大企業・重原総合科学の半生

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第五話 足首の太さ

公開日時: 2020年10月8日(木) 21:10
文字数:3,474

 戸原が蛍から将来の夢を聞いていた頃。


 社長室で来客を待つ鍛造に、ドアがノックされる音が届いた。


 どうぞと応じると、部下に付き添われてロックジェラルド少尉が姿を現した。


 金髪をクルーカットにしてしわ一つ無い制服を服務規程通りに着こなし、いかにも士官学校を出たての青年将校に見える。右手には大きめの鞄を下げていた。


 席から立って応接用のソファーを勧めると、ロックジェラルドは軽く笑って会釈した。部下はそのまま下がらせ、鍛造も自分の机を離れてソファーまで進んだ。


「ま、どうぞかけて下さい」


 と言いつつ、顔には見覚えがあると思い返していた。宮取大学で手島と会った時、すれ違っている。


「どうも、ありがとうございます」


 訛りはあるが、そこそこ通じる日本語だった。


 ロックジェラルドが座るのを待って、鍛造も腰をかけた。


 軍隊時代、鍛造の最終階級は兵長で、どこの国の軍隊でも大抵下から四番目に過ぎない。


 相手は少尉……最下級とは言え現役の将校だ。しかも数年前まで占領軍として日本にいた、アメリカ軍の人間である。複雑な思いが湧いて来た。


「この度は、わざわざお時間を割いて下さりありがとうございます。改めまして、私はアメリカ陸軍の憲兵で、ヘンリー・ロックジェラルド少尉と申します。所属はキャンプ座間です」


 型通りにロックジェラルドは言った。


 座間とは神奈川県の座間市で、日本は正式に予算を投入して基地の整備を行っていた。ちなみに座間市から相模原市にまたがっている。


「重原鉄鋼センター社長の重原 鍛造です。よろしくお願いします。ご用件は何でしょう」

「はい。重原さん、テニスはお好きですか」


 唐突に、ロックジェラルドは切り出した。


「テニス……? 関心はございませんが」


 競技場の利権について、談合めいた事はしていない。仮にそうでも日本の警察が処理するだろう。


「ソ連から派遣されたスパイが、神奈川県内のテニスコートで親しくなったテニスの相手から情報を引き出していた疑いが強まっています」


 淡々と説明を続けるロックジェラルドと、黙って聞き続ける鍛造。天井の電球が、辛坊強く二人の頭上を照らしている。


「それが弊社と関係ある事ですか?」


 勘ぐられているのに、不思議と腹は立たなかった。不安も無い。鍛造のような経営者は、日常に無い『機』を何でも栄養にする意識が強く働いている。


「例えば、去年の暮れにそのスパイが使ったテニスコートには、とある日本の政治家の秘書もいました。その政治家は、国会でしきりに競技場の増設を訴えています。競技場は鉄筋コンクリート造りで、とも述べていますね。ラジオで聞きました」

「それで受注が増えるなら結構な事ですよ」


 意表をつかれたとは思っていない。あくまでも無関係は無関係だ。それはさておきロックジェラルドの真意を知りたい。


「私は容疑者の絞り込みをしています。在日ソ連大使館の二等書記官でほぼ確定していますが、そうした人間は安全器を使っているはずです。その安全器を突き止めれば、我が軍の内部に広がっているスパイ網をどうにでも料理出来るはずです」


