大企業・重原総合科学の半生

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第二話 休憩時間までには

公開日時: 2020年10月16日(金) 18:10
文字数:3,040

 ファイル二冊を抱え、資料ビルを抜けて社員用駐車場を過ぎた。


 非常口のドアノブにファイルを乗せてキーロックを操作……ガチャン、と無機質に鍵が開いた。


 正直なところ、四階まで上がるのは骨が折れる。しかし、エレベーターを使って上司の小言を食うリスクも無視出来なかった。


 結局、何度か休みながら四階まで昇った。総務課の出入口をくぐる頃には、腕がひどく痛んだ。


「失礼します。主任、お待たせしました」

「ご苦労」


 座ったまま、田上主任はファイルをまとめて両手で受け取った。


 蒲原は、一礼して彼の前を去った。その足で白板の書き込みを消し、席に戻る。


 今、済まさないといけないのは郵便物の整理だ。毎日行う。


 会社に来る全ての郵便物を、仕分けして記録につけねばならない。会社から外に出す郵便物も記録する。


 これらは複数の社員が当番を決めて交代で行う。記録と一口に言っても、こちらに来た方のそれは中々に骨が折れる。


 法人宛てなら開封し、中身の概略まで残さねばならない。この作業に概ね三時間ほどかかった。訓練かたがた新人にやらせる場合もある。


「蒲原」


 田上主任から声がかかった。彼は、性別に関係無く後輩を呼び捨てにする。


「はい」


 すぐに田上主任の元に行くと、蒲原が見つけた茶封筒が手にされていた。


「何だ、これは?」

「え? さぁ……」


 とぼけた彼女に、田上は黙ってそれを出した。受け取る他は無い。


 こんな時、未熟な新人なら慌てて処理の要領を聞く。彼女は違う。


「はい、処理しておきます」


 とだけ言って預かった。


 席に戻り、まず本来の仕分けを済ませる。予定通り三時間程で済んだ。次に、茶封筒。やはり、資料ビルに電話か……。


「すみません、先に昼行きます」


 そんな声がして先輩の一人が席を立った。


 重原総合科学には明確な昼休みの時間が無い代わりに、好きな要領で四五分の休憩を得られた。


 その先輩……津本は、大抵一二時半に昼を取る。田上より少し若い位の男性で、社内の物品補充を担当していた。


 いつも日焼けしている背の高いスポーツマンで、女子からも密かに人気があった。


「あ、私もお昼にします」


 思わず反射的に席を立ち、蒲原は津本の後を追った。


「津本さん」


 総務課を出て、階段のドアを開けようとした津本に蒲原は声をかけた。


「何?」

「あの……実は、ちょっと頼みたい事があって……」

「何を?」


 蒲原は、簡潔に茶封筒について述べ、千島のセクハラめいた言動をぶちまけた。そして、茶封筒を代わりに返しに行って貰えないか頼んだ。


「ああ、いいよ、別に。つーかさ、まだりょうきち君生きてたの?」

「りょうきち……?」

「資料ビルの主任だよ、名ばかりの。千島 亮だろ?」


 思わず蒲原は吹き出しかかった。


「ありがとうございます。じゃ、私もお昼にしますから」


 こんな時、昔のドラマなら社員食堂で一緒に食事でもするのだろう。


 彼女は食事は一人で済ませる主義だった。正直な話、誰かと昼食に付き合った経験は無い。


 食事は屋上で取る。


 四階にはカップラーメンの自動販売機があり、給湯器までついている。


 それを買って控え目に湯を注いでから、屋上……会社は五階建て……まで上がる。


 正確には階段を覆う形で小屋のようなコンクリートの張り出しがあり、ベンチも置かれているのでそこで食べる。何故か誰も来ないので好都合ではあった。


 階段を上る間にラーメンは仕上がっている。蓋を開けて食べ始めた。スープまで綺麗に飲み干してから、一息ついてぼうっとする。


 実のところ、重原総合科学は理想的な職場と言うには少々難があった。千島のセクハラ云々とはまた違う。


 就職先が決まって、親に電話した彼女は一緒になって喜んでくれるものと思っていた。


