大企業・重原総合科学の半生

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第二十二話 蛍光灯

公開日時: 2020年10月14日(水) 18:10
文字数:3,555

 この十年近く、何度同じ部屋……武道館極秘地下室に集まった事だろうか。


 五十代にさしかかり、鍛造の髪にもそろそろ白いものが混じり始めていた。同席している二人も同様だ。


 津本は相変わらず建設省の政務次官で通している。何度か入閣の話があったのに固辞していた。


 陸自の三佐は二佐に昇進していた。定年と同時に名誉昇進で一佐になるのだろう。


 今回が今までと違うのは、資料を呈示したのが鍛造という点にあった。まさに逆である。


「ぼちぼち年の瀬だというのに庶民は浮かない顔ですね」


 読み終わった資料を前に、津本は当たり障りのない発言をした。永田町で培った保身術の一環である。


「ウチは間に合っています」


 冗談とも真剣ともつかぬ表情と口調で、三佐改め二佐が続いた。


 自分が津本の言う庶民とやらに当たるのかどうか、鍛造は確かめたくなった。しかし、今それを口にするのはどう考えても馬鹿げていた。


「で、このお話……陸自さんはいかがですか?」


 津本が水を向けた。


「確かに興味深いです。ただ、影響は限定的ですな」

「ふむ……」


 結んだ唇を少し波打たせ、津本は腕を組んだ。


「重原さん、あなたの分の資料も私が預かっても構いませんか? いや、遅くとも年内にはお返しします」

「はい、それはもうお願い致します」

「念のために確認しますが、原本もコピーもお手元にはないですね?」


 そんな質問は、鍛造と津本の間で初めて投げられた。鍛造にはいちいち気にする余裕はなかった。


「はい、その通りです」


 津本のこの反応にはなにがしかの手応えがあった。胸を撫で下ろすとはいかないにしても。


 遠く中近東の国家情勢が自分達に響くとは、まさか想像もしていなかった。


 かつてアラブ諸国がイスラエルと三度に渡り戦争を行い、ことごとく敗れた話なら知っている。


 人口が千万人にも満たないイスラエルは、一度でも敗れれば滅亡しかねない。アラブ諸国もそれは十分に理解している。


 イスラエル……つまりユダヤ人は巧みに欧米の支援を得て戦った。アラブ諸国はソ連から支援を受けた。その意味では東西の代理戦争でもあった。


 四回目の交戦は、イスラエル軍が奇襲され苦戦を強いられたところから始まった。


 ソ連がアラブ諸国に提供した対戦車ミサイルと対空ミサイルがイスラエル自慢の戦車と飛行機を阻み、アラブ諸国は勝利を確信した。追い詰められたイスラエル軍は核兵器の使用まで本気で検討した。


 しかし、イスラエル軍の圧力に耐えられなくなったシリア軍がエジプト軍に支援を要請して戦局は変わった。


 どうにか劣勢を盛り返したイスラエル軍に対し、アラブ諸国はイスラエルと友好な国々への石油輸出を削減または禁止した。


 日本はアメリカ合衆国の同盟国であり、つまりこの戦争においては間接的にユダヤ人の味方となる。


 即ち、日本はこれまでのようには石油を買い取る事が出来なくなった。いや、日本だけでなく大抵の西側陣営が大なり小なり同じ危機に見舞われた。


 噂が噂を呼び、デマがデマを招いて日本は経済的にも社会的にも大打撃を受けている。まさに油から受けた衝撃、即ちオイルショックだ。


 重原総合科学は、皮肉にも第四次中東戦争の勃発間もない昭和四八年(西暦一九七三年)十月十一日に東証一部上場を果たしたばかりだった。それはあの東京オリンピックの競技開始日であり、ゲンを担いだつもりだった。


 まだ鉄鋼以外の部門はようやく投資が実を結び始めた時期であり、会社の牽引役はやはり鉄鋼部門である。


 それが、受注していた事業が次々に中止され会社として人員整理に踏み切るかどうかというところまで追い詰められている。


 さすがに我と我が身の不覚を恥じる鍛造だが、一人悩みに悩み抜いて今回の会合に至った。


 津本が鍛造と二佐にうなずき、自らの鍵つきアタッシュケースにしまった資料。


 鍛造自身が手ずからコピーしたもので、表紙には『R文書』と手書きしてある。


 それこそ二十年前になろうか。ロックジェラルド少尉がもたらした契約書。後生大事に保管しておいて助かった。


 いかに冷戦下とはいえ、いやしくも独立国家の一私企業に対し憲兵将校がスタンドプレイ……だろう……でスパイ狩りの依頼を行い、報酬の約束まで取り付けていた。


 これが公になれば米軍の権威に傷がつくのは間違いない。痛くもない腹を探られる連中も出てくるだろう。


 鍛造は、津本にこの契約書を渡す代わりに融資の斡旋を依頼したのである。


 鬼が出るか蛇が出るか。事と次第によっては、パーカーのようにトラックに突っ込まれてもおかしくない。


 こんな時、我が身の安全を心配するような鍛造ではない。


 会社が潰れれば数千人に達する社員が路頭に迷う。鍛造の大事な目的……最終核戦争を見越した避難所の建設……も不可能に等しくなる。旧姓桑野、今は重原婦人のつぐみが心血を注いだスポーツ医学部門も解散。