 安全器とは、スパイと情報提供者を仲立ちする人物を指す。情報そのものを運ぶ時もあれば、会合をセットする時もある。


 普通は、万が一の場合は安全器が先に捕まり、本命はその隙に脱出するようになっている。ロックジェラルドは逆の状態を手にしようと目論んでいるのが理解出来た。


「こりゃ国際的な大陰謀ですな」


 軽い冗談で済ませるふりをした鍛造だが、ロックジェラルドは笑わなかった。そこでドアがノックされた。


「入れ」

「失礼します。お茶をお持ちしました」


 部下が、湯飲みを二つ置いた盆を捧げ持って来た。


「うん」


 鍛造がうなずくと、部下はロックジェラルドと鍛造の前に湯飲みを置いた。そのままお辞儀して退室し、一時休戦といった雰囲気が煎茶の香りと共に広がった。


「どうぞ」

「はい、ありがとうございます」


 ロックジェラルドは両手で湯飲みを持ち、一口飲んだ。鍛造も彼に続いて口にした。


「最近、ベトナムでフランス軍が失敗続きですね」


 茶飲み話でも無いだろうが、ロックジェラルドは話題を変えた。少なくとも、テニスコートのスパイ云々とは離れた。


 フランスは第二次大戦の戦勝国だが、余りにも莫大な損害を負ってしまい、植民地を維持出来なくなっていた。もっとも、それはイギリスにもオランダにも言える話ではあった。


「元日本軍の軍人も、ベトナム人に味方しているそうですな」


 皮肉な事に、日本が敗戦してから、植民地の解放の為に命をかける人々が……良くも悪くも……現地で注目されていた。


 旧日本軍の占領政策は愚劣低能としか言いようが無かった。それだけに、使命感に駆られている者もいるのだろう。


「我々としては、巻き込まれるのか首を突っ込むのかの違いに過ぎないと考えています。ベトナムは中国と隣合っていますし」


 その中国は、蒋介石率いる国民党軍が敗れて共産党政権が成立している。つまり「東」陣営となる。


 他の旧植民地が同じように共産化していくのを、アメリカは快く思わないだろう。だから、アメリカは、ベトナムで『食い止める』。


「違う意味で忙しくなりそうですな」

「そう、だから仕事は一つずつこなさないと。単刀直入に伺いましょう。御社の社員でそのスパイと面会したか、またはその可能性がある者がいるかどうか、調査にご協力頂きたいです。具体的には、去年の七月から今月までの、テニスコートの利用の有無です」

「一人一人に聞いて回れという訳ですか」

「どのような手立てを取るかはお任せします。勿論、報酬があります」


 鍛造としては、無表情を保って続きを待った。


「まず誰も嫌疑をかけられなかったなら、なおかつそれが客観的に確認されたら、お詫びと言う意味もあり、我が軍が日本で消費する鉄鋼の情報を一年間に渡って真っ先にお伝えしましょう」

「ふむ」

「そうで無い場合、被疑者一人に対して千ドルを支払います。それがスパイ網にかかわっていた場合、更に一人あたり二千ドル支払います。その代わり、被疑者の身柄は我々に預けて頂きます」


 千ドルと言えば、宮取大学で鍛造が示した金額の約半額にあたる。


「結構な金額ですな。で、断ったら?」

「御社が、潜在的な共産シンパリストに入ります」


 それは、会社に対する死刑宣告に等しかった。


 東西冷戦の深刻化と共に日本でも労働争議が激化しており、政財界での頭痛の種になっている。アメリカから共産シンパとされた会社と取引する物好きはいないだろう。


「飴と鞭の使い方が巧みですな」

「褒められたと受け取っておきましょう」


 ロックジェラルドは、そこでもう一口茶を飲んだ。


「契約の書面はお持ちですか?」


 鍛造は、大して間を空けずに言った。


「ええ、こちらに」


 持参して来た鞄のチャックを開けて、ロックジェラルドは分厚い書類を出した。


 それからは契約条項……全て日本語で書かれている……を一つ一つ確認し、遺漏を防ぐ退屈にして重大な仕事が始まった。


 数時間後、陽もとっぷり暮れた時にようやく作業は終わった。署名欄にサインして判子を押し、契約成立である。


「これで私もひと安心です。ありがとうございました」

「いえ、どう致しまして。何でしたら、基地までお送りしましょうか」


 といっても相手の立場が立場なだけに、結局は自分が運転する事になる。


「いいえ、一人で帰ります」


 ロックジェラルドは、席を立ち、ドアに向かった。鍛造も、ソファーを出て、戸口までは並んだ。


「それでは」


 ロックジェラルドが退室し、再び社長室は鍛造一人になった。足音が遠ざかるのを聞きながら机に戻り、引き出しから便箋と鉛筆を取り出す。


 戸原の私設私書箱の住所と、本文に使う暗号は最初から頭に叩き込んである。アメリカ人の、それもれっきとした憲兵将校の暗殺を依頼するのは初めてだ。


 戸原との出会いはニューギニア戦線だった。彼らの属する第一八軍は補給路を断たれ、組織的にも肉体的にも痩せ細って行くしか無い状態だった。


 日本軍が死中に活を求めて最後の総攻撃をかけたアイタペの戦い……より厳密には、ドリニュモール川の渡河攻撃……は、最初から勝ち目の無い作戦だった。


 そもそも、日本軍には制空権も制海権も無く、武器に至っては重火器はおろか小銃の弾薬すら一人で二十発もあればいい方だった。おまけにどの兵士も病気にかかっていた。


 アメリカ軍……後にオーストラリア軍に交代する……は食事一つ取っても、クリスマスにでもなれば一兵卒に至るまでケーキを振る舞っていた。


 一九四四年七月十日。総攻撃に直接参加した兵士二万人が、真夜中に突撃をかける事になった。

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