大企業・重原総合科学の半生

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第二十三話 経営方針

公開日時: 2020年10月14日(水) 21:10
文字数:3,008

 いつものように入浴と夕食を済ませてから、鍛造はつぐみと寝室に入った。


 鍛造は寝巻きを身につけ、ベッドに入っている。


 つぐみは珍しくも鏡台の前に座っていた。背もたれのない丸椅子がきしんでいる。椅子はクッションを中に入れた寸胴型をしていて、上半分が回転するようになっていた。


 起きた時に簡単な化粧くらいはするが、寝る前に顔の手入れをすることは滅多にない。


 出産を経て年齢を重ねた事もあり、つぐみの身体はいささか横に膨らんでいる。無論、だからといって愛情が冷めることはない。


「あなた」


 いつになく改まった様子でつぐみは切りだした。


「何だ」

「会社……危ないのですか?」


 鏡に向かって保湿クリームを顔に塗りながら彼女は聞いた。


「そうだ。だが、手は打っておいた」


 横になったまま、鍛造は事実を口にした。


「あなた。少し相談があります」

「どうしたんだ、改まって」


 つぐみは椅子を回転させて鍛造に身体を向けた。鍛造からしてもさほどは上手でない化粧がかえって真剣さを伝わらせた。


「おいやでなければ私を会社に復帰させて下さいませ」

「なのはどうなる」


 鍛造には、既婚者の女性が会社で働く事への偏見はない。一方で育児には疎かった。


「ちゃんと育てます。ばあやもいますし」


 実のところ、煮炊きも裁縫も不得手なつぐみの為に鍛造が家政婦紹介所にかけあって雇った。良く働くし、なのも懐いている。


「分かった。明日にでも重役に話をしておこう」


 つぐみの結婚で落胆したファンクラブの何人かは、役員か役員待遇まで出世している。小都子の親衛隊は定年が間近になっている社員がほとんどだ。


 不景気で消沈しがちな会社につぐみが穏やかな変化をもたらすなら、それはそれで歓迎する話ではあった。


「ありがとうございます!」


 ここ数年で一番華々しい笑顔になるつぐみであった。


「家事よりは仕事が好きか?」


 鍛造は余裕を見せてからかった。


「あなた、変な質問はしないで下さいませ」

「わはははははは。すまんすまん」


 鍛造も、久しぶりに妻に向けて笑った。


 数週間後の夜。


 相変わらず右往左往するままの世間を通り抜け、武道館極秘地下室に鍛造は再び現れた。顔触れは前回と全く変わらない。


「結論から申しましょう。重原社長、五井銀行いついぎんこうさんが御社への融資を決定しました」


 津本の発表は、地獄に仏を地で行く心地であった。かに思えた。


「ありが……」

「続きがあります」


 躍り上がらんばかりの鍛造を、津本は一言で制した。


「まず、御社のスポーツ医学部門は無条件かつ無償で五井銀行さんに譲渡して下さい」


 無表情に津本は宣告した。これから新機巻き返しの梃子てこになるはずの部門だ。つぐみも復帰する予定になっている。


「はい」


 背に腹は変えられない。受け入れる他はなく、即答した。


「無論、経営再建の目処が立てば元通りになる可能性があります。それは、五井銀行さんと別途協議して下さい」

「分かりました」


 まだしもの温情と解釈した方が良いだろう。その気になれば鍛造を完全に会社から追放する事さえ出来るのだから。


「では」


 津本が二佐に目配せした。二佐は黙ってうなずいた。


「私どもからも要望があります」

「何でしょう」


 単なる経営問題で済むとは思っていないが、『栄養剤』の利権でもせがまれるのだろうくらいに予想している


「北海道の稚内にある施設を作ります。重原総合科学さんには施設の建築から運営面まで私どもからの指示に応じてご協力頂きたい」

「施設……?」


 鍛造でなくとも首をひねる。もっとも、津本は最初から二佐と全て打ち合わせ済みといわんばかりに落ち着いていた。


