大企業・重原総合科学の半生

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退会したユーザー

第七話 本業 前編

公開日時: 2020年10月18日(日) 12:10
文字数:3,758

 羽田空港から品川を経由して横浜に戻ったら、夜の九時にさしかかっていた。


 会社の正門は閉まっていたので非常口から入り、がらんとした階段を上がる。


 バブル時代から『失われた十年』までは、過労死を覚悟してでも残業する社員が珍しく無かった。


 社長がなのに変わって以来、無許可残業もサービス残業も強制残業も一切が厳しく禁じられている。


 パソコンのデータも持ち出し禁止で、機密保持が一番の理由ながら風呂敷残業を防ぐ意味合いもあった。これらは、近村のような秘書団が抜き打ちで調査する。


 蒲原は、上司の指示で急に戻ったのであるから何の問題も無い。しかし、総務課に入って田上はおろか誰一人いないのには閉口した。


 何故自分だけ……というわだかまりが、しつこく鎌首を持ち上げている。


 それでも明かりをつけ、自分の席の引出しから使用済み封筒を出した。


 中身の内容を簡潔に書き込んでから、USBを入れて封をする。


 はるばる稚内から持って来た品だと思うと、それはそれでなにがしかの感慨が湧いて来た。


 貴重品は小型金庫で保管するようになっている。非常口と同じように、キーナンバーを押して開け閉めする仕組みだった。


 これも、鍵穴に手で差し込む鍵は使わない。金庫に封筒を入れて扉を閉め、それでまた明日から出勤か。……と思っていたら、スマホがバッグの中で振動した。


 バッグから出して確かめると、田上主任からのメールだ。


 USBを貴重品の金庫に入れたら明日と明後日は休むようにとの内容で、年休か公休か好きな方を選んで良いとあった。


 連絡が遅れて申し訳ないと申し訳程度の言葉が添えてある。


 本来、出張業務から帰ったら出来るだけ早く報告をせねばならない。


 今回は、降りかかった災難を考えたら当然の配慮ではあった。どのみち近い内に年休を取るつもりでもあった。


 田上には感謝の言葉とUSBを金庫に入れた旨を告げ、年休を希望した。それでようやく終わった。


 総務課を出て自宅に帰った蒲原は、シャワーを浴びてすぐにベッドに入った。目を閉じてすぐ、自分がどれだけ疲れているか分かった。


 翌朝……いや、翌昼……猛烈な空腹を抱えて目が覚めた。


 半開きのまぶたを手でこすり、ベッドから出てパジャマに寝乱れた髪のまま冷凍庫を開けた。


 冷凍食品のピザを出してレンジにかけると、今日と明日の予定があれこれ浮かび始める。


 ラインで愚痴かたがた友人に連絡を取ろうかとも思ったが、あくまでこのスマホは借り物だ。それも、強制的な。迂闊に使えない。


 そういえば、労務データから個人情報が漏れて云々を報告し忘れた。それを借り物のスマホで送信するのも気が引ける。


 面倒を承知でパソコンを開けた。これも、どこまでセキュリティが保たれているか怪しいものだ。とりあえずスマホよりはましだろう。


 電源ボタンを押した直後、レンジが鳴った。ピザを出して袋を破って皿に出し、冷蔵庫から牛乳を出した。


 昨夜は、余り疲れていたせいか体重計に乗らなかった。 


 独身でいると、こんな程度の食事でも何とも思わなくなる。その癖、いざ手をつけ出すと口を動かしながら袋の裏にあるカロリーだの栄養成分表だのに目がいってしまう。


 ピザはいつもと同じ味がした。決して高級とはいえない刺激が、かえって彼女を多少なりとも落ち着かせた。


 つらつら考えるに、まずは自分のスマホを取り戻すまで個人的な連絡は控えようと決心した。


 どうせ数日の事だろうし、友人をトラブルに巻き込みたくない。労務データ流出については、これから固定電話で報告すればいい。


 それに、たまには一人で行動したかった。仲間といないと不安になったり、極端な話トイレまで一緒に行くような神経は蒲原には乏しい。


 会社に電話をかけた蒲原は、応対した後輩から田上が今日、明日ともに出張で不在と聞かされた。


 伝言出来るような内容では無いし、課長と課長補佐は海外出張で長期不在中だ。


 それなら、部長に話をするのが本筋だろう。だが、何と言って説明するのか。


 突然現れたアメリカ人と自称する男が、自分のスマホの番号を知っていた。一緒に昼食を取ったら、何やら怪しげな陰謀を語った。その癖あっさり自分を解放した。稚内警察の方がずっとしつこかった。