「とにかく、悪いようにはしません。余り思い詰めないで下さい」


 アタッシュケースにかけた鍵をポケットにしまいながら、津本は声をかけた。


「ありがとうございます」


 鍛造が津本に頭を下げるのを眺めつつ、二佐もまた自分に渡されたR文書を自らのアタッシュケースに入れた。


 話の舵取りは津本がするにしても、現物が防衛庁に渡された上で永田町ならではの協議が行われるのは明白だ。


 会合は終わり、他の二人に続いて鍛造も地上に出た。


 陽はとうに暮れており、いつ雪が散らついてもおかしくない寒さだ。道行く人々は思い思いにコートやマフラーを身につけている。


 厚着なのは鍛造も同じだった。もっとも、彼の場合はすぐに駐車場の愛車……ロールスロイスに乗って暖房をかけるから大した我慢は必要ない。


 いざ運転席に乗り込み……いまだに運転手はつけていない……エンジンをかけて道路に出ると、もうじきクリスマスだというのに街中はどこか暗かった。


 省エネなる言葉が官民一体で叫ばれ、過度な電飾は自粛されている。


 物価は確実に上昇し続け、その割にデマの対象……例えばトイレットペーパーの品切れ……になった商品はヒステリックな買い溜めや買い占めの対象になっていた。


 僅かな希望を大事にしまいながら、ロールスロイスが自宅の駐車場にたどりついた。


「ただいま」

「お帰りなさいませ、旦那様」


 玄関口で、お手伝いの老女が頭を下げた。


「お帰りなさい、お父様」


 八歳になる自分の娘が丁寧に頭を下げた。親の欲目ではないが、母親に似てか可愛らしさの真っ盛りだ。


「お帰りなさい、あなた」


 つぐみが娘の隣でお辞儀した。


 桑野は、重原つぐみとなり出産したのを契機に退職して主婦に専念していた。スポーツ医学部門は……少なくとも彼女の概念では……つぐみの手を離れて順調に発展している。それで、一人娘を手塩にかけて教育するのに次の生きがいを燃やしていた。


「ただいま、つぐみ、なの、ばあや」


 いうまでもなく、鍛造はいちいち自分の帰宅の度に家族や召使いを玄関で出迎えさせているのではない。今回はたまたま三人がそろったに過ぎない。


「ばあやがお風呂が沸かしてくれましたよ」

「ああ、分かった。ありがとう」


 土間で靴を脱ぎ、廊下に足をかけると娘のなのが甘えて服の裾を引っ張った。


「こらこら、服が伸びる」

「うふふふふ」


 なのは笑って鍛造の腰に抱きついた。


「まあ、はしたないですよ」

「いや、構わん。ばあや、すまんが頼む」

「かしこまりました」


 ばあやに上着を預け、なのの頭を撫でながら風呂場に向かう鍛造。


 なのがまだ幼い内は、妻子で入浴することもあった。最近はさすがに一人で入るようにしている。


 脱衣場で服を脱ぎ、浴室に入ると沸き上がる湯気が鍛造を暖めた。


 ロールスロイスに相応しい邸宅として、風呂はつぐみがスポーツ医学部門の次に情熱をかけて建築士に注文している。お陰で鍛造は車の運転と同じくらいくつろげる場所を得ていた。


 身体を洗ってから湯船に浸かると、意識しなくとも軽い溜め息が出てくる。


 会社の具合は、極力つぐみにも打ち明けてはいる。黙っていても良かれ悪しかれマスコミが書いて公表する。


 しかし、いくらなんでもR文書は論外だ。小都子ならまだしも。


 小都子か。江奈とやらいう女の子を産んで、女手一つで育てているそうだ。


 江奈の出産以来、蒲原親娘には一度も会っていない。銀羽根はずっと営業しているものの、会社に正式かつ独立した福利厚生部門が出来たのでそれに一任している。


 幸いにも、なのはすくすく成長を続けている。いずれは、腹違いの姉妹として対面させねばならないだろう。


 さておき、永田町での結論によっては鍛造は退陣を迫られるかも知れない。名誉職として会長か何かに祭り上げられる可能性もある。


 仮にそうなったとして、自分にもう一回裸一貫からやり直す時間と力があるだろうか。


 鍛造は、二回目の溜め息をついて湯で顔を洗った。頭上には蛍光灯の光が湯気越しにかすんで見えた。

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