アラサー女と白猫の郵便屋

吉川緑
吉川緑

アラサー女と白猫の郵便屋

公開日時: 2021年8月25日(水) 12:52
文字数:8,625


 太平洋を行く飛行機の上、ファーストクラスの席。

 足の伸ばせる広々とした半個室の中、低い仕切りの向こうに少女が座っている。

 すました顔で、白猫の入ったケージを抱えている。



「こんな贅沢な席、落ち着かないな。ヨウちゃんは慣れているの?」


「あら、トウコおねえちゃん。緊張しているの? わたしも飛行機は久しぶりよ」


「そりゃあ、外国に行く機会なんて滅多にないからね……。シャオちゃんにも、感謝しないと」



 トウコがケージに目を向けると、そこではのんびり眠っている小さい白猫が一匹。

 この席に、トウコが座るようなことになったのは、この白猫の気まぐれだろう。



「シンガポールについたら、トウコおねえちゃんとおじさんの結婚式だね」



「そうね。まさか、こんなことがあるなんて、思ってもいなかった……」



 そう、少し前のトウコに、こんな未来はまったく予想できなかったであろう。

 白猫が運んだ手紙と、そこから綴られた縁。

 それは、もう二年ほど前のことだったろうか……。



◇◆◇



「にゃーん」

 そんな鳴き声が聞こえて、トウコは眼鏡の位置を直した。

 鳴き声は、手を伸ばせば届く、すぐ前にある窓からしたようだ。


 パソコンの画面から目を離し、椅子を少し回転させる。

 おやつを机から落としそうになって、肘でドライキウイの袋を押さえた。


 換気用にすこし開いた窓へ目をやる。網戸に一匹の白い猫が爪をたてている。



(おいおい、それ破ったら、私がお金払うんだぞ)



 ここは、都会の片隅だ。1階角部屋の1Kに女一人住まい。

 もうすぐ三十二になる私は『Webデザイナー コノベ トウコ』なぞと、大層な名刺を与えられている。

 とはいえ、所詮は社会の歯車、単なる画像加工の要員である。



「すいません。少し席を外します。外で猫が暴れていて……」


「はーい。トウコさん、いってらっしゃーい」


「猫って三毛ですか? トラですか? あとでチャットに画像貼ってくださいね!」


(はいはい。写真は、撮る気になったら……ね)



 同僚たちはめいめいに反応を返してくれる。仕事がリモートになって、もう半年以上経っただろうか。ずいぶん長いこと、顔を合わせていない。


 リモートワークは嫌いではない。文化系で地味を自称するトウコとしては、ノリの軽い営業たちと、顔を合わせなくて済むメリットもある。それでも、電車を目がけて小走りするとかもなくなり、淡々と過ぎていく日々に飽き飽きしている。



「にゃーん」


(ずいぶんとしつこい猫だこと)



 トウコは、手入れもサボり気味な眉をひそめる。

 ボイスチャットをミュート。カメラを切る。視線をその白い猫へ向け、手を伸ばしたところでトウコは気づく。



「マンチカンあたりかな。首輪付きね」



 道理で人馴れしているわけだ、とトウコは勢い良く窓を開ける。



「ほれ、さっさと帰りなさい」



 トウコは網戸越しに声をかける。手でひらひらと、あっちいけ、の素振りをしてやった。

 これで帰るだろう、と思ったトウコの目論見は甘かったようだ。


 白猫はトウコへちらっとつぶらな瞳を向ける。しかし、何事もなかったかのように、再び網戸を引っ搔き始める。



(うちの網戸に何の恨みが……)



 どうしようかとトウコは窓辺に立ちすくむ。変な病気とか持ってないよねえ、と思いながら、仕方なく網戸をすこし開ける。



(手で払えば、さすがに逃げるだろう)



 おそるおそる手を白猫へ近づけていくと、トウコはその見立てすら甘かったことを思い知る。


 白猫は、トウコの手へひょいと寄ると、どういうわけか指をぺろぺろと舐め始めた。



「なんで……」



 手を引っ込めたいが、思わず固まってしまった。



(あれのせい……か?)



