大企業・重原総合科学の半生

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第八話 手足を強張らせずに

公開日時: 2020年10月9日(金) 21:10
文字数:4,422

 神奈川県の西端、山北町は山梨県に抜ける県境でもあった。共産圏……中国、北朝鮮、ソ連……は、いずれも日本の北にある。


 その全ての国々において、独立を回復したばかりで沖縄さえ戻ってきていない日本が大使館を置いたり自由に交流したり等出来るはずも無い。


 つまり、北陸や東北、山陰といった地域から船を使って密出国する必要がある。スパイはそうせざるを得ない。


 神奈川から山梨、長野、そして新潟と進む針路は彼らの主要な脱出ルートだった。


 郵便局員に化けてから二日後。


 戸原は、座間キャンプの憲兵本部に匿名の電話を入れソ連側の日本人スパイが脱出を図っていると偽の情報を流した。


 ロックジェラルド少尉がスパイを追って一人で来るのは分かっていた。部下がつくなら鍛造と面会した時に同席していただろう。


 座間キャンプは整備され始めて日が浅いし、神奈川県での米軍は海軍の方が発言力が高い。つまり、ロックジェラルドは手柄を焦っている。


 最後に、国道が人気の無い山道に入った辺りで仕掛けを施しておいた。古い手だがそれだけに確実だ。


 仕掛けから少し離れた藪に潜んでいる内、アメリカ軍のジープの音が聞こえ、腕時計を確かめた。午後二時三六分。


 その二十秒後に、ブレーキをかけて停車する音がした。もう数秒待ってから手頃な大きさの石を握りしめ、戸原は藪から出た。


 路上では、ロックジェラルドの後ろ姿が道路を塞ぐ大きな岩をどかそうと四苦八苦しているところだった。ヘルメットを被ってはいるが関係無い。


 思い切り石を投げつけると右の肩胛骨けんこうこつのすぐ下に命中し、ロックジェラルドは大きくひるんだ。その瞬間には猛然と走り込んでいる。


 腰のホルスターからボタンを外さないままピストルを抜こうとして、ロックジェラルドは致命的な数秒を無駄にした。慌てる内に戸原は目の前まで迫っている。


 ようやくピストルを抜いて狙いを絞りもせずに一発撃ったが、四五口径コルトでは反動が強すぎた。弾丸は戸原のはるか頭上を飛んで行った。


 二発目はもう少し正確に狙えた。これも、指が震えた上に石が当たった時のダメージが邪魔をして戸原のズボンの右足をかすめただけで終わった。


 三発目を撃つ前に戸原の右足がロックジェラルドの右手を蹴り上げ、ついで指をまっすぐ揃えた左手が喉仏を突いた。


 呻き声さえ出せずに獲物はくずおれ、仕上げは下顎に右のつま先を叩き込んだ。石を投げてからわずか二十秒以内の動作だった。


 それからは簡単な作業だった。


 まず、気絶したロックジェラルドをジープの運転席に乗せてサイドブレーキを外した。


