大企業・重原総合科学の半生

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第四話 踏み板の割れ目 前編

公開日時: 2020年10月17日(土) 12:10
文字数:3,929

 悪事を働いているのでは無いからびくびくする必要はない。少しためらいつつも玄関を開けた。


 作業服を身につけた、若い男が立っている。左手には工具箱を下げていた。


「あ、どうも、久田山電気店です。エアコンの修理に伺いました」

「え……?」


 近村からは何も伝えられていない。


「あれっ? ここ、天候研究所さんの資料館ですよね?」

「そうです……けど……」


 話がややこしくなりそうだ。


 だからといって、この男に当たり散らすのも出来ない相談である。こんな時、口数を減らして相手の出方を確かめるようにしている。


「失礼ですが、あなたが管理人さんじゃ無いんですか?」

「いえ……本社の者です」

「本社? おかしいなぁ。二週間ほど前に、お電話を頂いていたんですよ。その時はこっちも依頼が立て込んでいましたから、今日まで待って頂く事になったんです」


 一応、話に矛盾は無かった。


「しばらく構いませんか? 本社に電話して確かめます」

「ええ」


 スマホを出して近村に電話をすると、すぐに調べてくれた。


 確かに依頼が出ている。そのまま作業に入って貰い、連絡先を控えておくようにと指示を受けた。


「お待たせしました。はい、作業をお願い致します」

「ありがとうございます。それで、事務室のエアコンというお話だったんですが……」


 事務室のドアも、玄関とはまた別のキープレートがある。それは蒲原の責任で処理せねばならなかった。


「はい。失礼ですが、事務室のドアを開けるまで玄関を向いておいて欲しいです」


 そうしないと、キーナンバーを読み取られる恐れがある。


「分かりました」


 作業員は言われた通りにした。


 ナンバーの入力はすぐに済んだ。鍵の外れる、かちゃっという音と共に蒲原はノブを握った。


 途端に静電気が走り、悲鳴こそ上げなかったものの大きくのけぞった。


 その直後、工具箱がこめかみをかすめて飛び過ぎ壁に当たって大きな音を立てた。蓋が外れてドライバーやスパナが散乱する。


 振り向くと作業員が走り寄って来るところだった。蒲原には大した運動経験は無い。小さい頃、バレー……踊る方……をかじったぐらいだ。


 それが、無意識に身体を捻らせた。ハンドバッグを捨ててドアを開け、最小限の隙間で滑り込んでからすぐに閉めた。


 オートロックなのが幸いして作業員を締め出せた反面、自分も閉じ込められた形になった。


 事務室の窓は埋め殺しになっており、出入り出来ない。


 ドアを無理矢理開けようとすると警備会社に通報が入るはずだ。だから時間は稼げる……と思いきや、作業員は受付のカウンターの正面に来た。


 金槌を出して、受付の仕切りガラスに思い切り叩きつけ始めた。


 ガラスもさるもの、余程分厚いと見えて一回目の打撃では小さなヒビが入っただけだった。二回目で、ヒビはクモの巣状になった。


 魅入られたように眺めていた蒲原は、はっと我に帰り死に物狂いで状況の把握と計算を進めた。


 この男の真意や正体などどうでも良い。それより、どう考えてもこのまま相手を待ち受けて取っ組み合いとは行かない。


 受付窓自体は大して広く無いので、さすがに通り抜けるには苦労するだろう。


 だから、相手が受付から室内に入ろうとするタイミングが最後のチャンスになる。


 問題は、武器だ。


 自分の細腕でどれほど作業員を叩こうが何の意味も無い。机を動かしてバリケード代わりにしようにも、どの机もひどく重くて、びくともしない。


 そもそも、窓から差し込む明かりだけでは何か役に立つ物があったとしても分からない。初めて入る部屋なので、照明のスイッチがどこにあるのかさえ知らない。スマホで警察かどこかに知らせようにも、バッグごと部屋の外だ。


 もう、ガラスは持ちそうに無かった。


 部屋の隅で縮こまるぐらいなら多少なりとも抵抗してやろうと思い、半ば手探りで武器になりそうなものを探した。憎らしい程整頓された室内で、カッターナイフ一つ出てきそうに無い。


 ついに、ガラスが粉々に砕けた。その音だけでも震え上がったが、なお僅かなツキが残っていた。


 ガラスをはめていた枠に、ぎざぎざになった破片が残っている。男は、金槌を横に薙いで破片を完全に取ってしまわねばならなかった。


 そうしないと首や頭をひっかいて思わぬケガをする。それに、血液というDNAを現場に残すのは愚の骨頂だろう。


 その間に、多少なりとも目が室内の明るさに慣れてきた。


 事務机の引き出しに飛びついて開けると、筆記用具やハンコの他にメモ用紙の束と着火用のグリップ付ライターが入っていた。


 ピストルに近い形をしていて、ストーブやガスコンロに点火する際重宝する。


 一瞬、それで男に火でもつけてやろうかと考えた。馬鹿げている。手ではたき落されて終わりだろう。


 その時、唐突に閃いた。メモ用紙の束を掴み、ライターで火をつけると即席の松明が出来た。煙もそれなりに出てくる。


 それを、天井にある火災報知器にかざした。男は破片を削り終え、かつて窓口だった空間に両手を突っ込んだところだ。


 頭が室内に入りかけたところで、耳を引き裂くような警報がけたたましく鳴った。消防署にも警備会社にも通報が入っただろう。


 男は、一度身体を事務室の窓口から出した。そしてポケットから自分のスマホを取り出した。電話をかけたのが身動きで理解出来た。


「あ、どうも。私、電気店の修理屋なんですが、天候研究所のエアコンを修理していて間違ってセンサーの電源をいじってしまいましてね。警報が出ましたが、誤報です。ええ、ええ、すみません。多少時間がかかりますが、出来るだけ早く止めますから」 


