大企業・重原総合科学の半生

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第二十話 継ぎ目とけじめ

公開日時: 2020年10月13日(火) 21:10
文字数:3,375

 秋もそろそろ終わりかけになってきた。窓越しに、風に巻かれた落ち葉が見える。リハビリ室にほこりが入ると良くないので窓は閉めたままだ。


 車椅子から立ち上がる時、桑野が手を貸してくれた。小柄だがしっかりした力強さの反面、決して押しつけがましくない形で支えられて鍛造はリハビリを始められた。


 平行棒に両手をついて、一歩ずつ進む時には桑野はいなくなっていた。本来の仕事を進めるべく会社に戻っている。付き添いは鍛造が入院している病院の看護婦が引き継いだ。


 毎朝鍛造の病室にきてリハビリ室まで付き添うのが彼女の、というより二人の日課になっていた。


 平行棒に密着した自分の両手をほんの少し眺めてから、丁度自分の正面にある窓ガラスをしっかと見据えて少しずつ進む。


 その一歩一歩が、鍛造の肉体のみならず精神にもなにがしかの影響をもたらすのはむしろ必然だろう。


 鍛造は、世間からすればひき逃げされた気の毒な負傷者である。当然ながら自分自身の目的も一時的にせよ遠のかざるを得ない。


 あのトラックは、明らかにパーカーを狙っていた。放っておけば彼こそ跳ねられて即死しただろう。それは、結果として鍛造にも有意義だったはずだ。


 それをしなかった事で、パーカーが真相にたどり着いたらどうなるか。


 実のところ、彼は勤務先の命令で滞在期日を残したままアメリカに引き上げた。その間鍛造は意識不明の重体で、伝言の類もない。


 恐らくは、ロックジェラルド少尉は重大な国家機密に別な形で係わっていたのだろう。


 今回パーカーが生き延びたのが誰にとっての計算外かは不明瞭ながら、それ以上詮索される危険性はなさそうだ。


 パーカーも死なせずに済み、自分の秘密も保たれたのであるから喜ばしいはずだ。にもかかわらず鍛造は……不快ではないものの……単純には割り切られない。


 事故から今に至るまで、小都子は一貫して顔を出していない。


 桑野によれば鍛造の負傷で動揺する社員達を激励し、差し当たり重要な決裁は重役で合議を敷くようにした上で津本にも挨拶に行ったそうだ。


 だから、顔を出す余裕などあろうはずもない。感謝しこそすれ腹を立てる筋合いなど一つもない。


 それでいて、つい考えてしまう。意識が回復した時に病室にいたのが小都子だったらどうなっただろう。二人で情に溺れて会社を駄目にしたかも知れない。


 そんな想像を働かせつつ、手術から何日も寝たきりになっていた四肢に力を入れて平行棒の向こう側を目指した。


 皮肉なことに、戦時中にニューギニアで体験した苦難が鍛造の回復を速めていた。無論、会社を心配する気持ちもある。


 そうした事どもとは別に、桑野は純粋に鍛造の回復を早める為だけに毎朝現れた。


 意識を回復するまでのいきさつは教えてくれた。それより深い仕事の話をしようものなら泣いて怒るので口をつぐむ他はない。


 平行棒の端まで着いた。木枯らしに窓が揺れている。


 無言無表情で、ゆっくり振り向きながら平行棒についた手を入れ換えた。決められた回数を往復せねばならない。確実に、確実に自由に歩き回れる日々は近づきつつある。


 翌朝。


 朝食を済ませた鍛造の元に桑野の他もう二人の見舞い客が現れた。


「もっと早くに伺いたかったのですが、申し訳ありません」


 津本が頭を下げる一方、高町はカトレアのアレンジメントをベッド脇にある小さな机の上に置いた。


 彼女の左薬指に銀の指輪がはまっているのが鍛造に見えた。無論、津本にもそれはあった。


「こちらこそ、肝心なところでつまらぬ事故に遭いまして」


 桑野をちらっと見やってから鍛造も詫びた。その桑野は、高町の華やがんばかりの幸せそうな美しさと自然な気品に見とれている。


「少々場違いな話題かも知れませんが……私共二人、ついに入籍しました」


 何度も原稿を読んで訓練したような、滑らかな口調で津本は報告した。


「おめでとうございます」


 図らずも異口同音で鍛造と桑野は祝福し、顔を合わせた。高町が小さく笑った。


「失礼続きになりますが、披露宴の日取りが延長出来なくて重原さんの退院日に間に合わなくて……。せめて、直にお話しようと思ったんです」

