ロックジェラルドは、ズボンの右ポケットに右手を突っ込んで先に歩き始めた。
彼の背中を追うようについていってすぐに、自分に歩幅を合わせて速さを調節してくれているのに気づいた。五分ほど黙って歩き、目当ての店がそれと分かる。
『海鮮料理 樺太の根性』なる屋号を記した看板が玄関口の上にかかっていた。
看板の脇には、ねじり鉢巻をしめた壮年の板前が鱈から鱈子を取り出す様子を劇画風に描いたもう一枚の看板が据えてある。
建物は鰊御殿……瓦ふきの長細い木造建築……のような外観で、テラスが増設されており、数組のカップルが食事を楽しんでいた。
「どうします、外で食べますか?」
足を止めて、ロックジェラルドが聞いた。
「中でいいです」
外は寒いし、変に好奇の目にさらされたくは無い。
ロックジェラルドは軽くうなずき、再び歩き出した。
玄関は自動ドアになっていた。先に入ったロックジェラルドは、蒲原がドアをくぐるまで向こう側の脇に立っていた。
彼の爪先はさり気なくマットを踏んでいて、蒲原がドアに挟まれないよう気を遣っているのが理解出来た。
「いらっしゃいませ。お二人様でいらっしゃいますか?」
看板同様、ねじり鉢巻を締めて藍色の法被風の制服を着た女の子……大学生ぐらいか……が聞いて来た。
「はい」
ロックジェラルドが答えると、店員は二人を窓際の真ん中の席に案内した。それから二人が座ってすぐにお絞りと水を持ってきて、お辞儀してから去った。
卓上にはボタンがある。注文が決まり次第、押せばいい。
屋号はともかく、繁盛しているのは一目瞭然だった。まさか、こんな場所で誰かに襲われる事も無かろう。そうなると、やたらに空腹が意識された。
「何でも、お好きな物をどうぞ」
ロックジェラルドは、メニューを蒲原の前に広げた。
「メバルの煮付け定食」
「はい。じゃあ、私は身欠き鰊そば」
聞かれたのでも無く言って、ロックジェラルドはボタンを押した。すぐにさっきの店員がやって来て、注文を受け付けてから去った。
「さて、蒲原さん。改めまして。私は、あなたが大変な危機に巻き込まれたのを告げねばなりません。『蛍光灯』って、聞いた事ありますか?」
「天井で光ってます」
「その蛍光灯ではありません。日本の自衛隊の一部が計画していた作戦の名前です」
出だしからハイピッチな内容だった。
蒲原は、ポーカーフェイスのまま水を飲んだ。
「具体的に、どんな計画かまではまだ分かりません。はっきりしているのは、冷戦時代に我々アメリカの軍需産業と、あなた方日本の自衛隊にいた強硬派が結託してそれを進めていたという点です。そして、重原総合科学も計画に協力していました」
ロックジェラルドはただ事実……と、彼が主張しているところの経緯……を説明しているに過ぎない。
それなのに、何故か自分の両親の顔がだぶって見えた。
「今も進んでいるんですか?」
「まさにそれを調査中です。ここ稚内にあった、天候研究所が鍵になるらしいです」
という事は、作業員のふりをして自分を襲った人間も『蛍光灯』とやらに関心があったに違いない。
「私の電話番号は、どうやって知ったんですか?」
「失礼ながら、重原総合科学の労務記録に侵入しました」
純然たる犯罪をロックジェラルドはあっさりと述べた。訴えてもうやむやにされるからこそ、彼も正直に話しているのだろう。
「早く日常生活を取り戻したいです」
「全くその通り。私も早くアメリカに帰りたいです。もっとも、私の曽祖父は日本で亡くなりましたがね」
肩をすくめたロックジェラルドに、蒲原は、どうコメントして良いか分からなかった。
「それで、私にどうして欲しいんですか?」
「天候研究所でUSBを手に入れたんじゃありませんか?」
その通り。稚内警察署は、何故か関心を示さなかった。
「それがどうしました?」
「USBを渡して下さったら、あなたの事は全て忘れます。勿論、電話番号も含めあらゆる意味で無関係です。その先、あなたがこの件にかかわる可能性もゼロです。何故なら、そのUSBには『蛍光灯』の重要な秘密が記録されているからです」
嘘とは思えなかった。客観的に考えて、蒲原は何も知らない使い走りに過ぎないのだから。少なくとも本社の人々にとってはそうだろう。
「断って、このまま帰ったら?」
「ドイツ人があなたを守るでしょう。私としては、それはそれで結構」
「ドイツ人……?」
「ローレンツさんですよ」
ほんの一瞬現れて消えたあの青年が、目の前のロックジェラルドよりもはっきりと脳裏に浮かんだ。
