大企業・重原総合科学の半生

退会したユーザー ?
退会したユーザー

平成

第一話 白紙とは言えない

公開日時: 2020年10月16日(金) 12:10
文字数:4,297

 十年も同じ会社に在籍していれば、副作用的に始めの頃の緊張感が薄れるのも仕方無い話ではある。


 勤務先……即ち重原総合科学総務部総務課……で自分の上司が事務的な表情で喋り続ける事務的な業務を、蒲原ゆうは真剣な表情で聞いていた。


 後輩の教育にもある程度の責任を持つ彼女は、常に余裕のある雰囲気を維持しておかねばならない。


 もっとも、相手が男性なら要領は単純だった。


 薄青色の制服の、臍にあたる部分に、右手で左手首を軽く握るあんばいで背筋を伸ばした格好。相槌は短く、鋭く。


 それはもはや、テンプレートとさえ言える状態だった。


 上司……田上主任は、そうした傾聴の仕方を何より好む。就職氷河期世代の彼は常に肉体的なトレーニングを欠かさない一方、不要な台詞は全く口にしない人間だった。


 だからといって感情が無いのでは無く、他の社員より堅苦しい雰囲気を好む事から誤解され易いだけだった。


 男性としては少し背が高く、髪はまだ白くも薄くも無い。蒲原の知る限り独身だ。


「以上だが、何か質問は?」

「いいえ。ご指示を復唱してもよろしいでしょうか?」


 田上は黙ってうなづいた。


「これから一時間以内に、資料ビルの管理主任に連絡を取った上で、資料ビルから、資料ファイルを取って参ります。取ってくるファイルは、社史の第一部と第二部です。直接、田上主任の元に持って参ります」

「良し」

「では、失礼します」


 一礼して回れ右してから自分の席に戻ると、真向かいにいる同僚の頭をすかすようにして重原病院が見えた。


 窓ガラス越しだと、病院の白い壁もくすんでいるが、今や会社にとって一番の稼ぎ頭だ。


 かつて、蒲原は採用面接の際にゆっくりした口調ではっきりと『御社が始められた、寝たきり予防プロジェクトに、パソコンや秘書検定で得た技能をもって、微力を尽くしたく存じます』と語り採用されたものだ。


