大企業・重原総合科学の半生

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第十一話 交代

公開日時: 2020年10月10日(土) 21:10
文字数:4,465

 そこからは一本道を進むだけだ。


 少し歩くと突き当たりになり、分厚そうな鉄製のドアに突き当たった。取っ手の鍵穴からは向こう側を見ることは出来ない。


 軽く拳を握りドアをノックすると、かすかに物音がした。椅子を引いたようだ。


 それから足音が小さく聞こえ、ドアのすぐ傍で止まった。鍵を外す音がして取っ手が回り、少し隙間が開く。


「ああ、すまない、女が言う事を聞かないんだが、どうにか……」


 いきなりドアが突き出され、戸原は辛うじて顔をそむけた。鼻が潰れずに済んだ代わりに頬をしたたかぶちのめされ、廊下に吹き飛ばされた。


「動くな」


 どうにか分かる日本語で命じながら、ドアから一人の男が現れた。


 もう中年にさしかかっていそうな顔つきながら身の丈は二メートル近くあり、ボクサーのように引き締まった身体付きをしている。


 赤みがかった金髪に青い目をしており、目鼻は分厚く無表情だった。戸原は直感した。これがガリスキーに違いない。


「お前は一人で来たのか?」


 懐から右手で大きなピストルを出しながら、彼は言った。


 モーゼルの……恐らくはM一九三二タイプ。原型は一九世紀の末に登場した。それから四十年ほどして現れた改良型だ。


 普通のピストルは、一発ごとに一回引き金を引かねばならない……次の一発の為に引き金から指を放さないといけない……ものが殆どだ。


 しかし、これはセレクターを切り替えれば引き金を引きっ放しにして機関銃のように連射出来る。欠点は、重くてかさばり連射中は命中率が落ちる。


「そうだ」


 下手な芝居は通用しそうに無いので、事実を述べた。


「何の為に」


 いまだに倒れたままの戸原は、銃口をつきつけられた。


「女を助けに来た」

「お前の女か?」

「そうだ」


 指が、引き金を絞り始めた。


「じゅ、じゅぬ、じょんじ……」


 ガリスキーとおぼしき人物は『春椿』と言いたいのだろうが、うまく発音が出来ずもどかしげになった。そこに僅かな隙が生まれた。


 注射器を仕込んだ右腕を強く振り、弾みと反動を利用して床を転がった。注射器はモーゼルを握る側の手首の裏側に当たった。


 反射的に指が引き金を引いたものの、弾丸は左脇腹をかすめたに留まった。連射モードにしていないのがかえって幸いした。


 間髪をいれずメスを相手の顔に投げつけると、相手は注射器がついたままの手ではたいた。すかさず組み付く。


 ガリスキーらしき男はピストルを構え直すような無駄はしなかった。


 注射器を引き抜くと廊下に投げ捨て、ピストルも落としてから無事な方の手で戸原を殴った。


 踏み込んで打った拳では無い分、威力は無かった。しかしドアがぶつかった側の頬に新たな一撃が加わり歯がきしんだ。


 それでも懐に飛び込み爪先を踏みつけた。そのまま男の顎に頭突きを入れ、喉に右手を突き入れようとする。しかし、恐るべき反射神経から繰り出された左手が戸原の右手を掴み締め上げた。


