だるまストーブの熱気が室内を十分に暖めていた。にも係わらず、戸原は窓を開けた。
たちまち頬が凍りつくような冷気が流れてくる。全裸なので、幾ら鍛えていようが寒いものは寒い。
「熱い? ストーブ消そうか?」
背後の淡い闇から、蛍が声をかけた。
彼女もまた全裸だった。営みはもう済んでいるが、わざわざ服を着るまでも無い。
「いや」
外を眺めたまま短く答え、冷気を軽く吸い込んだ。冬場とあって、冷たいだけでなく乾いてもいる。
政治家首席秘書とロックジェラルドを殺した。世間は鍛造の思い通りに動くだろうか。
去年、バカヤロー解散で一時窮地に立った吉田 茂は次の選挙で再び首相になった。五回目の政権ながら、様々な意味で『発展的解消』を迎えつつある。
日本が敗戦からの復興を果たしつつある以上、その牽引役として手腕をふるった吉田はそろそろ若手に道を譲る時期にさしかかっていた。
ついでながら彼の父は土佐人であり、本人は東京生まれだが選挙区は高知で当選している。
「昨日ね、近くの大通りでデモがあったの」
「デモ?」
何とも民主的な言葉に戸原は振り返った。背後の地上には、デモ隊が練り歩いたであろう道路が冷え冷えと伸びている。
蛍は布団を臍の辺りで折り返し、上半身を起こして少し顔を下げていた。
痩せてはいるが丸みのある顔だちと、長めの綺麗な黒い髪が濃い睫毛を際立たせていた。
「日本は、清潔で立派な誇り高い文明国です。浮浪者、暴力団、不良飲食業者のような汚ならしい人達はいなくて結構です、って。街の婦人団体が練り歩いていた」
『春椿』は、建前上は旅館となっている。旅館内で経営する飲食店が、即ち蛍のような娼婦のいる部屋だった。ちなみに戸原は浮浪者だ。
「自分らぁは清廉潔白かや、そのおばさん連中は。どうせ、魚屋行ったら切身の他に醤油もおまけせえとか言い出すようなモンばっかやおが」
デモ自体は立派な手段なのだろうが、人を綺麗だ汚ないだで、厳密には立場だけで区別する発想には敵意が湧いて来る。
「ここにもお巡りさんが来てた」
「相手をさせられたがか」
普段から、警察に娼婦を無料で『営業』させて手なずけておくのはどこの娼館でも常識だった。
「ううん、違う子。でも、このまま商売を続けさせるのは難しくなってくるって。偉い人達がこの辺りに道路を通すから、立ち退きしなきゃいけないとか」
世の中が、目まぐるしく変わる。
変わらないでいるという選択肢が許されないのは何とも息苦しい。そんな時、人は自分のルーツに解決を得ようとする。
彼にすれば土佐は幼少期の場所であり、水田でドジョウをとったり川で泳いだりした記憶が大半だった。
「足抜けするかや」
「駄目だよ、まだお金貯まってないから」
「俺が出しちゃらあや」
さらりと戸原は言った。
「え……?」
「多少は蓄えちゅうがやろ? 俺から出す分も合わせたら、足りんかや」
「でも……」
右の人差し指を小さくやや厚めの唇に当て、蛍は返事を濁した。
「俺んとこよ、お袋がガンで世話が大変ながよ。今は病院やけんどねや。家で面倒見てくれたらえいき」
母の具合が悪化したら私書箱に電報が来る。まだそれは無い。
「それ……結婚……て、事?」
その言葉を、出した本人の方が驚いていた。
「したかったらすりゃえいし、しとうなかったらただの看護人でもかまん」
「あなたは……どうなの?」
「そうやねゃ。ちゃんとした仕事についちゃせんき、まずは就職してからやねや」
半ばは本気だった。
殺し屋稼業も嫌いでは無い。その反面、いつまでも続けられる商売とは思えなかった。
鍛造の会社が大きくなるにつれ、自分のような存在が邪魔になりかねないのも理解出来る。
極端な話、鍛造からすれば新しい殺し屋に消させても構わない。
もっとも、蛍にせよ戸原にせよ、新しい人生を手に入れたいなら戸籍の改竄ぐらいはする必要があるだろう。
戸原はそうしないと鍛造との因縁が断てないし、蛍も娼婦だった過去など取り沙汰されたくない。
