大企業・重原総合科学の半生

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第十六話 オリンピックとロマンス

公開日時: 2020年10月12日(月) 18:10
文字数:3,662

 会社を上げての熱海慰労会は六年ぶり……長久保ビル落成記念以来となる。


 六年前と同じ温泉旅館が会場に選ばれた。大宴会場にはかつての倍近い社員が集まり無礼講に熱を上げている。女子社員の姿もちらほらしていた。一風呂浴びた後なので、ほとんど全員が浴衣姿だ。


 一同を見守るように、『昭和三四年 西暦一九五九年 八月一日 祝 重原鉄鋼センター新社屋完成記念慰労会』と題された額がステージに掲げてある。紙で作った紅白の花飾りも忘れずに添えてあった。


 六年前と違うのはもう二つある。ステージの袖近くに大人の胴体くらいの立て看板があり、『ご来賓 衆議院議員 建設委員 津本 宗次郎先生 宮取大学教授 沼橋 武弘先生』と墨書した縦長の紙がかかっている。


  つまり、 四年ぶりに津本、沼橋、小都子、そして桑野の全員が同時に鍛造と顔を合わせる機会ともなった。 


「我々小都子様親衛隊は~! この身を投げ打ちっ! 小都子様にみさおを捧げ~! もって小都子様の幸福の為に邁進まいしんするのであります!」


 ネクタイを鉢巻き代わりにして額に縛りつけた中年の男子社員が、箸をマイクに見立てて叫んだ。礼儀正しくも直立不動に近い姿勢を取っている。そして浴衣の胸元がはだけていた。


 小都子は小さな手を少し厚めの唇に当て、笑いを噛み殺した。


「そうだ!」

「その通り!」

「もっとやれ!」


 半ばやけっぱちな野次と拍手が会場を揺らした。


「ちょっと待った!」


 と、まだ若い男子社員がすっくと立ち上がって熱気を覚ました。


 身なりは親衛隊とやらで演説した中年男子社員よりまだしもまともな格好を保っていた。つまり、胸元をまだはだけてない。顔はアルコールのせいで真っ赤だが。


「僕達は桑野様ファンクラブのメンバーです! 救護室の天使、まさにナイチンゲール! 桑野様こそ重原鉄鋼センターのマザー・テレサなのであります!」


 ギリシャのすぐ北にあるマケドニア。アレキサンダー大王を生んだのと同じ国で生まれたマザー・テレサは、インドで最も貧しい人々に無償で教育や食事を施していた。九年前に彼女が立ち上げた『神の愛の宣教者会』は遠く日本でも取り上げられるようになっていた。


「良くぞ言った!」

「全くだ!」

「小都子様親衛隊の専横を許すな!」


 半ば無責任な野次と拍手が会場を揺らした。


「聞き捨てならんな、専横とは!」

「若造ども、ろくな苦労も知らん癖に!」


 小都子様親衛隊から不穏な台詞が上がった。


「もはや戦後ではない!」


 三年前の経済白書から生まれた流行語を桑野様ファンクラブが口々に叫んだ。


「いいだろう、なら戦争だ!」

「上等だ!」

「いいっ加減にして下さーいっ!」


 息巻く両派を桑野は立ち上がり様に怒鳴りつけた。小都子はおろか鍛造さえ毒気を抜かれている。


「親衛隊だかファンクラブだか知りませんけど、楽しくお酒を飲めない人は出て行って下さい! ご来賓の前で何ですか、恥ずかしいっ」


 仁王立ちの桑野に羽目を外しすぎた男衆がうなだれた。


「ワハハハハハハハ! アハハハハハハ!」


 腹を抱えて笑い出したのは津本だった。


「つ、津本先生!?」


 これには桑野も困惑した。


「い、いや、失礼、しかし……」


 笑いが余程長引いたのか、津本は右目の端に溜まった涙を右手でぬぐった。


「まー、実に楽しい余興でした。桑野さんには是非、永田町で一説ぶって欲しいですね! 次の選挙では是非、不肖この津本に助太刀頂きたいです!」

「わっはっはっはっ!」


 今度は鍛造が腹を抱えて笑い出した。それを境に社員一同もげらげら笑い出し、沼橋だけが我関せずと最初から最後まで刺身を食べながら酒を飲んでいた。


 それからは親衛隊もファンクラブも分け隔てなく差しつ差されつし、真夜中近くに散会となった。


 桑野は何か気恥ずかしげにさっさと部屋に戻ってしまい、沼橋はその場で上半身を床に倒していびきをかき始め……若い社員が数人で部屋まで抱えて行ったが……鍛造と小都子は津本を旅館のロビーまで案内した。それは、宴会が終わってからそっと鍛造が津本に耳打ちしたものだ。