 こんな説明を誰が信用するだろう。十秒ほど思案した末、敢えてあさって直に報告すると伝えた。


 そうと決まったら、久しぶりに地元の商店街をぶらつきたくなった。遠出はしたから、気分転換には寧ろ近場がいいだろう。


 残りのピザを食べてから牛乳を飲み干し、身だしなみを整えて部屋を出た。


 蒲原は横浜市の西隣、吉田市にいた。かつては県内有数のベッドタウンとして知られたこの街にも、少子高齢化の波が押し寄せている。


 彼女自身、彼氏が欲しいとは思わない。両親が時々それと無く見合いめいた話を持って来ているが、全て一蹴した。


 特に硬派を気取っているのでは無く、自分の時間や資金は自分の為にだけ使いたいと考えているに過ぎない。


 そんな彼女の前に、いささか色褪せて錆の浮いたアーケードが現れた。元はオレンジ色だったそれをくぐると、薄暗いトンネルめいた空間に出くわす。


 シャッターを降ろした店舗もぽつぽつある反面、青果を並べた八百屋や巨大な懐中時計を店頭に飾った時計店が、多少なりとも昭和の空気を残していた。


 そして、ここに来ると決まって足を運ぶのが喫茶店の『ツバメ』だった。


 小学生の二年生ぐらいだったか、母親に連れられ、オムレツを食べた事がある。


 大学時代に暇潰しでこの商店街に入り、記憶を甦らせてからは年に二、三回通っている。


 出入口に向かって右脇に料理のサンプルケースがあり、オムレツもずっとそこにある。


 正確には、ケースの中には階段上の台座があり赤いビロードがかかっている。


 オムレツはその真ん中ぐらいの段にあり、白い皿の上に黄色い楕円形が乗っていて赤いケチャップがかけられていた。


 赤、白、赤、黄と言う色のリズムが気に入っている。味と値段は、舌が肥えてないせいもあろうが、普通においしいぐらいのコメントしか出てこない。


 サンプルケースと出入口を挟んだ反対側には、ツバメと書かれた立方体の看板が据えられている。


 白い半透明のプラスチック製で、夜は中から明かりがつく。イラストの類は無いが、簡潔な方が蒲原の好みに合った。


 出入口を手で開けると鈴の音が鳴り、カウンターに立っていたママ……後期高齢者と言って良い外見だが……が挨拶した。


 小さく頭を下げて奥にある席に座った。程なくして、ママがおしぼりとコップに入れた水を持ってくる。


 注文は後にして、まずは手をふいてから水を飲んだ。室内の照明は少し控え目になっていて、スマホやパソコンの画面ばかり見ている人間にとっては助かる配慮になっている。


 メニューを広げてコーヒーか紅茶のどちらにしようか考えていると、突然真向いの席に誰かが座った。


「ちょっと失礼。あなた、重原総合科学の社員さんですよね」


 ママよりは若いが十分に老けた男性が、勝手に喋り始めた。


 くたびれたチェック模様のシャツに、耳まで届いた髪。猫背気味の姿勢で、目だけはじっとこちらを眺めている。


「はぁ? 出てって下さい」


 コップの水をぶっかけてもいいが、飲み干した後だった。


「稚内に行ってたでしょ?」

「あなたの知った事じゃ無いでしょう! 警察を呼びますよ!」


 こう言う手合いにへり下る必要は微塵も無い。


「ところが、その稚内警察署はろくすっぽ相手にしてくれなかった。違いますか?」


 言外に、だからどこの警察でも似たようなものだとの圧力があった。不快にも程がある。


「おっと、私、こういう者です」


 机の上に出された名刺には、「フリールポライター 長沢 茂樹」とあった。


「誰でも結構です。早く出て行って下さい」

「ドイツ人にかかわる話、聞きたく無いですか」


 またドイツ人。


「必要無いです」


 自分ならともかく、ママならちゃんとした対応をするだろう。そう思ってカウンターを見ると、どこかに姿を消していた。店内に他の客はおらず、ショックで呼吸が浅くなりそうだった。


「私はね、昔、『ルビーサタデー』という週刊誌の記者だったんですよ。先代社長、重原 鍛造さんのご令嬢と、鍛造さんの秘蔵っ子としてもてはやされたスター芸能人の同性愛疑惑」


 メニューに集中する振りをして無視した。


「ところが、それ調べてたら、政治家まで巻き込んだ贈収賄疑惑に突き当たっちゃった。それタレ込んだのがね、森場 江奈。当のスター本人」


 長沢の方こそ、一方的にタレ流し続けている。


「うるさい!」


 十年程前の親子喧嘩以来、久しぶりに本気で怒鳴った。こんな手合いにこびりつかれる為に、稚内でひどい目に合ったのでは無い。


「『ルビーサタデー』はとっくに潰れちゃいましたけどね、私には時々匿名のスポンサーが……」


 得意気な長広舌が、不意に途切れた。


 少なくとも多少は希望通りに事態が進んだのに、ひどく不気味な心境を味わった。


 長沢の上半身ががっくりとテーブルにうなだれ、額を強く打ちつけた。コップが揺れ、蒲原は身体をすくませて後ずさりした。背もたれに阻まれた。


「お客さん、余り迷惑なようなので警察……」


 カウンターのスタッフ用出入口から、ようやくにもママが姿を現した。


「こ、この人、倒れちゃいました!」

「ええっ?!」


 ママも常識を超えた成り行きに驚き、すぐに蒲原達のテーブルにかけつけた。

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