大企業・重原総合科学の半生

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第二十一話 血筋

公開日時: 2020年10月14日(水) 12:10
文字数:3,006

 せみの鳴き声が騒がしく窓ガラスをどよもしている。


「遅くなって申し訳ありません」


 高知赤十字病院の病室で、小都子は生んで間もない女の子を抱きながら戸原の母に挨拶し終えた。返事はない。呼吸もなければ脈もない。それは最初から知っていた。


 ないといえば、江奈と名づけた娘を抱く小都子の指にはなんの飾りもない。恐らく、これからもそうだろう。


 思い返せば、戸原の母はごくまっとうな結婚を経て戸原を産んだ。


 いつからガンになったのかは不明瞭ながら、控え目に見ても途中まではそれなりに幸福な人生だったように思える。


 では、息子の死も分からないまま十年以上を病室で暮らし続けた晩年については幸福だったのだろうか。本人に意識があったなら、少しは会話したかった相手なのは間違いない。場合によっては姑として意地悪をされたかも知れないが。


 いずれにせよ、病院からの電報を受け取り高知にかけつけた時には顔に白い布がかけられていた。主治医の話では、安らかな大往生だったそうだ。


 事前の打ち合わせで、衛生上問題がない限りはまず病室で対面する手筈ではあった。火葬場にも段取りが立ててある。


 身寄りがない為葬儀は行わず、火葬する時にだけ簡単な読経を上げて貰う。娼館では、死ねば事務処理だけして火葬を経て無縁墓地と相場が決まっていたからまだしも厚待遇と考えていいだろう。


 それに、戸原の一族の墓地を探す余裕まではない。さりとて放置も出来ないので遺骨は小都子が自宅に引き取る事にしていた。


 などといったあれこれを、一通り自力で済ませた。鍛造が控え目に助力を申し出たものの、丁重に断った。奥様が大変でしょうからという台詞を抑えたのがまだしもの自制心であった。


 鍛造は、桑野を選んだ。小都子は負けた。まるで、女王蜂になれなかった雌蜂が尾羽打ち枯らして地面に横たわるような気分を味わい続けている。


 すやすや眠る自分の娘を抱きながら、小都子は蛍だった時分を思い返した。


 一昔前よりましとはいえ、性病や妊娠に怯える苦界そのもの。


 戸原は一筋の光明でもあり暗黒でもあった。鍛造が、戸原と唯一接点を持っていた自分を警戒するのは目に見えているから。


 その癖、戸原の母が亡くなった事で個人的には完全に彼との縁は切れた。


 故人の枕元にある小さな車輪つきの机の上には、安物の小さな皿が数枚と箸が一膳置いてある。それらが故人の遺した全財産だった。


 遺体に謝罪してからすぐ、小都子は新聞紙で遺産を一つ一つくるみ始めた。娘は紐で背中にくくりつけてあるから心配いらない。


 思えば、鍛造に初めて会ったのもこの病院でだった。あの頃は彼も小都子も様々な意味で若々しかった。それをほぼ消費し尽くしつつある今、見返りは得られたのだろうか。


 皿をくるむ新聞紙は半年ほど前の全国紙で、『高度経済成長の申し子、東京オリンピックのナイチンゲールと華燭かしょくの典』などと大見出しにある。


 添えられた写真には、満面の笑みを浮かべる重原夫妻が媒酌人を勤める津本建設政務次官を脇に立っていた。ちなみに結婚式場は長久保ビルである。


 もっとも、小都子にとって一方的に不利益な話ばかりではなかった。


 せめてもの償いとして、小都子の血筋は末代に至るまで無条件に重原総合科学の守護を受けるものとされた。


 より具体的には、入社も退職も自由に何度でも構わないとするものだ。


 小都子自身は身分据え置きのままグループに残るが、あくまでも彼女自身の自由意思が優先される。


 その代わり、江奈の父親は最初から病死しているものとせねばならない。


 公には出来ない約束ながら、小都子も自分の半生を振り反って悪くない取引だとは思い直した。


 何より、子供は重要な切り札になるはずだ。鍛造とて永遠に生きているのではない。女の戦いは、相手にとどめを刺すまでいつまでも続く。世代交代の機会を胸に臥薪嘗胆がしんしょうたんあるのみだ。