 そう言って一度電話を切り、今度は警備会社に電話して同じ内容を述べ始めた。


 途中まで絶望を味わいつつ立ったままそれらを眺めていて、辛うじて、二件目の電話が終わるまでに我に返った。


 まだ他の引き出しを調べていない。もっとも、室内に机は二つしか無かった。


 それぞれ四つずつ引き出しがある。合計八つの内、一つはもう見たから、あと七つ。


 一つ、二つ、三つ……。男は警備会社から何か質問されているようだ。自分がいる電気店の名前と責任者、つまりその男自身について説明している。


 四つ、五つ、六つ……。今度は、消防署にはもう説明したとか何とか喋っている。


 七つ目。最後の引き出しを開けると、赤く長細い筆袋が出てきた。中身を確かめるとプラスチックのケースが入っており、さらに開けるとUSBが出てきた。


 男はスマホをしまい、こちらに向き直ったところだ。


「動かないで! あなたの目当てはこれでしょう! それ以上近づくと、指で折るよ!」


 自分でも仰天する程大きな声が出た。男は身じろぎ一つしなくなった。


「そのまま出て行って!」

「USBを渡せ。そうすれば、危害を加えない」


 およそ信頼出来そうに無い持ちかけだった。


「いいから出て行って!」

「お前の事は知っている。何なら住所を当ててやろうか?」


 これまで、痴漢に会った事ならある。中学生の時、電車の中で尻をなでられた。


 電車を降りてから家族に相談し、警察にまで話が進んだものの、犯人は捕まらず仕舞だった。


 結局その一回きりではあったものの、今でも彼女を深く傷つけていた。


「この、ドブの汚水よりひどいゲス! どうやって知ったの?」


 今度は、意識して大きな声が出た。


「変な誤解をするな。お前は今……」


 その時、玄関がいきなり開け放たれた。


 管理人は死んでいるのだから、本社から別な人間が派遣され無い限りキーナンバーが使われるはずが無い。


 それが、文字通り破られた。しかも、現れたのは明らかに外国人の男だった。白い肌に金髪、青い瞳、少なくとも一九〇センチは越えているであろう身長に引き締まった肉付き……。歳はまだ若そうだ。


 外国人の乱入者は一瞬の迷いも無く蒲原と対峙している男に跳びかかり、みぞおちに右の拳を叩き込んだ。


 悲鳴も上げずに敵……だろう、多分……は膝を折り意識を失った。


「大丈夫ですか?」


 流暢りゅうちょうな日本語で、外国人の若者は聞いた。頬も顎も荒削りな顔立ちながら、目鼻は穏やかそうだった。


「え、えーっと、あの、あのっ、サン……サンキュー」

「日本語でいいですよ」

「はい……その……ありかとうございます」


 若者はにこっと笑い、かがみこんだ。


 倒れたままの男のズボンからベルトを外し、器用に手足をまとめて縛った。何かおかしな恰好になり、これまでの緊張の反動で、蒲原はつい笑ってしまうところだった。


「あそこに転がっているのは、あなたのバッグですか?」

「はい、そうです」

「取ってきましょうか?」

「お願いします」


 どうした事か、素直な気持ちになって言った。


 若者は事務室のドアの前へ行き、バッグを拾い窓口の前まで持ってきた。


「どうぞ」

「ありがとうございます」

「まだ、名前を名乗っていませんでした。僕はローレンツ。エルンスト・フォン・ローレンツ。よろしくお願いします」

「か、蒲原 ゆうです。よろしくお願いします」

「さてと、蒲原さん。これからどうします?」

「え……」


 不覚にも、虚をつかれた。


「警察に連絡するのかこのまま何も無かった事にするのか、選ばないと」


 普段の蒲原なら、何故そんな質問をするのかをまず確かめただろう。


 まだ混乱を引きずっていたせいか、ローレンツの問いかけで頭が一杯になってしまった。


 もっとも、どのみち決断しなければならない。


 経験上、警察は大して当てにならない。窓ガラスの件は、資料館に入ったら既にこうなっていたとでも述べれば本社の誰か……例えば近村……に丸投げ出来る。


 ローレンツがわざわざ真相を暴露するとは、少なくとも今の段階では考えにくかった。


 その一方で、気絶したままの男がどこで何を喋るか予測がつかない。痛くも無い腹を探られるのは困る。


「警察に通報します。ローレンツさんは……」


 いつの間にか、ローレンツの姿は無かった。

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