 次いで、ジープを道の端まで押す。山奥の道路には良くある話で、ガードレールはついていない。


 最後に、車体を後ろから突き動かし崖から転落させた。


 頑丈さで定評のあるアメリカ軍のジープも斜面を転がる内にへこんでひしゃげて行き、谷底に落ちた瞬間燃料が引火して爆発した。


 爆発音も煙も人が焼けて行く臭いも、ニューギニアで数えられない程味わっている。何の感慨も湧かなかった。


 依頼は果たした。明日の朝刊には多少大きな記事で紹介されるだろう。『事故』として。それで終わりだ。


 戸原は下山し、その日の内には横浜行きのバスに乗って蛍に会うべく『春椿』を目指していた。


 翌朝、午前九時。 


 重原鉄鋼センターの社長室で朝刊を広げた鍛造は、三面記事の報道に満足してうなずいた。


 余計な障害物はさっさと始末するに限る。ロックジェラルドがスタンドプレイであちこちの会社に声をかけていたのは知っていたし、とてもではないが付き合えない。


 それとは別に、ロックジェラルドの署名入りの契約書がある。これは実に有益な収穫となる。彼が周囲に明かしていたにせよいないにせよ、一つの武器になるだろう。


 新聞をしまったのと同じくして、ドアがノックされた。


「入れ」

「失礼します」


 社員の一人が顔を出した。


「社長、お客様が来られました」

「通せ」


 短い言葉にも、上機嫌さを込めて鍛造は言った。


「かしこまりました」


 部下は一度下がって、客を伴い再び現れた。


 いかにも研究生風の、黒い角縁眼鏡をかけた青年だ。痩せていて腕っぷしのかけらも無い。鍛造よりももっと若く、戦時中は精々工場で勤労奉仕をしていたくらいだろう。


 しかし、指先も異様に白ければ白目の部分も少し濁っていた。化学物質だの病原体だのにさらされ続けた結果だろう。


「初めまして。手島教授の紹介で参りました、沼橋と申します」

「ようこそ。歓迎しますよ」


 屈託の無い笑顔で鍛造はソファーを勧めた。遠慮しつつも沼橋は座り、鍛造も腰を降ろした。机の下に、決して上等ではない沼橋の革靴と、数段値の張る鍛造のそれとが差し入れられた。


「手順は、教授から既に伺いました。連絡役の詳細はこちらです」


 沼橋は、懐から封書を出した。


 電話では言った言わないになりかねないし、手紙だと万一郵便事故でも起こったら取り返しがつかない。個人に持参させるのが確実なのは言うまでも無かった。


「ありがたく、お預かりします」


 封書を受け取って、鍛造は手元に置いた。


「さて、沼橋さん。もう教授から聞いているとは思いますが、危険を感じたら、すぐに会社を抜けて下さい。『春椿』と言う旅館がここの近くにありましてね、戸原という人間を訪ねて下されば結構です。間に合いそうになくとも、いきなり射殺したりはしませんから、その時はこちらから戸原を送りますよ」