 そんな彼女も入社して十年ほど立ち、いっぱしの社会人になりつつあった。少なくともそう自覚していた。


 蒲原にとって会社とは『生活費を獲得する手段』に過ぎない。それが本音だ。


 別に冷淡な性格なのではなく、体育会系の熱血主義と距離を置いているに過ぎない。


 三十台序盤という年齢に相応しく、体育会主義者を不快にさせない演技力もあった……もっとも、彼女に限らず女性は大なり小なり女優なのだが。


 世代も影響しているだろうか。過労死がマスコミを賑わし、鬱病が珍しくも無い世の中だ。若者は企業に夢など持てない状態が続いていた。


  横浜市に本社を構える重原総合科学は、世代によって抱く印象が異なる。


 団塊世代以上の人々なら、今は無き『横長』……かつて横浜にあった長久保ビルでまず間違い無い。


 まだ社名が重原鉄鋼センターだった一九五三年に、横浜市に建てられた。会社としてはビルに使う鉄筋全てを供給した。


 戦後復興の象徴と謳われた十階建てのその鉄筋ビルは、老朽化により一九八一年に取り壊された。


 バブル世代は、一九八○年から翌年まで続いた人気ドラマの『好きで四畳半』を思い出すかも知れない。


 その頃には社名が今のそれに変わっていて、経営陣は芸能界に手を伸ばしていた。


 『好きで四畳半』は、スポンサーはおろか主人公まで重原総合科学が自社で直接育てた女優を送り込んでいた。


 就職氷河期世代なら重原病院だろうか。それが出来た二○○三年には芸能部門が事実上廃止され、かつての花形だった鉄鋼部門も尾羽打ち枯らしていた。


 今や、重原総合科学は健康寿命やスポーツ医学で話題を作るようになっていた。 


 病院は極端に大きな利益を上げないようにというのが建前ながら、得られた利益を学校法人の立ち上げに付け替えて法も道義も潜り抜けるのが経営陣の狡猾さ。


 その一方で、税金対策に作った資料ビルは左遷対象者の吹き溜まりと噂されていた。


 正社員の待遇のままならともかく、資料ビル勤務者は偶然か必然かパートタイムばかりだったので説得力があた。


 資料ビルは、蒲原達がいる本社の裏にある。言い換えると、重原病院と資料ビルに挟まれて本社ビルが立っていた。


 そもそもが、資料ビルとは聞こえばかりで実態は築三十年の小さな三階建てビルに過ぎない。


 一時は芸能部門が使っていたらしい。実のところ、資料ビルへ電話をするのは初めてだ。


 卓上の固定電話の受話器を上げてボタンを押す時には、さすがに緊張した。


「はい、資料室」


 くたびれた、中年というより高年らしそうな男性が電話に出た。


 ぞんざいな対応の仕方にいささかむっとした。もし後輩がこんな態度を取ったら即座に叱るところだ。


「お忙しいところすみません。私、総務課の蒲原と申します。今、よろしいでしょうか?」

「何」

「私の上司の、田上主任の要望で、そちら様が管理していらっしゃる……」

「いつでも来て好きに持ってって」


 ガチャンと音を立て、電話は切れた。


 蒲原は、顔をしかめないよう注意しながら受話器を置いた。


 すぐに席を出て背後の壁にある白板に向かい、自分の名前の欄にマーカーペンで『外出 資料ビル 三十分程度』と記した。


 その段階で、総務課を出ているのは彼女だけだ。


 理不尽な成り行きを味わいつつも出入口で室内に向き直り、『資料ビルに行って参ります』と小さく挨拶した。


 ごく儀礼的なもので、誰も反応しないし蒲原も期待していない。踵《きびす》を返して廊下を歩き始めた。


 時間に余裕があるし、下りなのでエレベーターは使わない。だから、四階分の階段を降りねばならない。ちなみに階段はそのまま非常口としても機能する。


 階段を降りきって、ドアを開けた。


 ドアはオートロックで、外の壁に設けられたキーボタンを操作して開ける。


 そこからは社員用駐車場になる。蒲原は自動車免許も車も持っているが、通勤は電車だ。従って何の感情も湧かなかった。


 にも係わらず、駐車場を横切る内に一際大きな車があるのを目にした。


 車に詳しく無い彼女でも、それがイギリスのロールスロイスだと分かる。つまり、社長の車だ。総務課の人間なら知っていて当たり前の情報である。


 面接では人事取締役までしか会って無い。いや、入社してからさえ、社長の存在は余り話題にならない。


 もっとも、車は空だったし用もない。ただ横目に通り過ぎただけだ。


 駐車場を過ぎると、資料ビルになる。


 古ぼけた、色の褪せたオレンジ色の外装が哀愁を漂わせている。


