どうぞとかすかに聞き覚えのある声がした。
失礼しますと言いながらドアを開けると、面食らうほど広い部屋が両目を打った。
入って正面にカウンターがあり、ひっつめ髪に眼鏡姿の女子社員が椅子に座って対面している。
胸に安全ピンで留めた名札から、どうにか秘書の近村と分かった。
その背後には、背の低い青白い衝立が壁際近くまで立ててある。
衝立越しに、部屋が大きく三つに区切られているのが理解出来た。
向かって右が秘書達の職場。五、六人いる。真ん中には社長用とおぼしき執務机があり、こちらを向いて座るようになっている。
執務机と近村の背中に挟まれた格好で、熱帯魚の水槽があった。
向かって左は応接間となっている。壁には重原鍛造の写真が額縁に入れて飾ってあった。
応接間のソファーには数人の人々が座っていた。立ったままなのも一人いる。
まずは、社長のなの。当然ながら座っている。
立ったままでいるのは筋骨たくましい巨漢で、エルンストよりも背が高い。髪は一本も無く、津本ぐらいの若者なら一撃で踏み潰されそうな迫力を打ち出していた。年齢はかなり老けて見える。
他にも、何故か千島がいる。場違いな意味で嫌な気持ちになった。彼等に対面して、エルンストとロックジェラルドが座っている。最後に、この部屋には窓が一つも無かった。
「お二人とも、向かって左の応接間へ行って下さい」
座ったまま近村が指示し、蒲原達は素直に従った。
「社長……お待たせしました」
会話をするのはこれで二回目ながら、緊張は前回以上だった。
「良く来たわね。さ、二人とも掛けなさい」
「はい」
蒲原は、ちょうどイザベラとエルンストに挟まれる形で座った。
「さてと、全員揃ったわね。じゃあ、始めましょう」
その口調は、特に傲慢でも強引でも無かった。自然なという表現がぴたりと当てはまった。
二代目社長……御膳立てが全て整った舞台で、生まれながらに自分の命令を相手が聞くのは当たり前という環境で育った者だけが持つ特有の意識。
「自己紹介はいらないと言いたいけど、お宅誰?」
ロックジェラルドが、立ったままの男に聞いた。
「答えていいわよ。簡単にね」
なのが先に言った。
「イワン・ガリスキー。元KGBだ」
ダミ声の上に訛りがきつい。とはいえ聞き取る事は出来た。
「へえ、そりゃどうも。リストラされて要人護衛に鞍替えかい?」
ガリスキーは沈黙している。
「それ位でいいでしょう、ロックジェラルドさん。本題に入るわね。我が社が抱える『蛍光灯』の説明を」
異議を唱える者はいなかった。
「ガリスキー以外のあなた達は勘違いをしています。昔はともかく、現在の『蛍光灯』はれっきとした民間事業です。海底油田発掘のね」
出だしから陰謀論が一部分にせよ確定された。
「ロシアにある石油会社と業務提携していますが、稚内から伸びているトンネルは日本の領海内で止まっています。長さも精々五キロくらいでしょう。我が社はそのトンネルを基地にして、海底油田の試掘を計画しているだけです」
「そのトンネルとやらを、俺達も是非見学したいね」
軽口めいた調子でロックジェラルドは言った。
「今は社外秘ですが、ある程度計画が進めば公表します。そもそも、日本の一企業が、日本領で行っている作業のどこが問題なのですか」
「トンネルがあるとおぼしき付近の海底から、不自然に高い放射線が計測されている。アメリカの人工衛星が解析した。環境破壊とまでは行かないが、他の海域と比べて明確に線量が異なる」
エルンストが、冷静さを崩さず明かした。
「おいおい大丈夫かい? 俺と蒲原さん、稚内で海鮮料理食っちまったんだぜ」
「そういう水準では問題ない。だが、考えられるのは……」
「考えられる可能性は、天然のウラン鉱脈だけです。ちょうど、深海探査艇がそのデータを入手しています。我が社はウランには何の興味もありません」
エルンストの説明を、なのが遮って釈明した。
「いいえ。ガリスキーは、『蛍光灯』のトンネル内に小型の核ミサイルをセットしています」
「馬鹿げている。何の利益が俺達にある」
ガリスキーは腕組みしたままエルンストに言った。
「核ミサイルは、ガリスキーしか知らない信管の解除コードがある。それを無視して動かしたり分解したりしようとすると爆発する。だから、どの国もトンネルに手出し出来ない。トンネルは核ミサイルの保管庫も兼ねている」