 更に、右膝で戸原の鳩尾みぞおちを蹴り上げる。胃袋が口からせりだしそうになった。


 と、男の動きが急に鈍った。激しく動いたせいで、注射器から体内に入ったホルマリンが効き始めた。


 ホルマリンにはメチルアルコールも……エチルアルコールでは無い……入っている。数滴飲めば失明するという猛毒だ。それを、注射器でもっと沢山注入された。


 よろめき、ふらついた男は戸原を乱暴に手放し両目をかきむしり出した。それを幸い隅に転がったままのメスを拾い、男の首筋をかき切った。


「ぐわあああ!」


 叫び声が消えるより早く血飛沫がほとばしり、がっくりと膝が折れた。


 戸原は腹を抑えながら荒く息をつき、数十秒をかけて呼吸を整えた。腹への一撃で足がまだ震えている。


 それでも、ピストルを拾い男の身体を探った。思った通りに鍵が出てくる。


 これ以上無駄にする時間は無かった。片っ端から廊下沿いの部屋を開けて行かねばならない。


 無人の部屋が二、三続いた後に『浴室』とある部屋を開けた時、ついに蛍を見つけた。


 目立った傷は無い代わりに全裸で、壁から垂らされた鎖付きの首輪をはめられていた。ついでながら、室内は普通の浴室だった。


「蛍!」


 声をかけられ、蛍は、顔を上げた。


「え……? た、助けに来てくれたの?」


 返事の代わりに、首輪の鍵穴に鍵を差し込んだ。滑らかに鍵が回った。


 蛍は立とうとしてふらつき、慌てて抱き止めた。ここに来て数日しか経っていないのにもう鎖の跡が首に赤く残っている。


「歩けるかや」

「うん……どうにか」


 ゆっくりと、蛍は戸原から離れた。


 まだ喜びに浸って良い時では無く、二人ともそれは理解していた。


 体力もさることながら、蛍を全裸のまま連れていく訳には行かない。彼女の手を引いて、『更衣室』に入った。


 相変わらず気絶したままの津本を無視して片っ端から衣装を探した。程無くして、白衣と下着とナースシューズが見つかった。サイズも合いそうだ。


「無いよりましやお」

「うん」


 蛍は、先程よりはしっかりした手付きで下着を身につけ、白衣をまとった。


「ねえ」


 靴をはきながら、蛍は言った。


「何なや」

「あたし、本当の名前は小都子って言うの。蒲部 小都子さづこ

「そうかよ。俺は戸原言うがよ」

「ちゃんと名乗りあったのって、初めてよね」


 そう言って、蛍……小都子は笑った。場違いにも屈託の無い笑顔だった。


「結婚したら、二人で名前を合体して蒲原にするかや」


 冗談のつもりで戸原も言った。


 その時、ガリスキーのいた部屋の奥から大きな音が響いた。暴力団が、脱出用の旧防空壕側出入口から人手を送り込んだのは明白だった。


「小都子、この鍵と手紙と、財布を預けちょく。ちょっと血路を開いて来るけんど、おまんは後から来いや。その鍵はどこでも開けられるき。外に出たら、手紙に切手を貼って出しちょいてくれ」