「社長が推進して来られた秘密避難所、これは実に素晴らしい。まさに国家百年の計に値します」

「ありがとうございます」


 今更改めて評価されるまでもないにせよ、とにかく礼を述べて先を待った。


「それとは別に、ベトナムで米軍は敗北を喫しました。アジアのパワーバランスは大きく共産主義陣営に傾いています」


 莫大な戦費と泥沼化した戦局、ハノイを始めとする北ベトナム無差別爆撃への西側諸国を含む国際的な非難。いかに超大国といえども限界があった。


 オイルショックに先立つ約半年前、アメリカ合衆国はパリ和平協定を結びベトナムから撤退した。少数の米軍将兵が残留はしたものの、大勢を覆すには到底及ばない。


 アメリカが手を引いた以上、北ベトナムが南ベトナムを降すのは時間の問題であろう。他のアジア諸国も影響を受けざるを得なくなっている。


「つまり、北海道にソ連を牽制する施設を作るのですか?」


 北ベトナムは同じ共産主義陣営でも中国と決裂してソ連と手を組んでいる。


 そのソ連は大戦末期に日ソ中立条約を一方的に無視して日本に大損害をもたらしていた。北方領土はソ連が実効支配し、当分返還される気配はない。


 ソ連が北方領土を中継基地にして日本を攻撃する可能性は、日本の国防にとっていつでも頭痛の種であった。


「さすがは社長。半分正解ですよ。この話に資料はありません。この場でだけご決断頂き、あとから随時計画をお伝えします。それはそれとして、ご承諾頂けますかな」

「はい、かしこまりました」


 駆け引きが打てる立場ではない。忍の一文字に徹せねばならない。


「結構。私どもはこれを、『蛍光灯』と秘匿ひとく名称で呼んでおります。『蛍光灯』という言葉自体には何の意味もありません」


 それは理解出来るが、場違いにも先日風呂場でぼんやりと眺めた蛍光灯を思い出してしまった。


「それで、施設ですが、表向きは民間の天候観測所です。予算についてはご心配なさらないで下さい」

「はい」


 とても手放しでは喜べないが、感情を圧し殺さねばならなかった。


「実際には、天候観測所の地下から海底トンネルを掘ります。最終的には樺太まで到達させます」

「樺太!」


 例えて表現するなら、対馬から朝鮮半島に向けて海底トンネルを掘ろうとでもいうのと変わらない。


「厳密には、樺太に到達する寸前で一度工事を中止します。有事においては速やかに樺太に至り、それを足場にしてモスクワを襲撃します。無論、米軍との連携が大前提です」


 正気の沙汰とは到底思えない。狂っている。第三次世界大戦を通り越して最終戦争だ。ソ連でなくともそんな作戦を指をくわえて座視するはずがない。いよいよとなったら全世界に核ミサイルを発射する程度のことはやるだろうし、それが予測できないはずがない。


 二佐が理性的で冷静な人間なのはとうに分かっているだけに、これはもう恐怖映画としかいいようがなかった。


「わ、我々もその作戦に参加するのですか?」


 声が上ずる鍛造。


「いえ、いうまでもなく実戦は自衛隊だけで行います。御社はあくまでも施設の建築だけです。秘密は遵守して頂きますが」

「ご、ごもっともです」

「どうやら話が通ったようですね。来週には五井銀行さんから具体的な話がくるはずですよ」


 完璧な締めくくりだろうといわんばかりに津本が伝えた。


「な、何から何まで感謝の言葉が見つかりません」


 まるで自分自身がロボットになったような気持ちだ。身体のどこかにある見えない配線を探そうとするかのように、手足がすくみながらかすかに動いた。


 会合は終わった。


 いつもの手順で散会を果たした鍛造だが、重役や株主より先に妻の了承を得ねばならない。


 東京オリンピック以来、つぐみにとって会社のスポーツ医学部門はそれこそ娘さながらである。


 いくら一時的に手放すだけだと考えようと、現役復帰を楽しみにしているつぐみには残酷極まる話だろう。

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