家や軍人を接待する意味にも使われているんだ」

「どうして、そんな事を知ってる」

「私は政治家の秘書だ」


 なるほど、土壇場でのふてぶてしさはうなずける。


「名前は。お前の名前と、雇い主だ」

「私は、津本 宗次郎」


 その津本の雇い主とは、どうした皮肉か戸原がハッタリを噛ませた政治家そのものだった。


「それじゃあ、門番の名前も知っているなら聞いておこう。どこにいるかもな」

「名前はウラジミール・ガリスキー。廊下の突き当たりのドアを開けた部屋にいる。その部屋は、戦時中の防空壕につながっている」

「他に知っている事は?」

「無い」


 戸原は、寛大にも約束を守る事にした。津本の顎を蹴り上げそのまま昏倒させる。


 ガリスキーなる門番と取っ組み合いをするのは、どう考えても得策では無い。その反面、避けては通られない。


 元来た道は今頃大騒ぎになっているはずだ。まだ宵の口で、ここまで来る客がほとんどいないのが救いといえば救いだった。


 何か使えそうなものがあるかも知れず、『更衣室』を出て『手術室』に入った。


 戸口をくぐってすぐ目にしたのは、真向かいの壁際に置かれた頑丈そうな木の棚に陳列された標本ビンの数々だった。


 心臓だの肝臓だのがホルマリン漬けになっている。部屋の中央には手術台があり、円形の本格的な明かりの下で赤黒い血の染みを残していた。


 もっとも、死体は無い。手術台の脇には車輪付の小さな台があり、メスや鉗子を並べたアルミ製の四角い皿が乗っていた。注射器もあった。


 予備のホルマリン容器を見つけた戸原は、注射器を手にして中身を吸い上げた。ついで注射器を袖に差し込み、外からは見えないようにした。メスも一本持っていく。武器を仕込み終え、『手術室』を出た。

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