手島は、こと自分が得をするビジネスについては絶体に約束を守った。
羊羮が持ち込まれてから一週間後。学生が一人、採用面接を受けに来た。
面接は社長室で、鍛造自身が一対一で行っている。初対面から既に、相手の持つ才覚を感じ取っており小気味良く質問と回答が組み合わさって行った。
「最後に、君の気概を聞かせて欲しい」
「はい、御社の将来を通じて日本そのものを大きく羽ばたかせて行きたく存じます。具体的には、怪我や病気になってもちゃんと治して休める場所がある事が示せれば、皆様それらを恐れずに働いて行けると思います」
学生はまだ二十一歳の女子で、宮取大学医学部の看護科に通っていた。名前は桑野つぐみ。女子としてはがっちりしていた。
それもそのはず、中学の時に柔道をしていたそうだ。試合中に怪我をして、手当をしてくれた看護婦の優しさに打たれて進路を決めたらしい。
気持ちだけでなく、実技も座学も優秀。とりたてて見映えが美しいのでは無い。
そんな些末な話より、真剣な表情には瑞々しい健やかさがあった。机に隠れているものの、膝の上に置かれた両手の指は清潔にも爪が極力短く丸く切られている。
重原鉄鋼センターは仕事柄、怪我をする危険を無視出来なかった。勿論産業医はいる。しかし、医学を理解しつつ鍛造との連絡を円滑にする存在が欲しい。
つまり、桑野は看護に加えて秘書に近い仕事もしなければならない。相当な激職であり、なまくらな人間には勤まらない。
「分かった。ありがとう。手島教授には礼を言わないといけないな」
「え? じゃ、じゃあ……」
「出来れば、三月から来て欲しい。ウチの診察室に話を通しておくから」
「はい、ありがとうございます!」
純粋な若者の混じり気の無い喜びに接し、鍛造も清々しい気持ちになった。
「では、詳細は追って連絡するから」
「ありがとうございます! 失礼します!」
桑野が退室すると、社長室は元の雰囲気で満たされた。
戸原がいなくなった。
必要なのは、彼の代わりでは無い。彼より優れた何かだ。
どの時代でもそうだが、情報収集は何にも増して重視せねばならない。
戸原は殺し屋と情報屋を一人で兼務していたようなものだ。これからは一匹狼型の人間より、組織としてまとまった情報を入手し分析していく必要がある。
無論、表社会のそれでは無い。といって完全な裏社会でも困る。
桑野が産業医と自分の橋渡しをするように、裏社会と自分の橋渡しをする……厳密にはその組織をまとめる人材がいる。
そこで自分の工場から昼を知らせるサイレンが鳴った。ひとまず昼食にしようと思いラジオをつけると、藤山一郎の歌が流れてきた。唐突に閃いた。善は急げだ。
昼は出前を頼んでいたので取り下げた。社員には、総務課長を通じて一週間ほど高知県へ行くとだけ伝えてそのまま会社を出た。着替えも宿も現地で調達すれば良い。
戸原が最後に寄越した手紙には、蛍の今後を頼むともどこに身を寄せるとも書かれていなかった。迂闊に移転先が分かると口封じに何をされるか保証が効かない以上、当然の用心だろう。
最初は、鍛造もそれで済ませていた。良く考えると、これは戸原一流の謎かけでもあった。
自分が死んだ時、もしその気なら余命幾ばくも無い母と蛍を共に引き取って欲しいという意味合いがある。
最後の手紙には母の事を一言も書いていないのが逆に決め手になった。恐らく、蛍を脱出させるので手一杯だったのだろう。
国鉄横浜駅まではタクシーを使い、それから駅弁と茶を買い込んで列車に乗った。
高知までは足掛け二日ほどかかる。その間に、ラジオを聞いて閃いた構想を練り上げておくとしよう。
翌日の真昼。
鍛造は、生まれて初めて高知県の土を踏んだ。現実にかかった時間以上に長く感じた。
岡山県まで二回乗り継ぎを行い瀬戸内海は連絡フェリーで渡り、四国に上陸してからはトンネルにつぐトンネルだった。
そうした旅路の末、高知市にある高知駅で列車を降りた。
岩崎弥太郎やジョン万次郎の故郷として知られる県としては、何ともひなびた小さな街だ。
県庁は駅から数キロ南西に進んだ場所にあり、実質として高知城の敷地に建っていた。
県庁に入って復員軍人を扱う課へ行き、復員軍人会の一員としてかつての上官の住所を知りたいと頼むと簡単に教えてくれた。
津野町なる町で、国鉄はおろか直通バスも無い。それはそれで良い。何も直に行く必要は無いのだから。
県庁を出た彼は、今度は高知赤十字病院に行った。途中、城の追手門前の通りにある青果店でバナナを二房買っておく。
まだ高知県には医大が無く、末期ガン患者に満足な治療……または苦痛の緩和……を施せる病院は限られている。高知なら赤十字病院から当たるのが妥当だろう。