 かつては社員用駐車場に社員のふりをした芸能記者が張り込んだりしたそうだが、今や都市伝説だ。


 いよいよビルの出入口に着くと、何か化け物めいた代物が出て来そうで我知らず足が少し震えた。


 玄関口でマットの上に立つと、自動ドアがガタガタ言いながら開いた。


「失礼します……」


 一歩中に踏み込んで、すぐに無人だと気づいた。


 カウンターの他、応接用のソファーとテーブルがある。もし指でなぞったら真っ黒になりそうだ。


 二階と三階は倉庫になっているから、さっき電話をした人物はここにいる可能性が高いはずだ。


「すみません」


 少し大きな声で言ってみた。そこでようやく、『スタッフ専用』と記したプレートを貼りつけたドアが開いた。


 現れたのは、四十になるかならないかの度の強そうな眼鏡をかけた男だった。


 髪は短いがボサボサで、不精髭がちらほらしている。私生活なら絶対に会いたくないタイプだ。首から下げた社員証には、千島 亮とあった。


「あの、電話をした蒲原です」

「ちょっと待って」


 電話と同じ無愛想な口調で遮り、千島は背広のポケットに手を突っ込んだ。そして、小型のボイスレコーダーを出した。カセットテープを使う骨董品だ。


「ねえ、録音いい?」


 髪をばりばりかきながら、千島は言った。


「はあ?」

「声。アニメ声で、可愛いから。俺、声フェチだし」

「ふざけないで下さい! セクハラで訴えますよ!」


 本気で蒲原は怒鳴った。


「あ、そ。資料室、開いてるから」

「それは分かりましたけど、謝罪して下さい!」

「え? 聞いただけじゃん、こっそり取ったんじゃなし」

「そう言う問題じゃ無いでしょう!」


 会社で無ければひっぱたいていたかもしれない。


「仕事だもん」


 事態が全く理解出来ず、蒲原は一瞬言葉に詰まった。


「俺、芸能部門の責任者。素質のある奴は記録しとくの」

「なら、最初からそう言って下さい!」

「今、本気で怒ってるよね」

「当たり前です!」

「それが君のマックス。マックスゲージが高いほど演技力も高い。最初から説明すると、わざわざマックスゲージを縮めてしまうから駄目」


 テレビゲームの解説でもしているような様子に、蒲原は、怒るのを諦めた。


 そのまま黙って二階に上がる。足音はついてこなかった。二階は……三階もそうだろうが……埃っぽく、寒かった。


 図書館のように棚がびっしりと並んでいて、『オーディション面接希望者履歴書』だの『脚本』だのといった表示札が突き出ている。


 御丁寧にも蛍光ピンクで塗られていて、明かりがついていなくとも大体分かった。


 それでも足元が危ないので壁にある電気のスイッチをつけ、二階を隈無く探す。


 千島に聞けば早いのだが、口を利きたく無かった。


 十分ほどして二階には無いと結論し、電気を切って三階に上った。


 そこも、基本的には二階と同じだった。電気をつけて、表示札を頼りに社史を探す……すぐに見つかった。


 二冊ともひどく分厚かった。それでも手をかけて、万力のようなしめつけの中から引っ張り出した。


 相当な重さながら、両手で捧げ持つようにして、後ろを向いた。千島と目があった。


「ぎゃーっ!」


 蒲原は腰を抜かし、社史を落としてへたりこんだ。その時、左手が棚にかかり、ばさばさと大小様々なファイルが落ちた。


「資料は丁重に扱って欲しいんだけど」

「黙ってそんなところに立つからでしょう!」

「手伝おうかなって思ったんだ」

「結構です! 一階で自分の仕事をしていて下さい!」


 千島は、黙って回れ右して退場した。


 腰をさすりながらどうにか立ち上がり、散らばったファイルを片付け出すと一通の封筒が出てきた。


 いわゆる定型の薄い茶色の封筒だが、宛先も差出人も無い。


 変色している上に未開封で、中身がある事だけは手の感触で分かった。


 封筒を中身に押し付けるようにして明かりにすかすと、辛うじて一言だけ分かった。『森場』とある。


 このビルの由来と結びつけると、答は一つ。『好きで四畳半』の主演女優だ。


 入社面接を受ける際、予備知識として調べていたのが妙なところで役に立った。


 本来は千島に届けるのが常識ではある。しかし、一分たりとも顔を合わせたく無い。


 そこで彼女は、社史のファイルに封筒を差し込んだ。いかにも気づかなかった風を装って、第一発見者をすり変えればいい。


 どうせ、田上主任が中身を確かめるはずだ。一刻も早く資料ビルを出たかった。

読み終わったら、ポイントを付けましょう!

ツイート