ニューギニアで鍛造に持ちかけた時も同じだった。何か気に食わない大きな仕組みに接した際、反発の手段としてその仕組の犠牲になりそうな人間を助けるのである。
「あたし……でも、あなたのお母さんにはとても……」
「馬鹿正直に打ち明ける事は無いわや。まぁ、ろくに意識もありゃせんき聞いたちしゃあないかもしれん」
自嘲と表現するには乾いた表情で、戸原は言った。
「少し、考えさせて……いい?」
「かまんよ。ゆっくり考えや」
蛍は、小さくうなすいた。
数日後。
凍りついた朝の冷気が、コート越しに全身を叩いていた。にもかかわらず、珍しくも戸原は自分が抱えている情熱を誰彼構わず打ち明けたくなる衝動にかられていた。
これまでに得た、否、発散した情熱は獲物を追い詰めて殺すという実に殺し屋らしい経験が殆どだった。もうそれは要らない。
『春椿』の正門をくぐった時、たまたますれ違った幾人かの使用人がよそよそしい態度を取った時も大して気にはならなかった。
しかし、玄関に進み、かまちで彼を迎えた女将が申し訳なさそうに総支配人……ヤクザの後を継いだ医者……の不在を告げるとさすがに表情を曇らせた。
「いつ帰ってくるがな」
「申し訳ございません、今日はちょっと……」
その時、帳場の奥から女の呻き声がかすかに聞こえてきた。女将には分からないようだったが構わず靴を脱いだ。
「あ、あの」
女将が右手を上げた。そのまま上がった。困りますと聞こえたのを無視して足を踏み鳴らし、畳敷きの帳場から板敷きの廊下を経て『診察室』と札を釘打ちされたドアを開けた。ノックなど微塵も思い浮かばなかった。
「な、なんだ君は!」
鰯の干物のような身体をした男が、ベッドの上から首だけこちらを向いた。
脇にある丸椅子には、白衣が乱雑に置かれている。ズボンやシャツに至っては床に投げ捨ててあった。
男の下には着物姿の女がいた。男よりはずっと若い顔見知りの娼婦だった。蛍ではない。胸元がはだけていて、慌てて両手で隠した。
「先生、居らんがや無かったがかや」
後ろ手にドアを締めながら、戸原は尋ねた。
「し、失礼だろう、診察中に!」
ラジオのコントなら笑っている場面だ。今は少しも面白く無い。
戸口の傍にあった本棚を少しずらして即席のバリケードにする間、ベッドの上の二人はぽかんと眺めていた。
「蛍の事で話がある」
バリケードの解決がついてから、戸原は言った。
「蛍? あいつは関係ない!」
そう言いつつも、ようやく、総支配人はベッドから降りて、パンツを手に取った。
「どう言う意味なや」
「あいつは売っ……移籍した」
パンツをはいて、今度はズボンに足を通し始めた。
「移籍?」
「東京の岡場所だ。本人の希望だよ」
ベルトを締めながら、一応は答えた。
「どこの岡場所なや」
「あんたの知った事じゃ……」
戸原は滑るように近寄り、総支配人の左脇にぴたっと貼りついた。さらに自分の右腕で総支配人の右腕を身体に密着するように押さえつけた。その上で、左手を喉に当てて窒息しない程度に鷲掴みにする。
「先生、素直に言うた方が良いぜよ。蛍はねや、金払うて足抜けする予定やったがやき。おんしゃが金に困るか何かして、因果を含めて行かせたがや無いがかや」
「ち、違う!」
「声が大きすぎるわや」
戸原は左手に力を込めた。
「ほ、本当……だ。立ち退き運動をかわす為に、ある政治家と懇意にしている暴力団に話をした。その暴力団がやっている岡場所に行ったんだ」
「その岡場所言うがはどこなや」
言葉だけでも絞め殺しかねない力がこもっていた。
「品川にある『赤手鞠』だ。言っとくが、世間には料亭で通っているところだよ。あんたが行っても……」
「他に、それを知っちゅうもんがここに居るかよ」
「いない。どこに行ったかは、私しか知らない」
それだけ聞けば充分だ。
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