大企業・重原総合科学の半生

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第二話 加速してから

公開日時: 2020年10月7日(水) 21:10
文字数:3,118

 鍛造と津本の会食から二週間近くが立とうとしていた。


 師走も中旬にさしかかり、干からびた風が物陰に吹き溜まりを作っている。夜ともなれば、沈み込む寒さに首筋を抑えられ、顔を上げる事すらままならない。


 都内の片隅にあるうらぶれた赤提灯で、一人の中年男がコップ酒をあおった。


 中身を飲み干してからコップより先に肘をカウンターに接し悪態をつく。


 幸か不幸か、赤提灯の真上を通る高架線を列車が激しく音を立てて走り去ったので内容までは周囲に分からなかった。


 まだ二杯目が終わったばかりで、顔はおろか指先まで赤くなっている。それでいて最後に言われた……いや、下された……台詞がまざまざと何度も頭の中に浮かんできた。


「何が、もっとましな人間だと思ってたんだがねぇだ。色ボケ爺が」


 さる国会議員の『元』首席秘書を勤めていたその男は、赤提灯の大将が目の前に出してから手をつけられないまま冷めて行く蒟蒻こんにゃくや大根をにらみつけた。


 彼にも言い分がある。自分から進んで、雇い主が囲っていた女性と知り合いになったのでは無い。


 何ヵ月か前にたまたま雇い主が馴染みとする料亭に同席し、勧められるままに飲んだ。そして気分が悪くなって手洗いに行った。


 手洗いの出入口でふらついた身体を支えてくれたのが例の芸者だった。その後も二、三回同じ料亭に随伴する機会があって自然に顔見知りになった。挨拶のつもりで自分の名刺も出した。それも、議員に促されての事だった。


 議員からすれば、首席秘書を取り次ぎ役に指定したに過ぎない。そろそろ二人目の愛人を作るつもりでいたところでもあった。


 芸者から受けた最初の電話で個人的に相談したい等と言われ、応じてしまったのが運のつきだった。


 二人目の愛人に入り浸って相手にされないと嘆く彼女につい山っ気を出し、なまじうまく行ってしまい、気づいたらズルズルと。


 雇い主からすれば、幾ら情の冷めかかった女性とはいえ勝手に手を出していい問題では無かった。


 議員に写真を突きつけられた時、誰が撮影したのかよりも自分を棚上げしてぐちぐちとこちらの品格を罵る議員自身に怒りが湧いた。


 退職願いを出してから芸者の元にも電話したが、もう係わらないで欲いとだけ言われて切られた。


「けっ。俺は当て馬かよ」

「お客さん、もうそれ位にしたらどうです?」


 見かねた大将がたしなめた。心配しての事ではあるにせよ、つい昨日までなら鼻もひっかけないような存在だ。


「うるせぇ、もう一杯だ」


 コップを突き出すと、大将は黙って一升瓶を出した。酒が注がれ終わるや否や一気に喉へ送り、クビになった事も議員も芸者も赤提灯も一塊になってぐるぐる回り始めた。


「大将、勘定だ」

「はい、どうも」


 店主が告げた金額を財布から出して渡し、秘書だった男は赤提灯を出た。世界が回るのに合わせて自分も回りながら歩いた。


 背後のどこかから、野良犬が吠えた。明かりの切れかかった電信柱の外灯が自分を見下ろしている。


 そしてすぐに、赤提灯から数えて三つ目の高架下で支柱に頭をぶつけた。額が鈍く痛んだがどうでもいい。


 唐突に小便がしたくなり、支柱に向かってチャックを降ろそうとした。その直後、うなじを何か硬い物でぶちのめされた。


 翌朝の新聞の三面記事に、元首席秘書の死亡が小さく報道された。急性アルコール中毒によるものと警察は発表していた。


 世間の関心の的は奄美群島の返還実現や初めて解明されたDNAの二重螺旋構造であり、僅かな例外を除いて一個人の死に意識を向ける者はいない。


『……続きまして、我が国のスポーツ事情、なかんづく国際的な競争力を意識した実力の育成について質問致します。我が国が、二年前のサンフランシスコ講和条約で独立を勝ち取ったのは、記憶に新しいところでございます。しかしながら、独立国家として何よりも求められるのは、健全にして健康な肉体であり、これ無くして復興は進みません。スポーツの発展は、こうした目的を、広く国民に周知せしめると共に、我が国の威信を轟かせる役割をも持っております。この点につきまして、政府のお考えを聞かせて下さい』


