宮取大学で、かつて手島が君臨した筋肉生理学教授室。
椅子や机がはるかにましな品々になっており、応接セットまで組まれている。もっとも、不必要に華美ではない。
四脚つきの合板製のテーブルには、鍛造が手土産代わりにもたらした一升瓶の化粧箱がそそり立っている。豪華にも金箔がまぶしてあった。沼橋からすれば、つい数日前の出来事も加味して二重に目尻の下がる様相であった。
「大学院生になって以来、苦節十年といったところですかな」
目の前にいる新教授に鍛造は愛想良く語りかけた。天井には、最近取り替えられたばかりの蛍光灯がついている。今は宵の口から夜更けに迫った時間帯で、いよいよ新たな主、沼橋の存在感が増すように思えた。
沼橋は、滅多に喜怒哀楽を表に出さない。それが、いささか白ぼけた黒い角縁眼鏡を右手でしきりに撫で回している。口元も緩んでばかりだ。
手島がいた時分なら、三十代の教授など絶対に認められなかっただろう。沼橋としては、手島が辞職して吹き始めた世代交代のムードを利用するのに何らためらいはなかった。
無論、然るべき論文も発表している。各種のスポーツが筋肉に与える影響を、スポーツ別に検証したものだ。ただし、重原鉄鋼センターにまつわる『栄養剤』については一切言及していない。
プロ野球で巨人が日本シリーズを制し、大相撲では大鵬が向かうところ敵無し。国民全体が、三年後……一九六四年の東京オリンピックを意識してスポーツに熱狂していた。
「いやあ、それほどでも」
凡庸な謙遜を出すのがやっとな程、沼橋のここ数日の有頂天ぶりは激しかった。春から初夏に移ったばかりだというのに、毎日が真夏さながらだ。
「津本先生からちらっと伺いましたが、近々オリンピックの正式種目に柔道が加わるのが発表されますよ。いや、無論オフレコで」
「つまり、御社が一役買う訳ですね?」
沼橋は浮かれてばかりでなく一定の見識を示し、鍛造は黙ってうなずいた。
日本のお家芸、柔道。日本史上初のオリンピックにそれが加わる以上、特別な建物を造るのは分かり切っている。
建設族の津本はその候補地選定を行っていた。いうまでもなく、建物に用いる鉄筋は重原鉄鋼センターが納入せねばならぬ。
沼橋が敢えて黙っていたもう一つの展開を、鍛造も腹の中で受け取っていた。いよいよ『栄養剤』の出番だ。だが、それだけではない。
「先生、ここ三年の内に宮取大学様と弊社で正式に業務提携を交わしましょう。そして、弊社は選手専門の医療チームを派遣したいのです」
「その為の技術や人材を私共で提供するのですね」
「左様。予算は何ら心配しなくて結構です。ゆくゆくは、弊社が自前の総合病院と研究所を構えるところまで行き着きたいと考えております」
「実に壮大ですな」
「はい、これこそ男子一生の……」
ドアがノックされ、鍛造は口をつぐんだ。
「はい」
沼橋が少し背を伸ばし、鍛造越しに返事をした。
「失礼します。重原様、お電話が入っております」
ドアを開け、若い女性がそう告げた。沼橋の秘書である。教授室にも電話はあったが、沼橋自身への用向きでない限りは極力鳴らさないように指示されている。
「やっ、これは……」
「いえいえ、どうぞご遠慮なく」
当然至極に寛大な対応をする沼橋。
「恐れ入ります」
鍛造は一礼し、教授室を出た。
秘書室はすぐ隣である。電話を告げた秘書に導かれて入室し、受話器を取ると相手は部下の一人だった。
「社長、く、桑野さんが路上で倒れました!」
「いつ、どこでだ」
社内ならまだしも、出先で動揺を露にする事は出来ない。歯を食い縛りたいのを我慢して正確な情報を求めた。
「路上で……いや、失礼しました、二時間ほど前です。皇居のたや……たす……」
「落ち着け。田安門だろう」
「は、はい、申し訳ありません。その、田安門の近くで。既に救急車で最寄り病院に運ばれました」
「交通事故か?」
「いえ、外傷はありません。まだ検査結果が出ていませんが、過労ではないかと医者に言われました」
唇を噛みたい気持ちを辛うじてこらえた。医療チームの編成は、桑野が実質的な仕切り役だった。オリンピックに柔道が加わるのも知らせている。