 快活に、鍛造は言った。『戸原を送』るのがどんな結末を意味するのかまで説明する必要はないだろう。


「ご配慮、ありがとうございます。戸原さんって、御社の社員なんですか?」


 知らぬが仏で沼橋は聞いた。


「はい。非常勤ですが、頼りになります」


 ここまで周到に手を尽くしてくれるとは。手島の決して温和とは言えない接し方を知り尽くしているだけに、沼橋が救われた表情になるのがありありと露わになった。


「入ったばかりの内は中々重要な情報に触れられないと思いますが、早ければ早い程お互いに得になりますから」

「はい。では、失礼します」


 沼橋は、既に仁川化学の社員として就職が決まっている。余り長居させるのもまずい。だから、茶も出さず引き留めもしなかった。


 沼橋が帰ってすぐ、次の来客があった。津本だ。社長室はこの日二人目の来客を入れた。


「津本さん、お久しぶりですなぁ」


 入室した津本に対し立ち上がって両腕を広げ、満面の笑みをたたえて鍛造は言った。


「いやぁ、土産に鮟鱇の七つ道具といきたいところでしたが貧乏秘書はこれが限界ですよ」


 そう言って、津本は右手に提げていた紙袋を出した。


「やっ、これはこれは。中身を改めて構いませんか?」

「ええ、勿論」


 中には、ずわい蟹の缶詰詰合せが入っていた。


「いやぁ、これは嬉しい。ありがとうございます」

「いえいえ、今後ともお世話になりますから」


 二人して座ったところで、社員が茶を運んできた。


「それで、御用とは何でしょう」

「はい。今後の我々の関係を、進展させておこうと思いまして」


 ラジオ放送で聞いた、国会答弁を背景にした発言なのは簡単に察しがついた。


「では、いよいよ政界進出を見据え始めたというところですか」

「さすが、ご賢察ですね。こちらの先生は、新しい局面を見出しつつあります。それほど遠く無い内に今とは少し違う風が吹きますよ」


 抽象的な表現ながらも、鍛造には充分想像出来て余りあった。


 五回を数えた吉田政権は寿命の限界に達していた。吉田自身、政治家としても高齢になっている。誰が次の舵取りになるのかで、虚々実々の駆け引きが始まっているに違いない。


「こちらとしては、実弾は充分ご用意出来ますよ。いつでも号令をかけて下さい」


 政界の隠語で、実弾とは現金を指す。


 もっとも、鍛造にとってはニューギニアの日々をも連想させた。


 あの時と違い、今度は自分の意志で自分の為の戦争が出来る。案外、鍛造の生き甲斐とはそうした点にあるかも知れなかった。


「いやぁ、百万の味方を得た気持ちですよ。言うまでもありませんが、建設族として御社には素早く情報提供しますから」


 特定の省庁の権益を代弁する議員……族議員。


 政治家は選挙で選ばれるが、実務は各省庁が行う。例えば、厚生族は、医師連盟と手を組んで厚生省と結びつき、医療業界を牛耳る。即ち、建設族は建設業を牛耳る。


「そう言えば、トンネル事業があちこちで盛んですな」


 戦争が終わり、復興が進むに連れて大小無数のトンネルが生まれるだろう。例えば去年、青森県と北海道を結ぶ巨大な海底トンネルの為に漁船を使っての海底調査が進められていた。


「おや、そちらにも食指が動きますか?」

「いやいや、競技場で手一杯です」


 宮取大学のみの字も出さない鍛造だった。


「また、近い内に『赤手鞠』で一杯やりたいですなぁ」


 鍛造は、蟹缶の入った紙袋をなでながら言った。


「いいですねぇ。もっとも、僕がおごりますよとはまだまだ言えませんが」

「わっはっは、幾らでもご馳走しますよ」


 さすがに、綺麗所も是非とまでは言えない鍛造であった。


「ところで、今朝の新聞で読んだのですが……」


 と、津本が、少し声を潜めた。


「どうしました?」

「アメリカ軍の憲兵が、事故で亡くなったそうですね」

「ええ。お知り合いですか?」

「いや、実はアメリカ人とテニスをした事があるんですが、その相手から亡くなった人間の名前をちらっと聞いていましてね」

「ほう」

「ロックジェラルドでしたか。余り好意的な印象では無さそうだったので、かえって興味を持ったんです」


 淀みなく説明する津本を、鍛造は、口を挟まずじっと眺めていた。


「点数を稼ぐ為になりふり構わなかったところがあったようで、上官からも睨まれていたそうですよ。ソ連のスパイの洗い出しをするとかで」

「まあ、その類はどこにでもいますよ」


 無難に鍛造は流した。両者が意図しないまま、少し間が出来た。


「ああ、そう言えば社長はその……。奥様はいらっしゃるんですか?」

「いえ、独身です」


 それこそ意外な質問だった。考えた事も無い。


「これは失礼しました。いやぁ、ウチの先生もお子さんは政治と全然関係の無い方向に進んでしまっていて……それでいてですね、コレのアレには継がせたいみたいですよ」


 津本は、右の小指を一本立てて少々不謹慎な笑みを漏らした。苦笑しつつも、鍛造は津本が言外に訴えたい所は理解した。


 首席秘書を消した程度で後継者争いは収まらない。寧ろ、有力候補がいなくなったせいで混戦模様になりつつあった。


 場合によっては戸原を動かす必要が出てくるかも知れない。それにしても結婚とは。


 どうも複雑な気分がした。それを控えた家族が空襲で亡くなっているだけに、さぁ目指そうとはどうにも進まない。


「あなたはどうなんです?」


 陳腐な質問を意識しつつ、鍛造は聞いた。


「僕はさっぱりですよ」


 明朗快活に津本は言った。この点についてだけは、何となく同意出来た。


 その後、二、三世間話をして面会は終わった。蒔いた種を刈り取る日まで、休み無く畑を世話する日々が続きそうだ。

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