一枚目を開けると書類の表紙で、『樺太島奇襲作戦(秘匿名称 蛍光灯)』とだけ書かれている。
二枚目は、『本作戦の目的』と題がつけられていた。
要約すると、東西冷戦時代に旧ソ連の侵略に備えて稚内から樺太まで極秘に海底トンネルを掘削する計画だったそうだ。
トンネルは樺太にたどり着く寸前で止めておき、いざという時に開通と同時に島を占領する……という筋書きだった。
樺太を失ったソ連軍は、自分達の国を攻撃される足場を渡した格好になり日本侵略どころではなくなるとの目論見だった。
三枚目は『目的達成の手段』とあり、稚内に民間施設を偽装した拠点を作る。
資材や人員をそこに集め、工事を行う。工事そのものは、重原総合科学が行う。
正確には同社がでっち上げたダミーの子会社が普通のトンネル事業と同じように人出を集め、陸上自衛隊の指示に沿って掘削を行う。
当然ながら作業員には厳重な箝口令が敷かれ、外部との連絡も一切遮断される。
この為、住所不定者、元受刑者、或いは孤児院出身者等への働きかけが望ましいとあった。
そんな調子で、『予算措置』、『漏洩対策』、『技術的諸問題に関する覚え書き』と続き、最後のサムネイルは『民間協力者』とあった。
何人かが、どこかの料亭の座敷で並んで座っている。
画像の下の方に、一人一人について名前が記されていた。写真の日付は西暦一九八九年一一月三日とある。
そこには、一人の老人…… 重原 鍛造の姿もあった。それが会社の創始者である事くらいは知っていた。
『漏洩対策』の中で、万一他国の諜報機関が計画を察知した場合に触れてあった。
天候研究所は卑俗な汚職事件の対象として表向き処理するようになっている。そうした際、計画にかかわる資料は記録媒体にまとめ、『資料館』で保管しておく事も。
記録を個人に持たせるのでは無く『場』を構える事で、かえって流出の危険性を防ぎ所在を明確にするのが狙いだった。
書留を受け取った時には完全に酔いが退いていた。だというのに、読み進めるにつれて手が震えて来た。
心のどこかで、全ては誰か精神に支障をきたした人間の妄想に振り回されているだけだと思いたがっていた。
稚内でローレンツやロックジェラルドに会う前だったらそれでも良かったろう。それは出来ない相談になった。
これが事実だとして、誰かに訴えかけるのか。
冷戦時代の話など高校生の時と就活時とで断片的にしか学んでいない。英語も大して出来ない。日本で発表しても森場の二の舞だろう。
国際的な問題として取り上げないと意味が無い。それで、反射的にアメリカが浮かんだ。ロックジェラルドがアメリカ大使館の職員と自称していた事も。
名刺はまだ捨てていない。もっとも、彼が本当の身分を明かしている保証は無かった。
財布から名刺を出してためつすがめつしている内に、玄関の呼び鈴が鳴った。
急いで名刺を仕舞い、玄関へ急ぐ。覗き窓に映っているのは誰あろうローレンツ……と、もう一人いた。
ローレンツに目鼻立ちがそっくりで、一目で忘れられなくなる美少女だ。背は彼よりは低く、蒲原よりは高い。彼女は盆を両手で持っており、丼に入れたそばが見えた。
もう何が来ても驚かない。
開き直ると人はしぶとい。とはいえ安直に信用するのも無用心過ぎる。
「何しに来たんですか」
命の恩人に話しかけるにしては素っ気ない口調で聞いた。
「引っ越しのご挨拶と、引っ越しそばのご提供と、あなたの直面している危機についてです」
ローレンツが著しく落差の激しい話題を並べ、蒲原は吹き出す寸前で歯を食い縛った。
「そばは、伸びると味が落ちます」
再びローレンツが呼びかけた。信用していいのかどうか。
あのジャーナリストの姿を思い出しつつひどく迷った。
最終的には、自分を始末するならこんな回りくどい方法は取らないしはずだと判断した。
「少し待っていて下さい」
洗面台まで大股で急ぎ、顔を洗って髪をとかした。化粧までは時間が無い。
昨日飲み食いしたままの空き缶や袋もごみ袋に放り込んだ。この際、分別は後回しだ。
「今、開けます」
玄関に行き、鍵もチェーンも外してドアを開けるとローレンツ並びに美少女の恐ろしく綺麗で場違いな姿に出くわした。
「今日は」
顔を合わせるなり彼は言った。
「今日は」
二人を見比べながら、蒲原は返した。
ローレンツはごつい顔立ちで、やや細い青色の目に少しパーマのかかった短い金髪をしている。顎もがっしりしていて一目で喧嘩が強いと分かるハンサムだった。それでいて、服装は平凡な緑と黄のチェック柄に黒いチノパン。
「妹を紹介します。イザベラ・フォン・ローレンツです。歳は同じで、僕達は双子です」
「えっ!? そうなの?」