元々柔道を学んでいた桑野が張り切るのは当たり前で、休日まで返上して都内の主要競技場候補地を直に自分の足で確かめていた。そして救護室の業務も並行して果たしている。
机の上だけで作る計画書には桑野は絶対に満足しなかった。人命を扱う以上、責任者の自分は開催地の地理くらい実地で頭、否、身体に叩き込ませると鍛造に宣言してもいた。
恐らくは、夜中の緊急時を想定して敢えて日没を待ってから歩き回ったのだろう。手帳でも片手にしながら。昼間、救護室で働いていたのも間違いない。
病院の所在地と病室を確認し、鍛造は電話を切った。秘書に短く礼を述べ、その足で一度沼橋の元に戻った。
「まことに申し訳ありません。桑野が倒れました」
「ええっ!?」
沼橋からすれば、さすがに表情を改めざるを得ない。
「いえ、まだ明確な状況は分かりませんが、少なくとも外傷はないとのことです。差し支えなければ、彼女の収容先に出向きたいです」
沈痛に、珍しく伏せ気味な顔から鍛造は言葉を絞り出した。
「当然です。大至急、そちらへ進んで下さい」
「ありがとうございます。重ねてお詫び申し上げます」
丁重に頭を下げ、鍛造は沼橋に背を向けた。
会社からは自分で車を運転してきた。桑野がいるのは皇居から大して遠くない病院で、車でなら飛ばせば一時間くらいだろうか。
電車を使っても良いが、終電を逃すと都内で宿泊になる。それはそれで構わないものの、結局誰かが自分の車を回収せねばならない。タクシーでも同じだ。だから、トヨペットスーパーを自ら運転することに決めた。
桑野が収容されたのは、千代田区にある岩藤救急病院という病院だった。到着した時には夜中の八時を回っており、本来なら到底面会が許される時間ではない。
手土産を用意する時間もなく、鍛造は正門の裏にある夜間外来の出入口をくぐった。受付には白衣の看護婦が詰めている。眼鏡をかけていて、余り若くはない。
「すみません、ここに重原鉄鋼センターの桑野 つぐみという女性が入院していると伺いまして。容態を心配しているので、差し支えなければ面会出来ませんでしょうか」
何をどうごまかしても有害無益なので、いっそ鍛造は単刀直入に尋ねた。
「お身内の方ですか?」
「はい、桑野の勤務先の社長です」
紛う事なき事実である。患者が運び込まれた当日の晩に、わざわざ訪問するとは余程社員思いの社長なのか桑野が重要な役職にでもついているのか。
「少々お待ち下さいませ」
看護婦はその場で内線電話をかけ、二、三やり取りして切った。
「夜の九時丁度が消灯時間です。その十分前くらいに引き上げて頂けるのでしたらお出で下さい。二階の七号室です」
反射的に、鍛造は腕時計を確かめた。逆算すれば二十分ほどか。
「ありがとうございます」
芯から礼を言って、鍛造は速やかに廊下を歩いた。エレベーターは患者用なので、階段を上がって進んだ。
受付から既に、陰気な消毒用アルコールの臭気が床からも壁からもつきまとってきている。全く無関係なのは百も承知で、ニューギニアで戦死した兵士達の姿が唐突に頭の中に現れた。
麻酔や手術どころか傷口に新しい包帯を巻いてもらうことさえ出来ず、ウジまみれになって生きたまま腐っていった彼ら。兵士として死体の埋葬を何度となく行い、最後には何とも思わなくなっていた。
それが今、清潔で近代的なはずの病院にいてじわじわと鍛造の頭を締め上げてくる。彼らとて、せめて患部にアルコールくらいかけてほしかったろう。
誰もいない廊下の中で不意に立ち止まり、鍛造は大きく深呼吸した。
桑野がこうなったのは経営者たる自分の責任である。それを果たす前に、自分のトラウマに溺れるのは許されない。
などと思案する内に、七号室のドアまでやってきた。患者名を記した表札には、確かに『桑野 つぐみ』とある。幸か不幸か個室でもあった。
なるべく軽い容態でいて欲しいと思いつつドアをノックすると、かすかに返事があった。
「失礼」
ドアを開けると、いっそう消毒用アルコールの臭いが強まった。それに埋もれるように桑野はいた。ベッドに横たわり、点滴を打たれた状態で。
「大丈夫か、桑野」
「社長……ご迷惑をおかけしてごめんなさい」
小さな声で桑野は謝った。
「何を言う、私が悪いに決まっている。君一人に押しつけていたようなものだ」
それは鍛造の本心だった。
