大企業・重原総合科学の半生

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第五話 踏み板の割れ目 後編

公開日時: 2020年10月17日(土) 18:10
文字数:4,633

 急にがらんとした雰囲気が広がった。縛られた男はずっと転がされたままで、現実と非現実が混じり合っているような気分を味わった。


 とにかく、警察に通報した。もはや海産物ツアーどころでは無い。


 自分から百十番をかけるのは生まれて初めてだ。


 電話に出た警察官に事情を語る事で、ようやく普段の理性を取り戻した。


 電話を切ってから十分ほどでパトカーが二台やって来たのが、事務室の窓越しに見えた。


 ここでようやく事務室を出た。自分から玄関を開けると、制服姿の中年の男性が二人、一台のパトカーから出てきたところだ。


「来て頂いて、助かりました」


 型通りに述べて、頭を下げた。


「いえ、お待たせしました。蒲原さんですね?」


 一人が聞いた。


「はい、そうです」


 二人の警官は、それぞれ警棒の柄に手をかけたまま玄関に近づいた。


 玄関から外に出て脇に退き道を譲ると、そのまま入って行った。


 男はまだ気絶していた。随分長い間のようだが、実のところローレンツが殴ってから二十分そこそこしかたっていない。


 警官の内の一人が手錠を出して男の脇にかがみ、もう一人は立ったまま警棒を抜いて用心した。


 かかんだ方の警官はまず気絶した男の手足を拘束していたベルトを外し、両手を背中に回した状態で手錠をかけた。


 その上で、男をうつぶせにしたまま首筋に手を当てて鋭くカツを入れた。呻き声が漏れ、男が目を覚ました。


「暴行、傷害未遂、並びに器物損壊、不法侵入の容疑でお前を逮捕する。立て」 


 立っていた警官が命じると、男はおとなしく従った。


 かがんでいた警官も男に合わせて立ち、横にぴったりついて腕を握った。


 その上で、パトカーに向けて顎をしゃくり歩くよう促した。


 男がパトカーへ連行されて行く途中で、立っていた方の警官が戸口で止まった。


「蒲原さん、申し訳ありませんが、署までご足労願えませんか」


 丁寧だが威圧感のある口調に、蒲原は閉口した。逆らいたくとも逆らえない。


 黙ってうなずき、玄関を閉めてから男が乗ったパトカーとは違うそれに乗った。


 二台のパトカーはすぐに出発した。


 警察署まではわずか十分少々の道のりで、蒲原を乗せて運転している警官は一言も口にしなかった。


 犯人でも無いのに重苦しい気分を強いられ、蒲原の心は沈んだ。


 一同無言のまま、パトカーが稚内警察署の駐車場に止まった。蒲原は、運転手だった警官に付き添われて二階にある小会議室に通された。


 冷え切った部屋だ。パイプ椅子が数脚、貧相な長テーブルの周りに置いてある他は、白板と内線電話と壁かけ時計と手洗い場がある。どれも味方をしてくれそうにない。


 案内役の警官は、椅子を勧めてからエアコンをつけてくれた。やたらにうるさかった。


 それでも椅子に座って少しずつ部屋が暖まるのを実感して、多少は気持ちがほぐれた。


 エアコンをつちけた警官が去り、今の内にスマホを出して本社に連絡しようとした矢先にドアがノックされた。


「どうぞ」

「失礼します」


 そう言って入ってきたのは、蒲原より少し年上の婦警だった。


 度の強そうな眼鏡をかけていて背は低く、にこりともしていない。書類ファイルを小脇に抱えていた。


「こちら、構いませんか?」


