大企業・重原総合科学の半生

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第七話 手桶で水を

公開日時: 2020年10月9日(金) 18:10
文字数:4,120

 蛍の元を離れてから数日が立っていた。


 豊島区にある、うらぶれたアパート『青龍園』は一階が雑貨屋で二階が雀荘だった。


 それぞれ別な人間が経営していて、挨拶はするが交流は無い。


 終戦直後、ある人物が闇市で立てたバラックが出発点だそうだ。木造なのはともかく隙間風を張り紙で防ぐような体たらくで、その癖二階からは異様な熱気が下まで漏れて来た。


 戸原は、蛍と会う時以外は二階で麻雀を遊ぶかこのアパートの近くにあるドヤ街で寝泊まりするかだった。麻雀はレートの低い勝負でゆるゆる楽しむようにしており、単なる風来坊で通っている。


 そんな彼が、一階で店主に会うのは私設私書箱を確認するのが目的だった。私書箱は一か月ごとに料金を払うようになっており、鍵は戸原自身が管理している。


 ただし、開ける時は余計なトラブルが無いよう店主が立ち会う約束になっていた。


 頭上からは、牌をかき回す騒がしい音、誰かが上がった時の勇ましい掛け声、金の出入りを彩る罵声や嘆息。


 闇市で買ってからずっと愛用している厚手のトレンチコートに黒く分厚い手袋を身につけた格好で、戸原は鍵を回した。


 昨日までは空だった。今日は……あった。


 ごく自然な流れで封筒をポケットに入れ、鍵をかけた。


 誰かが麻雀で上がったようだ。歓声が上がり、天井から吊るした縁の欠けた傘つき電球がぐらぐら揺れた。


 そんな混沌を浴びながら店主に目礼し、そのままアパートを出て雑司ヶ谷霊園に向かった。


 年が明けて間もない、それも日の入り後とあっては骨身に沁みる冷たい風が墓石の間をすりぬけている。


 こんな時分に墓地を訪れる人間など、戸原以外にいるはずが無かった。


 明かりは懐中電灯を持ってきている。誰か知らないが立派な造りの墓の石段に腰を降ろし、懐中電灯をつけてから手紙を出した。


 封を破り中身を読むと……かなりの大仕事だ。アメリカ軍の憲兵将校の暗殺とは。それも、出来るだけ早く。


 ロックジェラルド少尉……ソ連スパイ網の捜査中、か。顔写真こそ無いとはいえ、ロックジェラルドが鍛造に要求したリストを送るのに使う連絡先……座間キャンプ……も記してある。


 そこから先は戸原の仕事だ。


 暗号文を封書に入れ直し、墓の石段に座ったまま戸原は段取りを頭の中で練った。


 元々、銃はそれほど使わない。弾丸がどうしても現場に残るので足がつきやすい。


 鍛えられた手刀や蹴りこそが音を立てずに相手を葬る最良の武器だった。


 しかし、相手もただの青年将校とは思えない。わざわざ手足の届くところまで近づけるとは到底思えなかった。


 だからといって日本国内で米陸軍の将校を銃殺したら大騒ぎになるのは明白だ。やるなら事故に見せかけた方がいい。車か、毒か。


 ロックジェラルド自身の顔を知らない事については大して問題ない。何なら自分が直接基地に潜入して拝めば良かった。


 戸原は戦前に大阪の商社で働いており、英語を多少はかじっていた。郵便局員にでも化けて間違って配達された書留を引き取りに来たとでも言えば、それほど怪しまれずに会えるだろう。


 それより、彼を基地の外に誘い出す手立てが必要だ。こちらから相手の予定を知るのはまず不可能と言っていい。


 それなら、相手が自分から外出の予定そのものを立てるように仕向ける必要がある。


 右の手袋のごわごわした感触を顎でこすりながら、戸原は確実な計画を組み上げて行った。冷ややかな墓石の数々が、じっと戸原の痩せた横顔を眺めている。


 翌日。


 戸原は郵便局に行った。窓口に向かい合う形で書き物をする机があり、削った鉛筆とボールペンが置いてある。


 つい最近、オート社が日本企業としては初めてインクの滲まない完璧な鉛筆型ボールペンを製造し販売していた。


 戦前からボールペンはあったし、それを発明したのは日本ではない。しかし、より本格的な実用に耐える品をオート社が作ったのはそれに勝るとも劣らぬ偉業だった。


 戸原はペン先の感触を気に入っていた。万年筆も好きだし鉛筆も良く使う一方、ボールペンは戦後の日本のささやかな象徴だと思っている。


 殺し屋をしている彼が仕事以外の内容で……つまり、純粋に個人的な感覚として……世間に触れられるのはボールペンだった。


 そのボールペンを使って、これから自分が暗殺する人間に偽手紙を書く。


 内容は、ごく卑俗なラブレターだった。それを封筒に入れ、サングラスをかけた米軍兵士と並んで立つ日本人の女子学生の写真も一緒に入れる。


 この写真は、男の方は占領時代に戸原が撮影したものだ。何かと小道具に使えるので、修行中の写真家という触れ込みでその辺の兵士を撮影したものである。


 女の方は蛍に会う前に知り合っていた街角の娼婦で、同じ口実を使って別個に撮影した。つまり、合成写真である。


 鍛造の依頼で、ライバル会社を陥れるのにこうした写真を使った経験がある。暗室は鍛造のツテでどうにでもなった。


 宛先は座間基地内の米陸軍憲兵司令部気付にしておいた。そして、宛名は日本の女性から。


 このタイミングで出しておけば明日の午前中に配達される。十分過ぎるほど時間があった。


 郵便局を出た戸原は列車で横浜市へ向かった。終戦直後、闇市で古着を売ったり物々交換したりするのは珍しく無い。


 さすがに闇市そのものは無くなっているが、蓄えた品を使って商売をする者はいる。


 戸原が目指した『田上衣料店』もそうしたしたたかな人々の一人が始めたもので、国内の品なら大抵の衣服が手に入った。


 そこで、郵便局員の制服上下を購入した。本来、官給品である筈の制服を売買するのは違法ではある。空襲で焼け出され財産らしい財産を全て失った人にとって、そんな規則を守る余裕があるはずもなかった。