「絵空事にも程があるな、ローレンツ」
「蒲原さん、稚内で襲われましたよね? 田上主任は蒲原さんの安全よりUSBの回収ばかり気にしていました。それは今、どこにあるんですか?」
イザベラが、兄とは違った冷静さで聞いた。同じ女性として蒲原が強いられた事態に静かに憤っているのが伝わって来た。
「処分しました」
いとも簡単になのは答えた。
「あの……社長」
おずおずと蒲原は言った。いくら内部告発の決心を固めていても、なのには批判めいた言動をぴしゃりと抑えつけそうな威厳が君臨していた。
「何ですか」
「さっき……『抱えている』って仰いましたけど……蛍光灯そのものが、お荷物になってるんじゃ……」
「言葉尻を取るのは止めなさい。話を矮小化しないの」
「私、総務課でずっと勤務していますけどロシアから手紙が来た試しなんてありません。担当は違いますけどEメールだってそうです。社外秘なら仕方ないかも知れませんけど、海底まで調べているのなら、調査費用とかトンネルの使用料とか……」
「とにかく社外秘だから私以外に全貌を知っている人間は社内にはいません」
会社の私物化と言いたいが、現時点では追求しても意味が無い。
「なるほど。お荷物か。それで明らかになった」
エルンストが、両手の指を自分の顎の前で組み合わせた。
「何が、明らかになったのですか」
嘲笑寸前の丁寧さで、なのは聞いた。
「あなたは、僕達に気づいて欲しくてわざわざヒントをばらまいたんだ。早く解放されたいから。黒幕は、ロシアの旧KGB過激派とアメリカの軍需産業」
「素敵な推理ですね」
なのの嘲笑に、エルンストはびくともしなかった。
「稚内の海底トンネルに核ミサイルか何かを運ばせるか運ばせたように見せかけて、それを口実に日本を攻撃するつもりだろう。極東は泥沼の戦争漬けになる」
「あはははははは。大したストーリーですこと。小説家になれますわね」
「じゃあ、資料ビルで、津本さんの手紙を……じゃ無かった……」
蒲原は、舌と共に記憶まで上ずってしまった。
「津本じゃなくて森場だろ」
千島が、ぼそっと指摘した。
「千島さん。どうして森場さんって知ってたんです?」
イザベラが鋭く聞いた。
「あ、後で社長から聞いたんだ」
「じゃあ、社長。どうして私に森場さんから手紙とUSBが届いたんですか?」
「さあ。誰かのいたずらでしょう」
千島を不機嫌に睨みながら、なのは解釈して見せた。
「いずれにせよ、社長はその手紙をどうしたんですか?」
イザベラが、新たな突破口を見出だしたようだ。
「とうに廃棄処分しました。中身は読みましたが、それこそ馬鹿馬鹿しい誇大妄想でした。悪質な嫌がらせでしょう」
「その手紙……社長が、私に宛てて出したんじゃ無いんですか?」
蒲原は、先程よりはしっかりした口調になっていた。
「何故、私がそんな事を」
「誰かに、自分の秘密を分かって欲しかったからです」
「いい加減になさい。あなたまで、エルンストの毒気に当てられたようですね」
冗談めかした言い方ながら、いつの間にか、なのの顔には汗が浮かんでいた。もっとも、それは蒲原も同じだった。
「同封のUSBも同じでした」
なおも蒲原は続けた。彼女としては同じ内容を説明していたと言いたかっただけなのだが、相手は微妙に違う解釈をした。
「同じなものですか。千島が……」
不自然に、なのの言葉が途切れた。
「オー、ノー。USBから、千島とあんたの指紋が検出されてるね」
「そんなはずは無い! ちゃんと拭き取った!」
千島が大声で、ロックジェラルドに我と我が身の有罪宣言を下した。社長も巻き込んで。
「失礼します。お茶をお持ちしました」
絶妙のタイミングで、近村が盆を両手で持ってきた。
「皆さん、喉が乾いておいででしょう。お先にどうぞ」
なのが滑らかに勧めた。近村が、テーブルに湯飲みを置く為に少しかがんだ。
エルンストは、上着のポケットから小さなビニールの包を出した。四角くて、半透明の茶色をしている。
「失礼」
手を伸ばして湯飲みを一つ持ち出し、包を開けて中身を少し茶に入れた。見た目は顆粒状の薬品に思える。
「沈殿あり。毒物だ」
その結論と同時に、様々な出来事が一度に起こった。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!