絶対零度がもし達成されれば、あらゆる物体は停止するという。
その瞬間、武道館には絶対零度が訪れた。
閉会式はまた別として、競技の最終日に当たる十月二三日。柔道無差別級決勝戦で、十分の制限時間における九分二二秒。
日本代表、神永明夫は破れた。金メダルはオランダ人のヘーシンクが獲得した。
柔道は即ち武道であり、こと無差別級においては体格に関係なく実力のある者が勝者となる……と、される。
貧しい家庭に生まれ、人生に一度も自信らしい自信を持てなかったヘーシンクに金メダルをもたらしたのは彼自身のたゆまぬ鍛練と……日本人コーチ、道上伯の非常に秀抜な指導あったればこそだった。
絶対零度を最初に溶かしたのはヘーシンクに付き添ったオランダ人達であった。
我先にと試合場である畳の上に登ろうとする彼らを、黙ってヘーシンクは手で制することで精神的な意味でも金メダルに値することを示した。
それは柔道が日本だけの武道でありスポーツである状態が溶け去った瞬間でもあった。
日本人コーチの手も借りた上で、外国人が柔道なるものを世界中に開かせたのである。
「番狂わせもいいところですな」
武道館の極秘地下室で、ラジオを切りながら沼橋は落胆した。彼とて素朴な意味で神永には勝って欲しかった。
「いや、銀メダルだって大したものですよ」
淡々としているというよりは穏便な口調で鍛造は応じた。
実のところ、桑野から神永が左膝に大怪我を負ったと連絡が入っている。桑野はどうにかして試合を中止させたかったようだ。
負傷棄権など周囲が云々以前に本人が絶対に受け入れるはずがない。
事実その通りになった。神永もまた一流の選手だから、銀メダルに腐ったり不満をぶちまけたりすることは全く考えられなかった。
「名は外国に取らせて、我々は実を取れば良いでしょう」
同席していた陸自三佐……制服組から派遣されている鍛造や津本の直接の『仲間』……が鍛造の意見を間接的に補強した。日本が破れたことで、かえって柔道が世界中に広がるなら大局的には結構な話である。
もっとも、三人には別な意味で共通するもう一つの『実』があった。本来なら津本も同席しているところながら、所用で席を外している。
今回の会合もまた、津本がいて沼橋がいなかった前回と同様に机の上に資料がある。沼橋がもたらしたもので、ある実験の結果をまとめていた。
「ともかく、『栄養剤』は精神にまでは影響を及ぼさない事が判明しました。どちらかといえば、それこそ覚醒剤でも使った方が有効でしょう」
「ふむ……。健全なる精神、健全なる肉体に宿らずですな」
いささか残念そうに三佐はまとめた。未練というべきか、右手で資料をぱらぱらめくりながら冷めた料理を眺める表情になった。
最終核戦争が起こり、シェルター生活を余儀なくされたとしたら社会からの刺激はおろか日光さえままならなくなる。
それで、三佐は極秘に自衛官達から志願者を募って耐久実験を行った。
実験そのものは沼橋が全権を預けられ、例えば完全なる暗闇で音も匂いも温度変化もないまま何時間耐えられるかといったことを確かめた。
人間は、先の見通しもないまま一切の刺激が遮断されると四八時間かそこらで大なり小なり精神に変調をきたし始める。志願者を拷問するのが目的ではないから程々に切り上げた。
つまるところ、仮に避難がうまくいったとしても精神の動揺はむしろ肉体より早く訪れる事が判明した。
「まさか覚醒剤をばらまく事は出来ません。ただ、乱用者の死体を解剖すれば、新しい手がかりが得られる可能性はあります」
いかにも粘り強そうに沼橋は説明した。
「なら警察にでも手を回した方が良いでしょう。津本先生のお力を借りねば」
どうせ犯罪者の死体であるから手間は取らないだろうと鍛造は踏んでおり、その為に悲観を感じさせない口調になった。
「案外、乱用者になら『栄養剤』が効くかも知れませんよ」
三佐が冗談めかすと、鍛造も沼橋も軽く薄い笑いが我慢出来なかった。
いずれにせよ津本に渡りをつけるなら鍛造の役目となる。その結論をもって散会となった。
先日と同じ要領で地上に出ると、柔道の結果に影響されてかオリンピックそのものの閉幕を意識してか、微妙に道行く人々の表情は沈んでいるように感じられた。
「今日は、重原さん」
聞き覚えのあるたどたどしい日本語が背後からかけられ、ぎょっとしながら振り向くとパーカーがにこにこしながらすぐ傍にいた。
「あ、ああ、ロックジェラルド君」
「パーカーで構いませんよ、社長」
少しおどけた様子でパーカーは返した。