「彼がドイツ人って、どうして知っているんですか?」
「元々、『フォン』とはドイツの貴族を示す言葉なんですよ。それとは別に、彼はNATOの職員です」
「NATO?」
聞き慣れない言葉に首をひねった。
「北大西洋条約機構、冷戦時代にソ連を牽制する為に出来た軍事同盟です。現在も活動を続けていて、当然、情報部もあります。つまりスパイです」
「どうして、そのNATOが私を助けるんですか?」
「それだけ、あなたがかかわっている情報が重大だからですよ」
そして、襲ったのが日本人とは皮肉な成り行きだ。
「私……」
「お待たせしました。メバルの煮付け定食でございます」
店員が、盆に乗せた料理を蒲原の前に置いた。
「ありがとうございます」
蒲原は、礼を言ったが箸には手をつけなかった。
「ま、先にどうぞ」
ロックジェラルドが気軽に勧め、それ以上は我慢が出来なくなった。
「頂きます」
「どうぞ」
まず味噌汁を飲み、じんわり暖まった。
北海道味噌は関東のそれよりは辛く、それでいてまろやかな風味があった。
ついでアスパラガスのサラダ。酸味が効いて、柔らかい中にも歯応えのある食感を堪能した。
そして、いよいよメバル。箸で背鰭を離してから丁寧に身をすきとり、口に入れると味醂入りの醤油と共にコクのある旨味が舌を楽しませた。
ついで胴体の身をほぐし、一層贅沢な味を頬張る。
そこで、身欠き鰊そばが来た。ロックジェラルドも礼を言って丼を受け取り食べ始める。
暫くは、二人とも黙々と箸を動かした。
「ごちそう様でした」
「私も、ごちそうさまでした」
食べ出すのは蒲原の方が早かった。終わったのはほぼ同時だった。
「じゃあ、ロックジェラルドさん。USBの件ですけど」
「はい」
「このまま、会社に帰ります。USBは上司に提出します。もう、私には関わらないで下さい。念のため、名刺だけ預かっていいですか?」
そう、ロックジェラルドに全てを丸投げする事も出来た。途中まではそのつもりだった。
しかし、例え田上主任や千島の様な連中がいたとしても。会社がもめ事に巻き込まれて、無関係な社員が人生を棒に振るのは避けねばならない。
ある意味、満腹で落ち着いたからこそ、冷静になって考えられた。
「はい、分かりました。話を聞いて下さりありがとうございます」
あっさりと、ロックジェラルドは納得した。
蒲原としては、蛍光灯はともかく労務記録が流出しているのは報告する必要がある。
彼から名刺を受け取り、食事をおごって貰った事に感謝してから一人で店を出た。
今度は、すぐにタクシーが見つかった。すぐに空港に向かい、羽田行きの搭乗手続きを済ませた。
待合室に行くと、テレビがニュースを流していた。重原総合科学にかかわるものだ。余り気分の良い内容とは言えない。
会社は、去年スポーツ界でのドーピング追放を啓発する漫画『逆上がり』を発表した。
主人公の野球選手がドーピングに手を出し、様々な症状……例えば関節炎、性的不能、躁鬱……に苦しめられたのが始まりだった。
離婚も経験し、最終的には理学療法士として新しい人生に踏み出すという筋になっている。漫画としてはそれなりに当たった。
問題は、寧ろ売れた後にやって来た。
世界各地における著名なドーピング事件も紹介されていて、一部が捏造では無いかという指摘が取り沙汰されている。
最初はネットで、次にテレビで。
口さがないネット雀達は、漫画の題名の一部をもじって『サカる』というネットスラングを『発明』した。
デマ疑惑をかけるという位の意味だが、『サカられる』なる言葉も生まれた。デマの疑惑をかけられるとの意である。
いずれにせよ犬や猫が性的に興奮する時の『さかる』にかけた低劣な駄洒落だった。
その疑惑に対し、漫画の監修をしていた山下明夫が今日行われるはずだった記者会見を突然取り止めにしたのだ。
体調不良との理由がアナウンサーから告げられた。テレビは山下の写真と『逆上がり』の単行本を並べてアップで映した後、街頭インタビューを流した。
予想した通り、理解に苦しむ、謙虚に事実を発表すべきといった批判ばかりだ。
中には、山下自身がドーピングをしていたのでは無いかなどとふざけ半分に言う者もいた。
『蛍光灯』云々に比べれば随分と矮小な事件だが、こちらの方が切実に感じられた。
それから少しして、羽田行きの搭乗案内を告げるアナウンスが流れた。
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