翌朝、用心しながらホテルのロビーでチェックアウトを済ませた。パーカーは現れず、拍子抜けする程あっさりと天候研究所に至った。
それは三階建ての濃いクリーム色をした鉄筋コンクリート造りの建物で、すぐ脇には資料館もあった。資料館は木造建築である。
『蛍光灯』に基づく様々な施設や部屋は全て地下にこしらえてある。
今、この研究所に集う人々の中で建物の真の目的を知るのは一パーセントに満たない。
天候研究所の真の性質は、鍛造の考えからしてさえ大きくかけ離れていた。
それに協力しないことには会社が潰れるのが明白であったから、後悔する筋合いはない。
それにしても、手島教授に引導を渡した時の捨て台詞を思い出しひしひしと胸が締めつけられた。なるほど、心身共に会社と合体した人生だ。
ともかく落成式は研究所の大ホールで 粛々と進んだ。プログラムに基づき、津本建設省政務次官の挨拶、沼橋学長の基調演説と消化されていった。
午前中はそれで終わった。メモも渡した。
これから、昼食を挟んで午後には研究所長を務める人物が……防衛庁が送り込んだ単なるロボット役に過ぎないが……研究所の大雑把な説明を来客に行う。
最後に一同で三本締めをして終わりだ。
昼食は、大食堂にて研究所の予算持ちで豪華な折詰が出た。
それ自体は鍛造も素直に感謝して食べていたが、ちょうど箸を置こうかという時にアナウンスが流れ自分が呼び出された。電話だそうだ。
空の箱や箸はそのまま置いておいて構わないという話を事前に受けている。すぐにアナウンスで指定された事務室へ向かった。
「はいもしもし、重原です」
「社長、お昼に申し訳ありません」
挨拶もそこそこに、なのが切り出した。
「蒲原芸能部長が亡くなりました。急性心不全です」
「何!?」
それは事実を聞き返すための発言ではなく、驚きを示す発言だった。
そんなことは聞けば分かる話ではあったが、さすがの鍛造も実は誤報ですという台詞が続くのを心のどこかで待ち望んでいる気持ちを無視出来なかった。
「判明した限りでは、今朝いつまでたっても出勤しないので蒲原部長の部下がご自宅に確認に行き、寝室で寝ている状態のまま亡くなっていたのを警察と共に確認したそうです」
「江奈はどうした」
「森場さんはロケの収録旅行中でご不在ですが、連絡は既に入っています」
「分かった。それなら、落成式が終わり次第すぐに帰る。警察は特に事件だとは考えていないな?」
「はい。まだ完全な断定はできないものの、少なくとも誰に対しても何の嫌疑もかかっていないとは伺いました」
「そうか。ご苦労」
それで電話を締めくくった。
記憶を辿れば約四半世前。わざわざ二日もかけてバナナまで買いながら彼女に初めて会った時の事を思い出した。
小都子もまた、鍛造の人生計画の一つに過ぎないはずだった。情を重ね、子供まで作るとは夢にも思っていなかった。
江奈となのが面通しをした時以来、会社の用事以外で会った事は無い。
しかし、自分より十年も若いはずの彼女の死は長久保ビルの取壊しと相まって自分自身の人生もそろそろ終盤に向かっているのを嫌でも意識させた。
落成式は予定調和で終わった。余計な談笑などしないでそのまま研究所を出ると、いきなりカメラのフラッシュが顔を打った。
「朝鮮戦争終結以来の腐れ縁! やり手実業家と若手ホープの政治家が結託した四半世紀に及ぶ談合劇! 防衛庁まで絡んだ一大疑獄発覚!」
右肩にかけた肩下げ鞄から伸びたコードの先にマイクがあり、それを握るパーカーは顔を真っ赤にして怒鳴っている。
左肩にはベルトに繋いだカメラをかけ、丁度たすきがけになっている。その様子はまるで、戦場での機関銃の弾薬帯を彷彿とさせた。
落成式の参加者は勿論、往来の人々も何事かと足を止めた。
「津本建設省政務次官! 赤手鞠の女の子達は可愛らしいですね! 東京オリンピックの時は重原総合科学さんに武道館の鉄筋入札情報を……」
宣言していた通り、パーカーは津本が研究所から出るや否やマイクを片手に突入しようとした。
しかし、研究所の職員に紛れ込んでいた自衛官が速やかに取り押さえ引きずっていった。
「重原社長! 今更私をつまみ出しても無意味ですよ! 資料は……」
自衛官に殴られ、パーカーの台詞が途切れた。鍛造は、津本や沼橋と同様にタクシーを拾って空港へ進んだ。
羽田空港に到着し、駐車場のロールスロイスのドアに鍵を差し込もうという時。
背後から足音が聞こえた。振り向くと江奈だった。
「母が死んだのは聞きました。それとは別に、今聞いて頂きたい事があります。お車に入っても構いませんか」
それこそ久しぶりに会う江奈は、輝かんばかりの美貌を備えていた。同時にそれは、冷ややかで斬りつけるような圧力をも帯びていた。