 そう言いつつ、戸原はモーゼルピストルのセレクターをフルオートに切り替えた。


 何人来ようが狭い廊下でなら簡単な戦いになる。しかし、敵は防空壕の出入口にも網を張っているに違いない。そうなったら逆に、出てきた瞬間狙い撃ちだ。


「一つだけ約束して欲しいけんどねや、ここから出たら俺が敵を引き付けるき、自分ばあタクシーでも何でも拾うて逃げれや。高知市の赤十字病院のロビーで落ち合おう」


 何人かの足音が、こちらに近づきつつドアを開け閉めするのが聞こえた。


 津本を人質にするのも考えたが、政治家そのものでは無く秘書では大した値打ちは認められないだろう。


 蒲部は、ただ黙ってうなずいた。安い愁嘆場を演じるには余りにも緊迫していたし、戸原の気持ちを乱したく無かった。


 足音の塊が『更衣室』のドアを開けた時、戸原はモーゼルピストルを横に構えて引き金を引いた。


 ロックジェラルドの死から二週間ほどたった日。


 鍛造は、社長室で一通の手紙を読んでいた。


 感情にせよ方針にせよ、良くも悪くも明確に整理する彼が何とも言えない気持ちを味わっている。


 一人でいるのが幸いと言えば幸いか。


 手紙は、戸原からの暗号で離別を宣言していた。べたべたと謝罪めいた事は述べ無い代わりに『春椿』なる娼館と蛍の足抜け云々とあった。


 彼女が娼館の元締めによって東京の暴力団に売られたから取り戻しに行くそうだ。


 国道の開設予定地に娼館が当たっていて、立ち退き……実質的な取り潰し……を宣告されたのが原因とある。


 つまり、娼館の元締めは政治家にコネのある暴力団に蛍を売る見返りとして国道のルートをずらすように頼んで貰おうという寸法だ。


 もし失敗しても、そのまま暴力団の傘下に入り娼館ごと適当な場所を斡旋して貰える。いずれにせよ蛍は手付け金代わりとなる。


 戸原は蛍を一人で取り戻しに行き、成功すれば二人でひっそり暮らすつもりだとあった。


 溜め息をつきたくなるのを我慢して、手紙を机に置いた。腕組みをして、手紙の脇にある朝刊をちらっと目にする。


 三面記事に、東京の暴力団事務所壊滅……縄張り争いかと見出しがあった。蛍については触れていないが、組員以外で射殺体として発見された死体が一つだけあり特徴は全て戸原と一致していた。


 もはや、我と我が身の本音をごまかす術は無かった。意外でもありうなずけるところでもある。


 宮取大学から派遣されたスパイの管理は宙に浮いたが、不思議と不快感は湧かない。


 冷徹な一面を言うなら、戸原が抱えていた秘密……彼が誰にも話していないのは確信があった……がそのまま葬り去られたのは都合が良い。


 と同時に、戦時中は通用していた発想が次第に変わりつつあるのも実感出来た。彼の死は、鍛造からすればまさに時代の節目となった。


 ドアがノックされ、鍛造はさり気無く手紙を封筒に入れた。


「どうした?」

「失礼します。宮取大学の、手島教授がお見えです」


 社員が、ドアを開けて伝えた。その時には、もう封筒は背広の内ポケットに入れていた。


「ここにご案内しろ」

「かしこまりました」


 ややあって、手島が現れた。さすがに白衣姿では無く背広ネクタイだが、よれよれな上にネクタイが曲がっていた。右手には紙袋を下げている。


「お久しぶりです、先生。さ、お掛け下さい」

「ああ、すまんね」


 手島は、ぎこちなくソファーに座った。鍛造としては、ある種の余裕をもって仕事用机を離れた。


「わざわざご足労頂きありがとうございます。それで、ご用件は何でしょう」

「研究費を上乗せしてくれ」


 単刀直入に手島は言った。この時、鍛造は胸中で快心の笑みを浮かべた。


「ほう、足りなくなりましたか」

「そうだ。いや、沼橋のもたらす情報は宝の山なのだ。勿論、成果はそっちに知らせる」


 その通り。技術とは日進月歩で進む。


 終戦以来、いかに優秀であっても偏屈な態度で大学に閉じこもっていた手島が取り残されるのは当然だ。焦りを覚えて然るべきだろう。


「構いませんが、こちらからの条件をお話してもよろしいですかな」

「聞こう」


 頼んでいるには尊大な態度の手島。それが虚勢に過ぎないのは、鍛造には明白過ぎて笑い出したくなるくらいだった。


「そちら様の学生さんを、こちらに寄越して頂きたい。沼橋君とはまた別にです。一人で結構です」

「ふん、まあ、いいだろう。どんな学生が良いんだ?」

「看護科からお願い致します」


 医師ではなく看護婦なのがミソだ。医師は……手島のように……尊大で居丈高な可能性がある。こちらが得た成果を事業に落とし込むには看護婦の方が何かとコントロールし易いだろう。


「承知した。じゃあ、これもやろう」


 手島は、紙袋を鍛造に渡した。


「ありがとうございます。中を確かめても構いませんか?」

「構わん」


 羊羮が三箱入っている。『龍屋』なる屋号が箱に印刷されていた。好き嫌いの無い鍛造だが、さすがに三本は食べ切られない。部下も同様だろう。


「これは、おいしそうな羊羮ですな。楽しみです」

「わしも、羊羮はその店でしか買わん」


 そこで、本来なら茶でも出して一緒に食べるよう持ち掛けるのが世間並みの礼儀だった。手島がそうした行為を嫌っているのは承知している。だから、黙って手元に寄せておいた。


「じゃあ、金を頼む。細かい話は、あんたが所望した新しい学生に連絡させる」

「はい、お願いします」


 手島は席を立ち、そのまま引き上げた。

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