 婦警は、蒲原の真向かいの席を手で示した。甲高い声だった。


「はい」

「どうも、失礼します」


 席に着いた婦警はファイルを開き、ボールペンを出した。


 それからは、生年月日から両親の名前、住所、勤務先も明かさねばならず、社員証と運転免許証も控えを取られた。


 これまでに何か恨みを持たれた心当たりはと聞かれ、蒲原は少し考え込んだ。


 強いて上げるなら『芸能主任』の千島だろうか。


 千島は不快な人間ではある。だからといってこの件にかかわっているとは到底考えられない。


 それ以外にはまず存在しなかった。結局、分かりませんとだけ答えた。


 しかし、ローレンツの名前が出た途端、婦警の手が止まった。


「その……ローレンツという人はどこの国の人か名乗りましたか?」

「さあ……」

「どうやってそこに来たんですか? キーナンバーは貴方しか知らないはずでしょう」


 蒲原の方こそ知りたい話だ。


「それに、あなたが警察に電話をかけた時、どうしていなくなる必要があったんです?」

「知りません。全く係りの無い人間なので」


 事実を述べているだけなのに、婦警は眼鏡の鼻当てを左手の人差し指でずり上げた。


「本当に無関係ですか?」

「はい」

「何か、メッセージを残してはいませんか?」

「いいえ」

「あなたの勤務している……重原総合科学ですか、こちらで雇用された社員では無いのですか?」


 蒲原が知る限り、外国人を雇用した事実は無い。


「秘書の、近村さんなら知っているかもしれません。本社に電話していいですか?」

「後にして下さい。それと、あなたのスマートホンも少しの間お預かりします」


 聞き捨てならない。疲労よりも、不条理さに対する怒りが湧いてきて、婦警を睨み返した。


「どうしてそんな事までする必要があるんですか?」

「捜査にご協力をお願いします。神奈川県警にも連絡を取っておきますし、必要ならご自宅に警護を立てます。数日でお返ししますし、その間は、同性能のスマートホンを用意します。分析が終わり次第、送料こちら払いでご自宅まで送ります」


 ふざけるなという台詞が口をついて出る直前だった。それを実行すると、話がややこしくなりかねない。


「分かりました」


 それだけ呟くのがやっとだった。


「ありがとうございます。それから、資料館に現れたのは、あなた以外では、男性二人だけですか?」

「そうです」

「他に助けが来たりはしませんでしたか?」


 露骨にカマをかけて来たが、どっちみち来ていないものは来ていない。


「来ません」

「はい、ありがとうございます。では、スマートホンをお預かりします。このままお待ち下さい」


 渋々、のろのろとバッグからスマートホンを出した。


 婦警はそれを受け取ると、失礼しますとだけ述べてそのまま出て行った。


 うんざりする程無為な時間が流れて行った。腕時計を見るまでも無く、壁の時計がチャイムを鳴らした。午後一時か。


 そして、自分の腹が鳴った。稚内に来て以来、何も食べていない。


 皮肉にも、窓の向こう側では『稚内海産物フェア』なるのぼりが道沿いに並んでいた。


 更に時間が経過し、再びドアがノックされた。我ながら気の抜けた口調でどうぞと言うと、先ほどの婦警が現れた。


 今度は、ファイルに加えてスマートホンと充電器を持っていた。


「お待たせしました。こちらが、代わりのスマートホンと充電器です。あなたのスマートホンを返す時にこちらから電話しますので、入れ替わりに送って下さい。着払いで結構です。それと、こちらの貸出証に記入をお願いします」