「良い記事は書けたかね」
「はい、お陰様で。柔道、残念でしたね」
「確かに。だが、君からすれば絶好のネタだろう」
「はい。でも、社長には少し違う事を伺いたいです」
「違う事?」
おうむ返しを言葉にしつつ、鍛造は眉をひそめた。
「僕の父は、座間基地の憲兵将校でした。ジープで転落事故を起こして殉職したそうです」
やはり……。恐怖はないものの、緊張に値する予感が実現した。
「それは気の毒だね。ひょっとして、来日はお父さんの事も踏まえてか?」
「はい、そうです。父はテニスの付き合いから日本の政治家と接触を持っていたと聞きました」
「その歳で素晴らしい取材能力だ」
大人顔負けとはこの事だろう。日本が戦争に負けたのも何となくうなずけてしまう。
「ああ、いえ……。父は、必ずしも自分の同僚から良く思われていませんでした。スタンドプレーで手柄を立てたがっていたと、アメリカに帰国した同僚の一人から聞いたんです」
「じゃあ、テニス云々はアメリカで聞いたのか」
「はい。ただ、父の殉職は……ひょっとしたら、都合の悪い事実を知りすぎたせいじゃないかなっていう疑問が出てきたんです」
「どうして」
「父の殉職現場を確かめました。確かに見通しの悪いカーブで、事故が起きても不思議ではありません」
「それで?」
「そもそも何故父は、そんな場所に一人で出かけねばならなかったんでしょう」
「さあなあ。私に聞かれても分からないな」
パーカーと真っ直ぐ顔を合わせつつ、鍛造はシラを切った。
「僕はまだ憶測さえ立てられない状態です。日本にいられる期限も迫っています。一つ手がかりがあるとしたら、日本の政治家が直にテニスで父と話をするんじゃなくて秘書なんかが……」
「申し訳ないが、君の推測にコメント出来る事は何もないよ」
パーカーが誘導尋問か何かで自分を追い詰めているとは思えない。あくまでも、たまたま本来の取材に重なる形で二回会ったきりだ。
もし確実な手がかりを掴んでいるならそれこそ一人で来るはずがないだろう。
「ええ、その通りです。申し訳ありません。その……誰かに聞いて欲しくて」
「気持ちは分かる。それじゃ、良い記事をまとめてくれ」
社交辞令を進呈し、鍛造はパーカーから去った。実際、津本に速やかに段取りを相談せねばのらない。
丁度、横断歩道が青になった。パーカーはそれを渡り始めた。即座に背を向けても良かった鍛造だが、無意識に良心が痛んだのかつい見送った。
その時、通りの向こうからトラックが一台突っ走ってきた。明らかに制限速度を無視している。
パーカーは背が高い分足が速く、他の歩行者を追い越して一人だけで向こう側の歩道に至ったところだ。トラックはパーカーめがけてハンドルを切った。
「危ない!」
鍛造は叫び、他人を押し退けながらパーカーに走り寄った。
ただならぬ気配を感じて振り返ったパーカーが鍛造とトラックを交互に見比べて身体を強張らせた時、辛うじて鍛造はパーカーの肩に手をかけ路上に背中から倒した。
代わりに鍛造の身体が前のめりになり、トラックは彼の腕をひっかける形で通り抜けた。
鍛造は空中でコマのように回転しながら路面に叩きつけられ、即座に意識を失った。
気がつくと、病院のベッドの上だった。どうやら違う世界に連れて行かれずに済んだようだ。
もっとも、手足は全く動かず口さえ思うように開け閉め出来ない。
右腕に刺さった点滴針とチューブ、その根元に当たる点滴ビン、それらを支える車輪つきのスタンド。
スタンドの向こうにはカーテンを閉じられた窓があり、かすかに日光が差していた。その、暗闇と光彩がまだらになったさなかに桑野がいた。椅子に座ったまま眠っている。
「く……くわ……」
滑らかに喋られないのは、苦痛でもありもどかしくもある。
「くわ……の……桑野……」
桑野がかすかに目を覚ました。途端に弾かれたように立ち上がった。
「社長! 社長! 良く……良く気がつき……」
それ以上は、涙が溢れて台詞にならなかった。
桑野は鍛造の枕元に近寄り、涙で濡れそぼった顔を近づけた。
「本当に……本当に心配しました」
「す……済まない……」
「いいんです。ロックジェラルド君から聞きました。社長らしくて尊敬します! でも、もう二度と……」
桑野は改めて泣き始めた。両手で自分の顔を覆い肩を震わせる姿に、鍛造は何もかもぶちまけたくなる気持ちを押さえつけるのがやっとだった。
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