大企業・重原総合科学の半生

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第十八話 冷戦対策

公開日時: 2020年10月13日(火) 12:10
文字数:4,208

 台風一過。この上ない秋晴れ、否、日本晴れとなった。


 今上きんじょうから始まり警備を担う警官から庶民一人一人に至るまで、昭和三九年……西暦一九六四年十月十日の国立競技場はまさに立錘の余地もなく満員であった。


 国立競技場に入られない人々はラジオなりテレビなりの前に食いついた。全ての日本人がそうしたのではないにせよ、現にそれは莫大な関心と感動を背景に進められた。


 古関裕而こせきゆうじの手になる、格調高くも親しみ易い行進曲に乗ってまずギリシャの選手団が入場。オリンピック発祥の地として敬意を表し、最先頭での入場となった。


 以下、各国選手団がアルファベット表記順に入場してきた。日本はアルファベット順を敢えて無視し、開催国として最後尾を受け持つ。


 二年前に米ソの冷戦対立から核戦争危機を起こしたキューバは、選手団全員が日本の小旗を振りながら入場するという非常に粋なパフォーマンスを示した。


 かと思うと、当のアメリカ合衆国とソビエト連邦はたまたま国名の頭文字が同じの為に連続しての入場となった。ちなみに敗戦以来東西に分裂しているドイツは合同チームを結成しての入場となった。


 今上はギリシャ選手団の入場から日本選手団の入場までずっと立っていた。諸外国の招待客は、日本選手団の入場時に全員が起立した。


 安川第五郎東京オリンピック組織委員会会長、アベリー・ブランテージ国際オリンピック委員会会長の挨拶に続き、今上が簡潔かつ厳かに開会を宣言した。


 それを機に五輪旗が掲揚され祝砲が撃たれると、競技場を揺るがす拍手のさなかに聖火ランナーを勤める坂井義則が場内に入った。


 坂井は広島に原爆が落とされたまさにその日に広島に生まれた若者である。彼自身は被爆していないものの、彼の父は被爆者であった。


 坂井が聖火台に点火を果たすと、拍手より涙ぐむ人々がそこかしこに溢れ、火炎太鼓の演奏が更に場内を盛り上げた。


 鳩が放たれ、君が代が斉唱され、仕上げにブルーインパルスのジェット機が空に五輪マークを描き開会式は終わった。


「どうにか始めの一歩は順当に進んだようですね」


 机上のラジオを前に、津本は満足な表情を浮かべてスイッチを消した。


 同じ机には鍛造の他に制服姿の自衛官も一人いた。多少、階級章の類に詳しければその自衛官が陸自の三佐と分かっただろう。


 旧陸軍で少佐を示すその地位は、かつて鍛造が戸原に殺させたロックジェラルドの階級……少尉……よりずっと高い。さりとて最上層部にはほど遠い。そんな地位を反映してか、最近四十代になったばかりの鍛造と似たような世代であり骨格だ。


 三人の表情には等しく蛍光灯のもたらす陰影がついている。窓一つない部屋で、空調の物憂げな音だけがどうにか単調さを和らげていた。


 一同は一つの机を挟んで椅子にかけている。折り畳み式のパイプ椅子で、本来なら衆議院議員や中堅将校や社長が座るような代物ではない。


 にも係わらず、三人の誰もがその椅子に腰を沈めるのをある種の名誉と感じていた。その理由は、一人一人の目の前に置かれた書類にあった。


「『栄養剤』は柔道には使わずじまいだそうですな」


 三佐が書類の表紙を右親指で撫でながら鍛造に顔を向けた。短く刈り込んだ髪は鍛造に旧軍時代を思い出させ、つい硝煙や死体の臭気を思い出しそうになった。


「はい、その通りです。お家芸は敢えて素の結果を出した方が良かろうと判断しました」


 鍛造の返事に、津本も黙ってうなずいた。


 これから東京オリンピックで始まる各種競技に、世界中の注目が集まるのは当たり前だ。


 やろうと思えば全ての日本人選手に『栄養剤』を投与してメダルラッシュに至らしめるのも不可能ではない。しかし、それは明らかに馬鹿げている。あからさまに不自然なのは勿論、先進国が先を争って秘密を奪いにくるだろう。


 大して目立たない競技で、五位や六位といった成績……メダリストではないにしても入賞には至る……を獲得するように意識して使う。それは『栄養剤』の効果を確認すると同時に微調整の臨床実績を蓄える事にもつながる。


 日本選手団の健康管理に携わる桑野は、よもやこんな形で自分の業務が活用されているとは夢にも思わないだろう。


「まあ、とにかく制服さんとお話する機会が出来て良かったですよ。では、資料を返して下さい」


 津本が促し、鍛造と三佐はその通りにした。


 鍛造達は、つい昨日まで一週間ほどかけた連日の打ち合わせを行っていた。場所は全てこの部屋……武道館秘密地下室である。


 東京オリンピックで一時的に緩んだとはいえ、東西冷戦は抜き差しならないところまできていた。二年前のキューバ危機がもし最悪の方向に至ったら、米ソの全面核戦争が始まっていただろう。


 やはり、自分達の見識は正しかった。鍛造のみならず、津本も三佐も同じ気持ちに違いない。


 即ち、来るべき最終戦争に備えてここ数年来建設される大規模施設の地下には必ず避難用のそれ……欧米風に表現するならシェルター……を併設する事。武道館はその走りに過ぎない。


