大企業・重原総合科学の半生

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第四話 褥壺(しとねつぼ)

公開日時: 2020年10月8日(木) 18:10
文字数:3,130

 横浜の街外れに、空襲で焼け残った旅館が三軒連なっている場所がある。


 一月も末に入った風の強い晩。三軒の旅館の一つ、『春椿しゅんちん』で戸原は天井を眺めながら寝煙草をくゆらしていた。


 若くは無いが、年寄りでも無い。そんな彼の身体には、無数の赤黒い傷痕が巻き付いている。大半はニューギニアでついた。


 傷痕ならずとも、細目に鋭く吊り上がった両目と逆さにした台形のような顎が今も生死の境目を渡る人生を暗示している。


 そんな彼が情事の後の火照りを煙と共に霞ませていると、横になっていた女が戸原の鎖骨に軽く唇をつけた。


 散々吸い合った後の事とて紅はつかず、ほのかな湿り気と温もりだけが灯されてすぐに消えた。


 源氏名を蛍と言う彼女は、まだ少女らしさを残した面立ちをしている。濃い性技は使わない反面、名前の通り、淡い切なさが心に残るような一晩を味わわせた。


「明日は、仕事なの?」


 唇を鎖骨から離し、ほっそりした白い両手で戸原の顎を包みながら蛍は聞いた。

 

 蛍は春椿専属の仲居という立場である。即ち、春椿にせよ他の二軒にせよ単なる旅館ではない。


 三軒はいずれも杉を使った豪勢な数奇屋造で、主として金銭に余裕のある男性が一泊二日で泊まる為に利用する。


 空襲に会うまでは、その旅館に食材を届けに来る者、布団や浴衣の洗濯を請け負う者、タクシー業者に映画館まであった。そして、軒先で客を呼ぶ……というより誘う……人々。最後の人々だけはしぶとく生き延びている。


 この区域の旅館は全て、若く美しい女性が金と引き換えに刹那の夜伽をする事で経営が成り立っていた。


 三軒は、道路沿いに東西に並んでいる。西の端から、『宝華譚ほうかたん』、『春椿』、『酔夢郭すいむかく』となる。


 いずれも大正時代に第一次大戦の特需で巨万の富を為した大富豪が造らせた。


 その大富豪は、賓客をもてなす時は『宝華譚』、自分用に『春椿』、一般向けに『酔夢郭』と、わざわざ三つを同時に作らせた。『宝華譚』は高級娼館、『春椿』は愛人の花園、『酔夢郭』は世間並の遊廓となる。


 その後、世界大恐慌に入るとさしもの大富豪も破産して自殺し、旅館一帯は大富豪の知人のヤクザが買い取った。


 以来、終戦直前までそのヤクザがまとめ役だったが、空襲の際皆を避難させる為に命を落とした。子分達も半分以上が死んだ。


 残った者達は、二番目に尊敬されている人間を次の元締めに選んだ。つまり、もぐりの堕胎医である。中絶以外に、性病の治療と刃物沙汰の手術も慣れたものだった。


 幸か不幸か、もぐりではあってもヤクザでは無いから子分達も自然と……或いは何と無く……カタギに近い存在になっている。


 亡くなった親分は、東京にあるもっと大きな組の傘下に入っていた。そちらも壊滅同然で、お互い勝手たるべしとなっている。


 三つの旅館もばらばらに経営しており、昔のような繋がりは薄れていた。旅館と元締めの立場さながらに、蛍の立場も宙ぶらりんになっている。戸原としてはそんな彼女の事情に興味を持った一面もあった。


「いや」


 短く戸原は答え、また煙草をふかした。


 壁際の、椿を彫り込んだ欄間らんまが薄紫色の煙越しに見えた。


「じゃあ、もう一日泊まる?」


 と聞くのは言葉だけで無く、気紛れに二泊三泊する事がたまにある。


 余り一人の女に入れ込まれると、痴情がもつれる恐れがある。だから旅館側は渋るはずなのに、ごく少数ながら戸原のような客もいた。


「いいや」


 また、ぽつりと答えた。


「ねぇ」


 思い切った口調で彼女は持ちかけた。両手を戸原の顎から引っ込め、両肘をついて斜め上から戸原を眺めている。


 少し細長いが、日本人としては豊かな乳房がかすかに揺れた。


「何?」

「あたしさ、足抜けしたら小料理屋でも開こうかなって思ってるんだ」


 娼婦の上がりは、同じ娼婦の元締めか飲食業か。後は、性病を治療するだけの金が工面出来ずに悪化して苦しみながら亡くなったり、嫉妬に狂った男や女に刺されて亡くなったり。