名乗りも忘れ、蒲原は素で驚いた。
確かに、眉をまっすぐ細くして髪をセミロングのストレートにして、顎をハート型にすれば兄が妹になってもおかしくない。
まるで、一人の人間を男性性を強調した場合と女性性を強調した場合に分けたようだ。
「初めまして、蒲原さん」
兄よりは訛りがあるが、イザベラは盆を持ったまま会釈した。アルトの可愛らしい声音だった。
「あ、はいどうも」
蒲原の方こそたどたどしくなってしまった。
「じゃあ、どうぞ入って下さい」
「はい、お邪魔します」
「お邪魔します」
二人の返事を背に受けて、一度室内に戻った。
戸口が狭いのでそうしないと客人を通せない。
「お蕎麦をそこに置いて、二人とも座って。コーヒーと紅茶、どっちがいい?」
「どうぞ、僕達にはお構い無く。伸びない内にお蕎麦をどうぞ」
まるで、そうしないと意地でも話を進ませないといわんばかりのエルンストだった。
「そ、そう?」
「お箸も添えています」
御丁寧にも彼は付け加えた。
「どうも、じゃあ頂きます」
実際、空腹ではあった。
割り箸を割って早速たぐると、だしの利いたつゆが絡んで蕎麦の香りが淡く広がった。
市販品の麺だろうが茹で加減は上出来で、歯応えがちょうどいいバランスになっている。具は蒲鉾と鴨肉で、特に鴨肉は旨味が良く出ていた。
「ご馳走様でした」
「お粗末様でした」
くそ真面目にエルンストは答え、イザベラは黙ってお辞儀した。
「丼は、私が洗ってお返しするね」
当然の礼儀として、蒲原は言った。
「いえ、僕達が引き取ります」
エルンストが気を遣って言った。
今のところ二人は理に叶った……と述べていいかどうか分からないが……接し方を続けている。それなら、こちらも気持ち良く常識を守れるだろう。
「いいから。それより、私の危機って?」
おおよそ察しがつく事でも、水を向けねばならない時がある。
「あなたが稚内で回収したUSBは、東西冷戦時代に計画されていた、樺太島占領作戦の内容を記録していました」
「はい」
「現在、ロシアからやって来た旧KGBの男が、重原総合科学の社長と手を組んで樺太に独立国家を作ろうとしています。出資者はアメリカにある国際企業です」
「KGB?」
「ソビエト連邦国家保安委員会、簡単にいうとスパイ組織です。現在は名前を変えてロシアに引き継がれています」
森場からの手紙を、裏付けるだけでなく、なお発展させる舞台裏だった。
「そして、僕達はNATOの職員として阻止しに来ました。あなたを保護して証人の一人とする為に」
誰に訴えかけようかと、あれこれ考えるまでも無かった。つまり、先方に乗っかっていればいい。
「じゃあ、ボディーガードでもつけるの?」
「そうです。しかし、それだけではなく、数日後にはここを引き払って欲しいです」
「引き払うって……どこに?」
「在日米国大使館です。ロックジェラルドさんにもうお会いしましたよね? 彼はCIAといって、合衆国独自の情報機関のスパイです」
アメリカもまた、NATOの加盟国である。CIAはNATOと別組織だが、同盟国として協力はする。ロックジェラルドの説明も、多少なりと信憑性が高まった訳だ。
「私、仕事があるんだけど」
何とも言えない複雑な心境だった。
「それは、僕達が引き継ぎます。その間得た給料はあなたのものです」
「ええっ!?」
驚くなというのが不可能だろう。
「現在、重原総合科学の株式の約四割はあるアメリカの企業が握っています。しかし、その内の一部はNATOとCIAが連携して作った架空の会社です。株主総会を通じ、外国企業との人材交換と言う名目であなたを指名しました」
すらすらと、エルンストの口から蒲原の立場を無視した経緯が明かされた。
責任云々を通り越して、考えを整理出来ない。
「そ、それって、いつ……」
辛うじて質問を絞り出した。
「およそ一年前です」
にこりともせずエルンストは言った。
「じゃあ、何? それと知ってて田上主任は私に稚内行きを指示したの?」
「その可能性はあります。その確認の為にも僕達が入社するのです」
彼の説明はいちいち正確で、何故か腹だたしくなる。
「それで、私のやっている仕事を何日で引き継ぐの? マニュアルも作っていないし後輩の面倒も見なくちゃいけないし」
「朝、八時十五分に来て割り当てられた区域の清掃またはお茶の準備。十分後に部署内朝礼。八時半に業務開始。午前中は郵便物の整理・登録、及び外線電話の取次ぎ。午後は……」
自分から質問したからこそエルンストは答えた。
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