 席につきながら、婦警は告げた。黙ってその通りにする他無かった。


 諸々終わり、ようやくにも警察署から解放された。


 とにかく本社に電話をしないといけない。外は寒くてたまらないし話を他人に聞かれるのも嫌なので、一度ホテルに戻る事に決めた。


 地理が分からないので道端でタクシーを呼び止め、それで帰った。


 ビジネスホテルに到着し、フロントで鍵を受け取ってようやくにも自分の部屋へたどり着いた。


 へとへとだ。もうこのまま眠ってしまいたい。それを我慢しながら警察から渡されたスマホで電話をかけ、田上主任に事情を話した。


 腹立たしいやら疲れたやらで、途切れ途切れにしかやり取りを覚えてない。


 田上はまずUSBについて聞き、それが蒲原の手にあると知ると即刻戻るように命じた。労いも何も無い。


 命令する側は結構だが、される方は右往左往しなければならない。第一、都合よく空いている便があるとは限らない。


 それを告げると、どうしても便が無ければいつ帰られるかを改めて報告するよう言われた。そして電話は切れた。


 警察署の時より腹が立った。これが上司の取る対応か。せめて、申し訳ないがとか苦労を重ねるようだがとか、一言つけ加えたらどうなのか。


 苦労を踏みにじる困難の連続に、本気で転職を考え始めた。


 それはそれとして、帰りの便は確認する必要がある。


 手抜きして探したが見つからなかったとでもいう要領もあった。それは、自尊心が邪魔をした。近村辺りが後で調べ直す可能性もある。


 とにかくスマホでネットに接触し、一通り調べた。胃袋がひっきりなしに鳴っていたが、やけっぱちになって無視した。


 三時間後に出る便がある。空港に電話をかけ、チケットの修正を依頼すると簡単に手続きが済んだ。


 羽田空港から横浜までの時間も考慮すると、その日中に帰社するなら午後九時を回るだろう。


 田上主任に改めて電話し、それを伝えると了解したとだけ言われた。


 ホテルから稚内空港までの時間を考慮するにしても、一時間半は自由時間がある。


 意地でも食事を取らないと気が済まない。それも、事ここに至って全国チェーンのファミリーレストランなど考えたくも無い。


 荷物をまとめてフロントに降り、予定を早めてチェックアウトする旨を告げた。


 さすがにフロント係は丁寧に応対してくれた。


 さっき警察署で目にしたのぼりについて尋ねると、近くの広場で開催されている地元の物産展で食堂もあると言う。


 それを唯一の希望にして、ホテルを後にした。


 結局、正味で一時間程滞在したに留まるのか。


 出入口を出て教えられた場所に向かおうとした矢先、目の前に一人の男性が立ち塞がった。


 彼も日本人では無さそうだが、少なくともローレンツでは無い。


 ローレンツよりは老けていて……といっても老人よりはまだずっと若そうだが……背丈はローレンツよりは低い。


 それでも、がっしりした体格に赤みがかった象牙色の髪、若草色の瞳等はローレンツとは違った意味でのエネルギーを感じさせた。


「重原総合科学の蒲原さんですね? 私、アーサー・ロックジェラルドって言います。初めまして」


 陽気な表情で、少し軽めの挨拶をして来た。日本語も中々に達者だ。


「誰ですか、あなた?」


 もう突発事態は勘弁して欲しい。その気持ちが思わず顔をしかめさせた。


「アメリカ大使館から来ました。ローレンツさんの事も知っています。あなたの会社には私から連絡しておきますから、ご同行願えませんか? 決してご損にはなりませんよ」


 ウインクでもし兼ねない様子で、ロックジェラルドは言った。


「お断わりします。ご用なら本社に直接かけ合って下さい」


 ローレンツの名前が気にはなったものの、一刻も早く日常を回復したい。


「じゃあ、せめて、お話だけでも」

「嫌です」


 そうして歩道から車道に向かって、タクシーを呼び止めようとした。こんな時に限って中々来ない。更にスマホが鳴った。


「はい、もしもし」

「こう言う事なんですよ」


 受話器から、ロックジェラルドの声がした。振り向くと、スマホを耳に当てた彼がにやっと笑った。


「どうして、私のスマホの番号を知っているんですか」

「それも、お話したい事の中に入っています。私でお気に召さなかったら女性の職員を出しても構いません。どうしてもというなら日本の警察官を同席させても結構です」


 蒲原は、何かを言おうとして止めた。


 田上主任の木で鼻をくくるような態度にさらされるよりはましだ。


 実際問題、賭けの要素が強い。素直に受け入れろという方がナンセンスだろう。


 それを押し切ってでも、自分を取り巻く混沌を少しでも知ろうと判断した。


「分かりました。でも明るいところで、多くの人の出入りする場所だけでお願いします」

「駅前に、うまい海鮮料理を出す店がありますよ」


 ロックジェラルドは快活に言って、右手の親指を立てて見せた。

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