付き人の類はいない。それだけ繊細な話なのだろう。
「助手席に座りたまえ」
「ありがとうございます」
鍛造が鍵を開けると、江奈は言われた通りに助手席に滑り込んだ。
「まず、私は妊娠しています」
ある意味で、小都子の死よりもはるかに巨大な衝撃が鍛造を襲った。無論、事前に何の連絡も相談もない。
「お前……」
「怒らないでください、社長……いえ、お父様。何故なら見て欲しい物がここにあります」
江奈は、鍛造の台詞を遮ってから自分の肩下げバッグを開けて二枚の紙を出した。
一つはある書類の表紙のコピーで、蛍光灯とだけ書かれている。
もう一つは、かつて小都子にせがまれてハンコを押した書類の表紙のコピーだった。
「お父様が加わっていらっしゃる秘密の事業、津本先生から伺いました。お断りしますけどお腹の子の父親は津本先生とは何の関係もありません」
「……」
「蛍光灯もとても興味がありますけれど、母がもたらしたこの書類。私にも深く係わっていますよね」
「それがどうした。お前は自分の立場を 自ら潰しかけているのだぞ!」
これで声を荒げるなというほうが無理な注文だろう。
「いいえ、お父様。潰すどころか広げているところです」
「何だと!?」
「なのお嬢様は数日前に私の養子になりました。お腹の赤ちゃんの父親と私はすでに入籍しています。民法上、一人の人間が何人養親を持っても差し支えありませんから」
「いい加減にしろ! 恩を仇で返すとはこの事だ。即刻白紙に戻して子供も……」
「入籍というのは、別にこの子の父親と本当の意味で結婚するのではありません」
次から次へと恐るべき告白が続き、すっかり鍛造は毒気を抜かれた。
「私はなのお嬢様と愛し合っているのです。子供を作ったのは、なのお嬢様を私の世帯に迎える単なるアリバイ工作に過ぎません」
その説明は鍛造を打ちのめした。パーカーの追求などよりはるかに致命的な内容だった。
同性愛そのものには偏見はない。しかし、ある意味で江奈が自分や母親の復讐の為になのから寄せられる愛情を利用しているのは見え見えだった。
「これから母の葬儀がありますね。社長は……と申しますよりお父様は、弔電だけ打ってくだされば結構です。お忙しいでしょうから」
見透かしたように江奈は告げ、矢継ぎ早に続けた。
「葬儀そのものはマスコミにも大々的に報道して頂きます。私は悲劇の女優として大いに注目を集めることでしょう。それは即ち重原総合科学そのものが大きく世間の関心を引く機会でもあります」
そうした感覚は、かつて鍛造がふんだんに持ち合わせていたものであった。
恐らくは、小都子はそうした鍛造のやり方を見聞きして盗むように学び、ありのままに娘に伝えたのだろう。
出藍の誉れというにはあまりにも残酷すぎる。
「お話は以上です。わざわざ時間を割いて下さりありがとうございました」
鍛造が二の句を告げる前に、さっさと江奈はドアを開けて去った。
それを追うだけの力は、もはや鍛造には残っていなかった。
江奈は自分の肉体を武器にして、産んだ子達を次々に重原グループに入れるつもりなのだ。いや、書類では直接の妊娠には拘っていないから幾らでも養子を連れて来て構わない。
そうやって、半ば物理的に会社を乗っ取るつもりだ。
今にして思えば、なのもとっくに江奈にたらしこまれていたのだろう。
不覚。否、自業自得。因果応報。
己の都合で他人を振り回し続けた結果、己もそうなった。ただそれだけの事。
……などという顛末を頭の中で繰り返し繰り返し反芻しながら、鍛造は重原総合科学付属病院のベッドの上で静かに天井を眺めていた。
小都子の死からもう二十年以上が経っている。
月日や曜日がほとんど意味をなさなくなり、食事も流動食に切り替わって久しい。
会社は自分の手を離れ、江奈とその取り巻きが運営している。
名目上、自分は会長に祭り上げられている。食事をした後、断続的に眠っては起きるのが今課せられている鍛造の仕事だった。
振り返ると半世紀。
多くの人々が現れては去った。津本や沼橋は一応生きているが、もはや会うことはないだろう。
パーカーの執念の取材も、どうやら実らずじまいだったようだ。
自分が死んでも会社は残る。そこに不安はない。にも係わらず、それは満足や充実感からは程遠い結末だった。
そうした記憶や思考の再生も、次第にうまくいかなくなってきた。
自分の呼吸の音が聞こえなくなった西暦二○○四年、平成十六年十二月一日。
裸一貫で焼け野原から重原総合科学を作り上げた高度経済成長の申し子、重原鍛造は眠りながら一生を終えた。
享年八三歳 。
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