 しかし、第一声は『他に何か無かったの?』だった。


 いささかむっとして総合職だし社長は女性で女性の管理職もたくさんいると言い返すと、天候事件がどうこうと言い出した。


 十年ほど前。


 北海道の稚内に当時あった天候研究所の建て増しに絡んだ贈収賄疑惑で、重原総合科学の社長や重役が起訴された。


 研究所は現在でも珍しい民間の天候調査施設で、事件当時は『天候そのものをコントロールする』のが究極の目標だと喧伝している。


 天候研究所が出来たばかりの時は会社と無関係だったのに、いつの間にか運営主体まで重原総合科学が担うようになっていた。


 結局、数年続いた裁判の末に全員が無罪になっている。ただし、容疑者の一人だった国土交通省の北海道支局長は、公判中に自殺した。施設そのものも程なくして閉鎖された。


 知識としては知っているが、大して重視していなかった事件なので余計に腹が立った……しかし、親の危惧がわずかにひっかかってもいた。


 彼女は、まだ社長の姿を見ていない。名前と生年月日だけは重原 なの、一九六五年十月五日生まれと分かる。


 どこかの外資系ならまだしも、十年いて社長の存在が分からないのは決して正常とは思えない。


 そんな事を思い返す内、昼休みは終わった。


 四階まで降りて、カップラーメンの自動販売機の脇にあるゴミ箱にゴミを捨ててから総務課に戻った。


 午後からは、社内施設についての要望を処理する。


 水道が壊れた、窓ガラスにカビが生えたといった類から、消耗品の補充依頼まで様々だ。整理して各担当に連絡する。


 それに取りかかりかけた時、津本が自分の机まで来た。黙って、頭を下げながら茶封筒を渡す。


「物品補充に行って来ます」


 津本はそう言って茶封筒を内懐にねじ込んだまま白板に予定を記し、部屋を出た。


 その後は定時寸前までいつも通りに仕事が進んだ。津本に頼んだ事も大方忘れかけていた。


 と、そこへ津本が帰室し、メモ用紙を添えた茶封筒を寄越した。


『すまん、資料ビルに行って突き返そうとしたら俺の知らない資料はまず俺の上司に掛け合えと言われた。上司って総務課長かって聞いたら、社長って言われた。調べたら、確かに資料ビルは社長直結になってる。俺もそこまでは出来ない』


 読み終えた蒲原は、心の中で溜め息をついた。しかし、礼はしないといけない。


 自分のパソコンから、彼宛に短い謝礼と詫びの言葉を送信した。


 津本にはそれで良いが、話は振り出しだ。結局、茶封筒は机に残したまま定時で蒲原は退社した。


 無意味な残業を固く戒めるのは、彼女がこの会社を選んだ理由の一つだ。個人的な調べ物をする時間もたっぷり取れる。


 森場については大学時代に就活で一度は調べたものの、ほぼ忘れ去っている。


 帰宅してからまず風呂の準備をした。準備といっても、ユニットバスに湯を入れるだけ。湯もガスで沸騰させてすぐに蛇口から出てくるから、大した時間はかからない。


 その間に、スマホでヤフーに接触し、『森場 重原総合科学』と入力した。


 森場 江奈。一九七九年、重原総合科学から歌手として十四歳でデビュー。


 初アルバム『路面電車』は売り上げ十万枚を越えている。四年後に出した三枚目のアルバム『灯台頼り』は五十万枚突破。


 女優としては、一九八○年から始まったテレビ夕日系ドラマ『好きで四畳半』にドラマ完結まで一年間主演出演。


 まさに順風満帆のはずが、ドラマ完結の翌年には暗転する。


 事もあろうに社長……当時は重原 鍛造……令嬢のなのとの同性愛疑惑がすっぱ抜かれた。


 もっとも、報じた『ルビーサタデー』は四流ゴシップ誌として有名で、版元の財才出版ともども一九九三年に潰れている。


 森場自身はすっぱ抜きの後失踪し、現在まで行方不明となっていた。


 なら、あの茶封筒は……。そこで初めて風呂を思い出した。慌てて駆けつけると、とっくに浴槽から溢れ出ていた。

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