 重原鉄鋼センターの社長室で、鍛造は読み終えたばかりの新聞を畳んだ。次いで卓上の湯呑みを手にした。


 窓際の、レコードデッキに繋いであるスピーカーの上には達磨型の茶色いラジオが置いてあり、衆議院の生中継を流している。


『大達茂雄文部大臣』


 議長が答弁者の名前を挙げた。


『言うまでも無く、健全なる精神は健全なる肉体に宿るものであり、政府としても、各地方都市に運動場・競技場の建築を積極的に推進していく構えでおります。更に、ご質問にありました、国の威信につきましても、各種の国際大会進出に向け、鋭意啓発に取り組んで参ります。より多くの鉄鋼等の資材が必要になって参りますが、資材の供給は政府としても手を尽くしていく所存でございます』


 そうだ、その通りという称賛があちこちから聞こえ、拍手が議場をラジオごとどよもした。満足げに椅子から立って、鍛造はラジオを消した。


 津本の実力はこれで明確になった。いつ解消するかはともかく、より強力なパイプが出来たのは喜ばしい。


 だが、これだけで磐石の態勢が出来るのでは無い。肝心なのは、いざスポーツを始めよう進めようという時に、それを支え助言する何かが充実しているかどうかだ。


 背広の裏から懐中時計を出し、時刻を確認するとぼつぼつ出発する頃合いだった。


 こんな時、それこそ政治家だと『先生、お時間でございます』とでも秘書が言って来るのだろう。重原鉄鋼センターでは、鍛造が社長兼秘書兼運転手だ。


 今のところ、社屋は長久保ビルから少し離れた場所にある安物の三階建てビルに過ぎない。


 業界トップになって日も浅いし、高いテナント料を払って長久保ビルに移る気にはなれない。


 社員の邪魔をしたくないので、廊下からすぐ非常階段に入り駐車場に行った。


 外国車とは行かないものの、その年の九月に販売が始まったトヨペット・スーパーが鍛造の愛車だ。


 車に入ってエンジンをかけ、長久保ビル方面に向けてハンドルを回した。


 目的地は私立宮取大学。幕末から明治維新にかけて、桃の品種改良と販売で一財産を築いた宮取 幸伸が設立した。ちなみに、幸伸は六寺絵なる雅号で洒落本を何冊か書いている。


 宮取大学は医薬化学で有名な大学である。敷地も広大だった。戦時中は空襲を受けたが軽いダメージで済んでいる。


 軍の命令で化学部が耐火繊維の研究を進めており、建物ごと耐火繊維で覆った為だ。もっとも、他所の建物については『機密事項だから』という理由で耐火繊維の提供を拒否している。


 そんな事どもを反芻はんすうしながら、車を駐車場に止めた。長久保ビルには及ばないまでも建物は清潔で手入れも行き届いており、卒論に取り組んでいるとおぼしき学生達が建物を出入りするのが遠目にも分かる。


 医学部棟に入ると、何やら薄暗い空気がひたひたと押し寄せた。構わず廊下を進んでエレベーターの前に止まり、ボタンを押すと少し時間をかけて上から箱が降りてきた。


 教授室は三階にある。箱に乗って『3』のボタンを押すとドアが閉まってから軽いショックを頭に受けた。どんなエレベーターだろうと変わらないはずなのに、嫌でも緊張感を揺さぶられた。


 エレベーターが止まり、三階の廊下を少し進むと『筋肉生理学教授室』と記された表示板が目に入った。


 ドアをノックしようとした直前、突如戸口が開き出てきた人間とぶつかりそうになる。


 外国人だった。肌は白いが、さすがに国籍までは分からない。こちらと同様少し驚いた顔をしたものの、道を譲ると軽く会釈して退室した。


「教授、よろしいですか?」


 入れと素っ気なく返事があった。後ろ手にドアを閉めながら、深呼吸した。

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