「それはわざわざ、何とも恐縮です。祝電くらいは打ちますよ」


 半ば冗談めかして鍛造は述べた。


「いやあ、天下の重原総合科学さんに祝電を打って頂けるとは不肖津本も……」

「あなた」


 高町が……いや、もう津本夫人か……そっとたしなめた。


「う、いや、失礼しました。では、私共はこれで」

「はい、お幸せに」


 二人が去り、病室には鍛造と桑野とカトレアが残された。


「素敵なご夫妻ですね」

「う、うむ」


 武道館の極秘地下室云々を、桑野はもちろん高町に至っては想像すら出来ないだろう。


 津本が妻にさえそうした秘密を打ち明けない人間なのは良く知っている。鍛造もそうした一面を持つだけに。


「なあ、桑野」

「はい」

「退院したら、久しぶりに車を運転したいんだが……ずっと付き添ってくれないか?」


 それは、二人きりの環境であっても相当際どい発言だった。鍛造は、人生で何度か感じた機をまさに今実感していた。


「あのう……私、運転免許を持っていませんし」


 控え目に遠慮する桑野は、鍛造が初めて目にする少女めいた清純さがあった。看護学生時代から続く生真面目さとはまた違った一面だった。


「そりゃ構わん。あ、いや、あくまで君の自由意志だ」


 慌てて鍛造は付け加えた。


「小都子さんには……頼まれないんですか……?」


 顔を伏せながら桑野は聞いた。


「私……いや、俺は君に頼んでいるんだ」


 鍛造はとっくに四十代に入り、桑野は三十路前後である。だというのに、二人の会話はまるで思春期の学生さながらだった。


「はい……分かりました。事故を起こさないで下さいね」

「ありがとう。運転の方も慎重にリハビリしないとな」


 二人はそれからしばらく見詰めあった。自然に顔が近づき、そのまま唇同士をつけた。


 それから2ヶ月。


 オリンピックの熱気も年明けと共に一段落し、昭和も四十年代に入った。


 かつて造船疑獄で追い詰められ、首の皮一枚で助かった佐藤栄作が首相になっている。


 去年、永田町で佐藤は池田首相の経済拡張路線に反対している。東京オリンピックの三ヶ月前に開かれた自民党総裁選では、僅差で池田首相に破れた。


 その池田首相は東京オリンピックに前後して体調を崩し、引退を余儀なくされていた。佐藤『新』首相は、いわば繰り上げ当選のようなものだった。


 池田元首相も佐藤新首相も吉田茂の薫陶を受けた政治家である。俗に吉田学校といわれたメンバーであり、良くも悪くも永田町の何たるかを知り尽くした人々だ。


 津本は佐藤新政権で建設省政務次官に就任した。高町との結婚も踏まえ、まさに順風満帆と称するに相応しい。


 沼橋は宮取大学の医学部長となり、東京オリンピックで得たデータの整理と解析に没頭する一方で学長の座をめぐる根回しを進めていた。


 そして、鍛造が久しぶりに一晩の酒を求めにきた『銀羽根』では彼を交えた三人の男女がボックス席に座っていた。


 店は、表向きには閉店している。新春の祝賀気分がどこかに消え去ったような深刻さが三人の間に横たわっていた。


「前々から気づいてはいました。社長の事故以来、小都子さんが社長と……その、個人的に会った事はないとも信じています」


 一番若い桑野が切り出した。


「私としては、気づいたのが丁度事故の起きた辺りでした」


 小都子が同じような言葉を用いた。


 二人の女性が口にした気づきとやらは、微妙に示すところが異なった。その癖二人が抱えている事情も原因も共通していた。


 鍛造は、自分が妊娠させた二人の女性を前に責任と決断を取らねばならない。よもや二人と同時に結婚するわけにもいかない。


 年明け早々会社に復帰してたまった案件を処理し、久しぶりに『銀羽根』を求めた矢先だった。


 鍛造は決して小都子にその気があってきたのではなく、社長として彼女をねぎらい褒美の話でもしようかと考えていた。


 珍しくも小都子の方から褒美をねだられ、妊娠を告げられたまさにその時に銀羽根のドアが再び開いた。


 閉店の札はかけるものの、施錠は小都子が店を出る時なので物理的には出入りが可能なのである。


 桑野が彼女なりに思い詰めた結果、わざわざ鍛造と小都子がいる席を狙って自らの妊娠を告げようとしたのは明白だった。


「いずれにしろ俺の責任だ。それで、俺の考えを聞いてくれ」


 鍛造は、最後に口を開いた。

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