「ややっ、高町さん!」


 永田町の遊泳術を身につけた津本にして、不覚にも声が上ずった。


 四年前、『銀羽根』で余興の弾き語りを行った高町は、あの時からしても更に落ち着いた雰囲気の美貌を放っていた。妙齢とはまさにこのことであろう。


「ご無沙汰でございました、津本先生。重原社長とママさんも」


 高町は丁寧にお辞儀した。


「いや……こちらこそ。まさかこの旅館に?」


 津本が動揺も露に尋ねると、高町は軽く微笑しながら首を横に振った。


「別なホテルです。近い事は近いのですけれど」

「そ、そうでしたか」

「まあ先生、つもるお話もおありでしょうし、こちらの旅館には話を通しておきますから、一つ……」


 機を見て鍛造が持ちかけた。


「いやあ、実に粋な……あ、いや、恐れ入ります」


 いそいそと津本は高町をエスコートし、速やかに高町と二人で旅館を出た。それを見送ってから、鍛造は小都子を従えてロビーから旅館の奥へ回れ右して戻り始めた。


「まだ少々飲み足りんな」


 廊下で鍛造は何気なく口にした。さすがにルームサービスが出来る時間帯ではないが、自動販売機でも当たればいいだろう。


「社長、よろしければ……私の部屋に来られます?」


 廊下を踏みしめながら、小都子はぽつりと聞いた。


「何!?」


 さすがの鍛造も酔いが抜かれそうになる。


 確かに小都子は個室が割り当てられている。しかし、そんなつもりで設定したのでは無論ない。


「ああ、ごめんなさい。変な事を申しました」


 実のところ、高町を津本に引き合わせるように鍛造に提案したのは小都子である。未だに独身の津本に対し、高町とくっつければ両者に恩が売れる。


 高町自身は優秀な音楽家である。


 にもかかわらず、講師の契約が切れて音大から追い出され、女性のジャズ奏者は他に前例がないという小都子からしてさえ愚劣意味不明な理由で場末のバーにすら雇って貰えない。子供向けのピアノ教室で糊口ここうを凌ぐ毎日だった。


 そんな生活もいよいよ窮まり、数ヶ月前に小都子に相談してきたのが運命の別れ目となった。小都子は差し当たり『銀羽根』のピアノに彼女を雇い、鍛造に彼女の立場を打ち明けてから今回の計画を練り上げたのである。


 小都子からすれば、津本が死体の解剖などという悪趣味極まる嗜好を卒業するきっかけにもなって欲しい。別に彼女がそうされるのではないにしろ戸原の件も含めてトラウマになっていた。


 鍛造への誘いは、トラウマを完全に拭い去る最後のとどめになるような気がしたからこそだった。


「いや……小都子がいいならそうしよう」


 小都子の内心を見透かしたのではないにせよ、大事な機微であるのを鍛造は察した。津本達に当てられての話だとしたら小都子の策は完璧以上に的を射たことになる。


 鍛造と小都子は、互いの内心を漠然と察し合ったまま二人で同じ部屋に入った。


 翌日の夜明け前。


 何年ぶりかで男に抱かれ、小都子は一つの布団を分かち合う鍛造の寝顔を上から覗き込んだ。


 繊細で諸事慎重な戸原とは全く違い、鍛造の抱き方は前戯も体位も豪快そのものだった。自分の人生に何の疑問もなく、目的が手段を浄化するという言葉そのもの。


 押し殺したはずの声が幾度も上ずり、羞恥しゅうちに片寄った心が鍛造との繋がりを何度も締めつけ精を吐き出させた。


 事が果ててから、小一時間ほど睦言を交わした。ついに桑野を出し抜いた、それは事実ながら高揚感には今一つ欠けた。


 何故なら、鍛造は相変わらず仕事の事ばかり口にしたからだ。聞き役に回るのは何ら苦にならないものの、オアシスで水を飲んでから出発したラクダのような気分だった。


 そんな彼女にも幾つかの単語は頭に残った。


 四年前、高町も含めて『銀羽根』の会合を行った後。その年の十一月には自由党……津本はそこに所属している……と日本民主党が合体して自由民主党が誕生した。


 社会党は左右両派の合体が既に成し遂げられており、保守と革新は二つの大きな政党にそれぞれまとめられた。もっとも、議席はあくまで自民党が六割前後を握っている。


 新生なった自民党は、国民の関心を引き寄せる為にも目玉祭典を必要とした。オリンピック誘致はまさに打ってつけのタイミングと言えよう。


 そして、四年後の今年。国際オリンピック委員会は第一八回目のオリンピック開催地を東京に決定した。五月二六日、西ドイツでのそれが知らされた瞬間の日本。


 噴火や爆発では生ぬるい。新しい宇宙が何回でも生まれそうな歓喜と期待のエネルギーがあふれ返った。


 そして、重原鉄鋼センターが会社を上げて万歳三唱したのも無理からぬ話だ。様々な競技場や宿泊施設、飲食店が新築される。鉄筋が何億本と用いられるだろう。


 つまり、今回の慰労会は新社屋完成もさることながら津本個人の為のそれでもあった。それは会社全体が津本の票田に組み込まれる事をも意味した。


 余談だが沼橋は相変わらず会社に『栄養剤』を送り続けており、名誉称号的に『栄養顧問』という地位を得ているから招かれた。


 小都子の子宮の中に未だ残っている、鍛造が放った精の残滓ざんしが小都子にささやきかけた。


 自分が鍛造のように生きて何が悪い?

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