 そんな立派な計画なら広く国民に周知するべきだという考えが湧かなかったのもまた、三人に共通していた。


 仮に日本中のビルや競技場の地下をシェルターにしたとしても、一億人を避難させて一定期間生活させ続けるなど不可能だ。それに、下手にそんな話を始めるとせっかくの経済成長にケチがつく。


 鍛造とてそれが健全とも公正ともなんら考えていない。ゆくゆくは、例えば各世帯ごとに分譲するシェルターの設計を自社で行いたいと目論んでいる。また、『栄養剤』の研究を推し進めることで放射線に耐性を持つ肉体を作り上げられるかも知れない。


 差し当たり、武道館やその他の建物の地下に収容出来るのは……仮に警報が理想的なタイミングで間に合ったとして……現在のところ一万人ほどに過ぎない。その意味でもまだまだ始まったばかりだ。


 そうした資料は津本が一手にまとめている。鍛造はあくまで一民間企業の社長だし、まさか陸自の将校が所有するわけにはいかない。一つには、三人の中では年齢からも席次からも津本が一番高い立場にあるという事実もあった。


 まとめた書類を持参してきたアタッシュケースに収めて鍵をかけ、津本が軽く目礼して部屋を出た。三人が同時に部屋の外で見つかるのを防ぐべく、一分時間差をおいてバラバラに退室するのである。


 二番目に三佐が去り、鍛造が一人残った。


 実のところ、会合場所になっているこの部屋の鍵は彼が預かっていた。長年の相互利用者である津本からの、ささやかな信頼の証である。


 同時に政治家としての津本の危機管理術でもあった。何か問題が起きても資料を破棄して知らん顔を決め込めば良い。


 鍛造は、それやこれやを百も承知で計画を進めている。どうせ最終戦争が始まれば地位だの肩書きだのは遅かれ早かれ旧時代の遺物に過ぎなくなるだろうから。


 腕時計で時間を計り、鍛造もまた退室した。忘れずに鍵をかけ、迷路のような廊下を進んで地上に出る。正午前、一番人通りの多い時間帯だ。


 敗戦直後の焼け野原とは似ても似つかぬ高層ビルや自動車の数々を、鍛造は眩しげに眺めた。これから二週間ほど、東京オリンピック目当ての観光客や商人が熱狂に継ぐ熱狂を思う存分味わうのだろう。


「すみません、ちょっとお尋ねしたいんですが」


 たどたどしくはあるものの、それなりに理解出来る日本語で鍛造は呼び止められた。


 まだ十代の中盤くらいの少年で、金髪に青い目から外国人なのは間違いない。背丈はとうに鍛造を追い越している。


 どこかで見たような記憶があり、鍛造は相手にそれと分からない程度に首をひねった。


「何ですか」


 無視しても良かった。相手への既視感がそれを乗り越えて鍛造に返事をさせた。


「僕はジャーナリスト志望でアメリカからきました。街角でオリンピックについての生のコメントを集めています。二、三分で構いませんからインタビューに答えて頂けないでしょうか」

「構いませんが、学校には通ってないんですか?」


 あくまで礼儀正しく鍛造は尋ねた。


「はい、中学を卒業してすぐアメリカのとある新聞社にアルバイトで入りました。上司の許可を取って日本で取材しています」


 淀みなく少年は答えた。出鱈目ではないのだろうが、恐るべき行動力だ。


「それはそれは。ええ、何でも聞いて下さい」

「ありがとうございます。それでは、あなたは東京オリンピックに賛成ですか?」

「無論です」

「どんな理由で賛成ですか?」

「これでようやく我が国も敗戦から名実共に解放され、改めて先進国の仲間入りが出来るからです」


 答えつつ、鍛造はたった今まで武道館の地下にいた事実を思い出さざるを得なかった。


 有事に多少なりとも……というよりはいびつながらも……国民の為になる事業を推進している自負はある。


 それは同時に重原総合科学が躍進する事実にも結びついている。自分自身についても然り。例えば、鍛造の愛車はトヨペット・スーパーからロールスロイスになった。運転手は一貫してついていない。相変わらず車の運転が彼の唯一の気晴らしだからだ。


「ありがとうございます。では、まだオリンピックを主催していない国は先進国とは見なせませんか?」


 少年は実に聞きにくい質問を平然と発した。


「いえ、そんなつもりはありません。ただ、我が国は前回のオリンピック誘致に失敗しています。日本人としてはどうしてもそれを意識せざるを得ませんでした」

「ありがとうございます。三つ目の質問ですが、オリンピックに反対する人々、特に日本人で反対する人々をどう思われますか?」

「それは個人の勝手でしょう。別に何とも思いませんよ」


 本音を飾らずに回答した。


「ありがとうございます。お忙しい時にすみませんでした。最後に、僕の名刺をお渡ししたいです」

「ああ、それはわざわざ。私も一つ……」


 つい社会人としての習慣で応じてしまった。まあ、未来のピューリッツァー賞受賞者とでも考えれば渡してもバチは当たらないだろう。


 自分の名刺と引き換えに少年から預かったそれには、『シカゴニュース パーカー・ロックジェラルド』とあった。


 ロックジェラルド。確かに似ている。年齢も、仮にあのロックジェラルド少尉の息子としても一応矛盾しない。


「ご丁寧にありがとうございます。とても助かりました」

「いや、どう致しまして。それでは」


 仮に親子としても、ロックジェラルド少尉の死と自分を結びつけるものは一つもない。動揺を一切表に出さず、鍛造は雑踏に紛れた。

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