言うまでもなく、県庁で知った戸原の母……戸原 戌と面会するのだ。
病院の受付で戌の病室を尋ねると、六階の三号室だと教えられた。早速エレベーターに乗り、六階まで上がる。いきなり病室には行かない。
病院は、規模にもよるが、階ごとに看護婦の詰所がある。まずそこを訪れバナナを一房進呈した……滅多に口に出来ない味覚に彼女らはおおいに興奮し、たちまち鍛造は人気者になった。別に彼女らが卑しいのでは無い。
末期患者の世話は綺麗事で済まない話が多々あり、狭い病棟の中では職員同士の人間関係にも気を遣う。誰もが新しい、建設的な刺激を待ち望んでいる。鍛造はそれをもたらしたに過ぎない。
彼女らが落ち着いてから、おもむろに戌への見舞い客がいないか聞いた。
最近になって、急に可愛らしいお嬢さんが甲斐甲斐しく世話を焼くようになったという。今日も来ているとも。
軽く礼を言って病室に入ると、なるほどそこに居た。五人部屋で、見舞い客は四人いる。一目で分かった。
患者達は全員似たような年格好の老婆で、見舞い客はこれまた同じ世代の若い女性達だ。にも係わらず、一人だけ指の動かし方がわずかにぎこちない。
世話を初めて日が浅い。まして、人生の大半を娼館で過ごす他無かったのだから。
「失礼ですが、君、戸原君の知り合いじゃ無いか?」
駆け引き無用、ど真ん中を決めた。
「と、戸原って……」
「私もね、彼に助けて貰った事がある人間なんですよ。少し、お時間を頂けませんか?」
そう願いつつ、仔細に観察した。なるほど美人だが、問題はそこじゃ無い。戌の様子だ。
寝たきりなのに髪はきちんと手入れされ、衣服の襟が整えてある。外出に備え、スリッパまで揃えられていた。患者の動きを邪魔するものはさりげなく遠ざけてもある。
ちゃんと勉強する機会があったら、桑野の良きライバルになったかも知れなかった。
「ええ……いいです」
「良かった。おっと、これは土産です。よろしければ患者さんとご一緒にでも」
いかにも慈悲深げに、鍛造はバナナを出した。彼女は、特に騒ぐでも無く黙って頭を下げて受け取った。それは、引き出しの上にある電気スタンドの傍らに置かれた。
「ここでは何ですから、廊下のソファーに行きましょう。なに、手間は取らせませんよ」
戌は、鍛造が来た当初から眠っている。その寝顔に彼女は愛情とも哀れみともつかないまなざしを寄せた。それから黙ったまま病室を出た。すぐに彼女を追い、二人でソファーに掛けた。
「では、私の名刺を出しましょう」
鍛造は、まず身元を一目で理解されるよう名刺を出した。
「ああ、戸原さんは亡くなったんですね」
とうに知っていたと言いたそうにして、その割に涙がすぐ溢れて濃く整った睫毛を濡らした。
「そうです。ずばり言いましょう、私はあなた達を引き取りたい。君にすれば、折角落ち着きかかったのにと言いたいでしょう。しかし、出来れば君の持つ隠れた才能を世の中に役立たせたいのですよ」
「もう御存知ですよね、重原さん。私は娼婦でした。あなたの名前も、下半分が読めないほど無学な女です」
涙をふこうともせず、ひりつきかかった喉から蛍は事実を語った。
「だから何なんですか。関係ありません。言わせて貰うなら、二度と身体を売らせたりしません」
「じゃあ何をしろって言うんですか?」
多分、蛍は戌の看病に没頭する事で失ってばかりの人生のやりきれなさをまぎらわせていたのだろう。いつの間にか、それが人生の目的に刷り変わっていた。鍛造は、実にあっさりとその殻を破った。
「ウチの社員食堂を経営して欲しいです。言うまでも無く、ただ旨い飯を作ってくれれば結構」
本心は、言うまでも『あった』。単に調理師を雇いたくてはるばる高知まで来たのでは無い。それは、彼女が横浜に来た後で少しずつ軌道修正すれば良い。
「そんなつもりで、わざわざ私に会いに来たのでは無いでしょう」
「いいえ、本心ですよ」
蛍は、鍛造の顔ではなく廊下と壁の継ぎ目に注目しながら考え込んだ。
「いつから、そうして欲しいんですか?」
顔を向けないまま、彼女は確かめた。
「君が良ければ今すぐにでも」
「分かりました。お願いします」
ハンカチで涙をふきながら、彼女は決断した。
「ありがとうございます……あー、……」
「蒲原 小都子。あたし、蒲部って名前だったんです。戸原さんが、お互いの名前を合わせて新しい人生を歩もうってつけてくれました。下の名前は前のままです」
「よろしく、蒲原さん」
後は、細かい事務手続きを処理するだけだ。電話が一台あれば事は足りる。
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