「いえ、軽い過労だそうです。明日には退院出来ますよ」
「馬鹿、もっと休め」
思わず叱るような口調になってしまい、それをごまかすように咳払いしつつ桑野に近づいた。
「我々の計画は、少しくらい間が空いてもびくともしないところまできている。養生するんだ。業務命令だ」
「でも……では、何日くらい……」
「元通り……あー、そうだな、では一週間」
即断即決の鍛造が、いつになく歯切れの悪い返事になった。
「一週間も……」
「退屈か? 毎日見舞いにくるぞ」
「や、やめて下さい。それこそお仕事に差し支えます」
「ならいっそここで仕事するか」
「社長!」
「すまんすまん。冗談だ。そう怒るな」
なだめるように、鍛造は右手を曖昧に振って見せた。
「とにかく、一週間なら一週間、見舞いなしでお願い致します」
「うーむ、そうか。分かった」
それから数秒、二人は見詰めあった。
「社長」
「何だ」
「こんな時しか聞けませんから伺いたいのですけれど……。小都子さんとは特別な関係なんですか?」
鍛造に勝るとも劣らぬ単刀直入さで桑野は斬り込んだ。
「何故そんな質問をする」
「会社の救護室にくる患者さんが皆噂しています」
小都子が自分からぺらぺら喋るはずがない。当然ながら鍛造も同じだ。熱海慰労会の件は誰にも見られていない。してみれば、自然な好奇心が自然に変化した噂であろう。
「いや、特別じゃない」
それも鍛造の本心だった。
実のところ、あれから何度も小都子とは寝ている。しかし、互いに交わしているのは愛情ではなかった。
情愛とは言えるだろう。それを加味するにせよ、結婚を考えるには様々な理由でためらいがあった。それを解決する気にもなれなかった。
「申し訳ありません。社長や小都子さんのお話に立ち入って」
「いや、君の立場なら知っておこうという気になるのも当然だ」
「立場じゃないです」
桑野のその台詞は、小さ過ぎて鍛造には届かなかった。
「うん?」
「いえ、何でもありません……社長、そろそろ消灯時間になります」
「あ、ああ、そうだな。長居して済まなかった。治療費や休んでいる間の給料は一切心配しなくて良い。お大事に」
「ありがとうございます」
用件は済んだ。病室を後にし、夜間外来で短く礼を述べて来客用駐車場へ足を動かす鍛造の精神にはちょっとした変化が起きつつあった。
桑野の健気な姿と、戦友達の無念と、戸原に小都子。戦後からこの方、人を見る基準は全て仕事絡みだった。初めてそうでない気持ちが芽生えつつあった。
一週間後、退院した桑野は会社に復帰した。彼女への見舞いは一切禁止されていた為、容態を心配してやきもきしていたファンクラブの面々は大いに胸を撫で下ろした。彼女の一件は労災として処理されたものの、マスコミネタになるほどでもなかった。
退院してからの鍛造と桑野は、特に個人的な関係を発展させたりはしなかった。二人ともきたるべき東京オリンピックに全力を集中していたし、沼橋からは重原鉄鋼センターとの業務提携を目指した打合せが週に一回は行われた。
慌ただしい内に季節は夏から秋を過ぎ、師走の気忙しさが世間をつつき回すようになった。
雪がちらつく十二月三日。地元紙『相模新聞』の朝刊はトップ一面大見出しに鍛造と沼橋が並ぶ写真を掲載した。
『重原鉄鋼センター、宮取大学医学部と業務提携発表』
でかでかと記された大見出しの下、花瓶を飾った演壇の前でにこやかに握手する二人。前日行われた記念式典の冒頭だ。ちなみに会場は長久保ビルが用いられた。
そして、小見出しには『重原鉄鋼センター、社名を重原総合科学と変更、東証二部上場』とあった。
日本経済の発展と共に東京証券取引所も機能が拡張された。今年十月に出来たばかりの二部市場に、重原総合科学は早速名乗りを上げる事となった。
それまで重原鉄鋼センターの経営は良くも悪くも鍛造だけが全実権を握っていた。
これからは、市場を通じてより高度な資金調達が出来るようになる反面、『株主』が必然的に現れる。
目論見が立ち上がると同時に果たすべき責任がますます大きくなる鍛造。胸突き八丁を意識するのは当然だった。
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