 買い物はあっけなく終わった。ついでに、配達員がオートバイに乗る際着用するヘルメットも近くの質屋で買った。


 格好はそれで良いとして、次は張り込み場所の下調べだ。


 夕べの内に地図は丸暗記している。更に、現場を身体に叩き込んでおかねばならない。


 買い物袋を抱えて再び列車に乗り、座間市で降りてから基地の近くまで歩いた。


 水を抜いた田んぼがどこまでも広がり、その間をうねるように道路が伸びている。街灯も殆ど無かった。


 まだ昼下がりだから十分に明るい。もっとも、基地の警備兵に顔を見られてはまずいので遠目にそれと分かる場所までにしておいた。


 都合良く、基地から少し南に小高い丘がある。木はあらかた伐採された後で、隠れるには少し不向きではあった。しかし角度と高さは良い。郵便物や個人宛の小荷物は専用の積み入れ口があり、基地の内情を部外者に悟られないよう正門とはわざわざ別にしてあった。


 いずれにせよ距離としてはさすがにかなり遠く、双眼鏡でも使わないと出入口のやり取りは分からない。


 薪を拾うふりでもしていればどうにかなるだろう。少し郊外に行けば、電気はまだしもガスの無い集落は珍しく無い。風呂や煮炊きは当たり前に薪で行っている。


 基地に至る道路はこの丘のふもとを通るので、郵便局のバイクが通るのを見張っていれば最初から出入口に注目し続けなくて済む。


 その晩は、座間市にある小さな旅館で一晩を過ごした。


 明日は単なる顔見せに過ぎない。もっとも、殺しであったとしても興奮したり儀式めいた事をしたりはしない。


 寝不足も二日酔いも論外なので酒も飲まない。淡々と、質素な食事をしてから布団に入った。


 明けて、朝九時半。


 戸原は、旅館の支払いを済ませた上で昨日下見した丘に至った。


 それほど時間をかけずに郵便局のバイクがふもとの道路を通り過ぎて行く。


 まだ、この段階では焦ってはならない。腕時計で時刻を確かめ、バイクが基地に止まり郵便物を引き渡してから遠くへ去る頃合いを見極めねばならない。


 必要十分なタイミングを得て、その場で服を着替えてから丘を降りた。朝から着ていた服は制服を入れていた袋に入れ、あらかじめ決めておいた切り株の根元に隠しておいた。


 それから基地まで歩いた。ここまでのところ段取りに狂いは無い。落ち着いて、自分の立てた計画通りに済ませれば良い。


 基地の郵便物受取口に着くと、МPの腕章をつけた大柄なアメリカ人が二人一組で小銃を控え銃(ひかえつつ……まっすぐに立ち脇をしめ、銃を斜めにした形で両手で持つ事)にして門を守っていた。


「兵隊さん、さっき、書留、来た? あれ、間違い。別の人。分かる?」


 戸原は、二人の一方に呼びかけた。本来は、もう少し滑らかな会話が出来るが、敢えてたどたどしくした。


「何!?」

「さっき来た、郵便、間違い、有り。ロックジェラルド少尉宛。違うロックジェラルド。彼、呼んで来て。署名、欲しい」

「少し待ってろ」


 戸原に頼まれた門衛は左手で腰につけていたトランシーバーを外し、銃を右手に持ったままスイッチを入れた。もう一人は、油断無く戸原を注視している。


 門衛がトランシーバーで簡単な問い合わせを行っているのを、その場で戸原は聞いていた。


 一分と経たずに、ロックジェラルドとおぼしき人物が無線で指示を出すのが聞こえた。本人がここまで来るらしい。


「少尉殿がここまで来る。丁寧に頼めよ」


トランシーバーを腰に戻しながら、応対した門衛は言った。


「ありがとう」


 そう言って歯を見せて笑い、暫く待った。


 五分ほどして、少尉を示す階級章を襟につけた一人の青年が現れた。


「私がロックジェラルド少尉です。この手紙の事ですね?」


 戸原が出した手紙を見せた。


「そうです。同じ名前の違う人、横須賀にいます。手紙出した人、相手を陸軍の人と勘違い」

「海軍と間違われるとはあんまりだな……折角の、情熱的なラブレターだったのに」


 横須賀にあるのは米海軍基地だ。どこの国でも陸軍と海軍は仲が悪い。二人の門衛もつい吹き出しかけた。


「少尉さん、ここ、署名お願いします」

 

 戸原は、胸ポケットから自作の誤配達処理票を出した。こうした仕事に備えて以前から見よう見まねで偽造している物で、自信があった。


「いいですよ。ペンはありますか?」

「はい」


 戸原がペンを出すと、ロックジェラルドはすらすらと署名し、手紙ごと返した。


「どうも、ありがとう」

「どう致しまして」


 ロックジェラルドの顔は、これで絶対に忘れなくなった。居場所も明確だ。つまり、失敗する可能性は無くなった。

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