 一度腹を据えたら女は強いと良く言われる。それが逆に、身体を売る事への嫌悪感にこだわらなくなれば、そのまま浮草のように成行に身を任せる人間も多かった。


「料理、出来るがかや」


 諾か否かのやり取り以外の会話になると、戸原は故郷……土佐……の言葉が丸出しになる。


「うん。あたしの作る賄い、評判いいんだ」

「それで、金を貯めゆうがか」

「うん」


 蛍は、そこから先にこそ何か言いたい話がありそうだった。しかし、相変わらず戸原は天井を見たままだった。


「おまん、どこの生まれな」


 それでも、戸原は自分から水を向けた。


「信州……長野県」

「遠いねや。東京かどこかで店出すがかよ」

「ううん、大きな街は嫌。田舎の方がいい。ね、高知って、どんなとこ?」


 甘えるように促され、戸原は吸っていた煙草を枕元の灰皿に入れた。


「高知言うたち広いきねや。俺が生まれたがは津野言うて、山奥よ」

「つの?」

「さんずいの津に野原の野よや。俺は、十二、三ばあまでそこにおって、それから大阪に行ったがよ。やき、高知の街中らぁの事は余り分からん」


 戸原にしては、詳しい解説だった。


「そうなの」


 特に失望した風でも無く、蛍は相槌を打った。


「いつ、足抜けするつもりな」

「まだ、決めて無い。でも、お料理は毎日練習してるし」


 そう言って蛍ははにかんだ。


 その時、一際強い風が窓を揺さぶった。


 蛍は少し驚き、敷き布団に突っ伏した。何か機会のような物を感じ、戸原は彼女の背中に被さった。そのまま首筋を甘噛みすると、蛍は小さくうめき、すぐに太股の奥を濡らした。


 二回目の情事は、一回目より長くかかった。


 事が果ててから、終始うつ伏せになったままの蛍は両肩を震わせて余韻を収めている。


 戸原も肉体的にはおおいに満たされ、灰皿の傍にある煙草を一本取った。マッチを擦って火をつけると、かりそめの充足感が肺を満たした。


 足抜け……。戸原自身も考えなくは無い。もっとも、蛍のような商売をしているのとは無論違う。


 明日には私設私書箱を確認しないといけない。手紙があれば、即ち仕事となる。最後の仕事は去年の暮れで、多少の手間がかかった。


 どこぞの議員の首席秘書を数日間尾行し、獲物が赤提灯から出て来て立ち小便をしかけたところを背後から手刀を叩き込んで気絶させた。それから消毒用アルコールを満たした注射器の針を血管に差し込んだ。


 検死は心配しなくて良いと聞かされていたし、事実そうなった。それでも抜かりのないよう、注射器は現場からずっと離れた場所にある廃墟でゴミと一緒に燃やしておいた。


 日本全国で空襲の爪痕が至る所に残っており、浮浪者が焚き火をするのは珍しくも無い。少しも怪しまれなかった。そうした類が、年に五、六件あった。


 戸原には、緩やかな形での雇い主がいる。ニューギニア戦線で助けたかつての部下……重原 鍛造が、今や立場逆転して戸原に命令するようになっていた。


 土佐に残っている老母が癌にかかっている。それが、戸原と鍛造の人間関係を決定した理由だった。戸原の父は炭焼き職人で、商品を捌きに高知市へ来た日に空襲で死んだ。


 復員後、つてを辿って鍛造を訪ねた戸原はありのままの身の上を話した。鍛造もそれに応え、依頼においての隠し事は無く報酬も弾んだ。


 仕事がある時は鍛造自身が私設私書箱宛に手紙を出す。言うまでも無く、中身は暗号になっている。


 手紙がいつ来るか分からない反面、空いた時間は勝手にして構わない。そこが、戸原も気に入っていた。


 報酬の半分は老母へ送り、もう半分は『春椿』か博打に使っている。ある意味で蛍の方がまだしも前向きだった。


 ラジオや新聞で知る限り、世間はスポーツに邁進しつつあるようだ。重原鉄鋼センターも大きな利権にかかわるのだろう。


 小料理屋の話をもう少し続けるかと思ったら、蛍は静かな寝息を立てて眠っていた。

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