 病室のドアがノックされた時、丁度全ての食器が新聞紙にくるまれたところだった。


「はい」

「失礼します」


 主治医が入室した。看護師二名が一緒だ。主治医は初老の痩せた男性で、少なくとも戸原や鍛造よりは堅実な人生を送ってきた人物である。


「霊柩車が到着しました」

「ありがとうございます」


 力及ばず申し訳ありませんという謝罪は既に受け取り、型通りの感謝も済ませている。


 そこからは、滞りなく手順が進んだ。霊柩車と別個にタクシーで火葬場に行き、僧侶の読経を耳にしながら最後の別れを果たした。


 煙と共に戸原の母が昇天する間、小都子は待合室で娘を抱きながら越し方行く末を考えた。


 情事の度に、鍛造に渡すコンドームに針でいくつも穴を開けていたのは成功でもあり失敗でもあった。穴が開いているのを悟られないよう使用後の処理は全て自分が行った。


 そして妊娠し、出産に至った。鍛造の事故はさすがに想定外だったものの、かえって重役陣を手なずける機会になった。


 小都子が鍛造の愛人になっているのはその頃既に公然の秘密であり、わざわざ股を開かずとも出世をちらつかせれば簡単に味方になった。皮肉なことに、その意味では彼女が培ってきたプロとしての技がモノを言った。


 それを、あの生意気で四角四面な小娘にまんまと……。いや、自分か彼女かどちらかだけが妊娠したのならまだ良い。


 小都子が妊娠せず、桑野が妊娠していたならいやでも出産で生じる隙をついて再び主導権を得られた。


 逆に、小都子が妊娠して桑野が妊娠していなかったら正妻の座を得る自身はあった。


 それがほぼ同時とは。いや、時間差で先に出産するのは小都子であるから余計に具合が悪い。


 彼女に言わせれば、いかにもタイミングを見計らったそそくさとした挙式であった。かくなる上は、江奈に全てを託す他ない。


 どうせ桑野は宮取大学の附属病院ででも出産するのだろう。沼橋教授が慎重にも慎重を期した環境で。


 江奈は、小都子が住む一軒家で……鍛造の『誠意』の一環として贈られた自宅だが……産婆が取り上げた。予想よりは安産であり、母子共に至って健康であるが、孤独に変わりはない。重役陣はとっくに手の平を返しており、母娘に積極的にかかわろうとする人間はいなかった。


「失礼致します。火葬が終わりました」


 火葬場の職員が現れ、厳粛な面持ちで告げた。


「ありがとうございます」


 短く礼を述べて火葬炉まで案内されると、台車が既に引き出されていた。


 握り拳より少し大きな頭蓋骨、右上腕骨の一部、左大腿骨の一部。それらを、竹と木で作った長さの違う箸でつまんでは骨壺に入れた。


 いつだったか、戸原が寝物語に教えてくれた中に戦時中の人肉食があった。聞くだにおぞましい内容で、戸原はやってないと強調しつつもその気になりかけたことは告白していた。それは人間の持つ混沌や破壊のなにかを伝えるのに十分な迫力を持っていた。


 遺骨収集事業で多くの遺体が帰ってくるようにはなったものの、戦死どころか味方に食べられて果てた人々も混じっているに違いない。戌の骨を拾いつつ、なんとも複雑な気分を味わった。


 最後に、職員が骨壺を封印して白木の箱に納めてから渡してくれた。それを小都子は、外から見てもそれと分かって目立たないよう丈夫な篭に入れた。


 篭を手に下げて初めて、小都子は産まれたばかりの生命と死んだばかりの遺体を同時に備えているのに気づいた。奇妙な感覚ながらも悪い気はしない。


「結婚したら、二人で名前を合体して、か……」


 蒲原小都子はほろ苦く笑い、火葬場の職員が呼んだタクシーに乗った。

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