 おやつにしているドライキウイを思い返す。たしか、猫にはマタタビと似た反応をすることもある、と聞いたような気がした。それでも、ほいほい人間の食い物を与えていいはずはない。もっとも、トウコにしてみれば『不意打ちで舐められてしまった』だけなのだが。


 それ以上指を舐められないように、トウコはゆっくりと白猫の顎へ手を移す。微かに温かみのあった指先が、少しずつ冷めていく。

 気持ちよさそうにしている白猫の毛はとても柔らかい。思わず、トウコの頬も緩んでしまう。



(人懐っこくて、いいこだな)



 そうして撫でていると、白猫の方は気分が変わってしまったらしい。

 「にゃーん」と鳴き声を残すと、どこかへ行ってしまった。



(思いのほか、時間を食ったな……)



 せいぜい三分くらいのはずだが、トウコはそれより長く感じた。網戸の具合は大丈夫だろうか、と窓に顔を寄せると、桟に何かが落ちている。小さな紙切れのようだ。



「さっきの子についていたのか……?」



 不思議に思ったトウコは、紙切れを手に取ってみる。何度か折られた紙切れを広げると、そこには、短い文章が書かれていた。



『しゃおちゃんは かわいい』



 文字はたどたどしく、子供が書いたであろうことが、すぐに分かった。

 妙に脱力して、トウコは再び仕事に戻る。


 猫好きな同僚が「写真は? 写真は?」とチャットで連呼してきたが、説明するのもばからしくて、トウコは泣き顔のスタンプだけを返しておいた。


 『猫が暴れている』話は、それで終わるはずだった。



◇◆◇



 どういう理由なのか、翌日も、そのまた翌日も、白猫は窓辺にやってきた。

 網戸の耐久度が、みるみる爪で削られていくのにトウコは頭を抱えたが、それ以上に首をひねるものもあった。

 他愛もないことの書かれた紙切れが、毎度置かれていくのである。



『しゃおちゃんは しろい』


『しゃおちゃんは おさんぽ』


『しゃおちゃんと あそんでね』


(しゃおちゃん……ってのが、あの白猫の名前か?)



 短い文とたどたどしい文字から、紙切れの主は小学生になったばかりか、それより少し幼いくらいの子供だろう。


 人懐っこい白猫が運ぶ紙切れが、トウコには手紙のように思えた。微笑ましい気持ちになると同時に、小さい棘が胸に刺さる。



(あれと喧嘩別れしたのって、四、五年前だったか?)



 その頃のトウコはまだ、両親を押し切って実家を出たばかりだった。


 ようやく一人暮らしが板についた頃、よく泊まりにきていた男から「ずっと一緒にいて欲しい」そんなようなことを言われた。悪い男ではなかった。しかし、ようやく手に入れた気ままな生活を、トウコは手放す気になれなかった。



「私は、一人でいるのも好きだから」



 そんなことを告げると、男は二度とトウコの家へ来ることはなかった。連絡もつかなくなった。もしあのまま運命を委ねていたら、トウコにも、これくらいの子がいたのかもしれない。


 待て待て待て、と芋づる式に溢れた記憶に、トウコは首を振る。

 本当に子供が書いたとも言い切れないだろう、と思い直す。「これは新手のナンパかもしれない」そんな風に想像を巡らせてみて、トウコは気持ちが暗くなるのを振り払った。



(明日は土曜だし、夜は寿司でも頼んでみるか)



 金曜の夜だから、余計なことを考えてしまったのに違いない。世の中、ましてやこんな都会では、素直に物事を受け取ってはいけない。


 後頭部をがしがしかきながら、トウコはベッドに寝転ぶ。手の中には、四通の手紙がある。


 白猫を無視するのが良いか、それとも、『獣との短い逢瀬』と割り切るのが良いか、そんな議論が頭の中でぐるぐると回っていた。



(あんまり気にしても仕方ないか。もう来ないかもしれないし)



 トウコは、楽観的で投げやりな結論に落ち着いついた。しかし、どうにもベッドが、普段より広いように思えて、寝付くのに時間がかかった。



 結局トウコは、白猫の『しゃおちゃん』が網戸を叩くと、ついつい構ってしまっていた。

 気まぐれな『しゃおちゃん』は、何日か訪れないこともある。手紙も、持っていることもあれば、持っていないこともあった。


 だらだらと繰り返される逢瀬は、トウコの『しゃおちゃん』と手紙への執着を、ただ強くしただけかもしれない。


 だからトウコは、気まぐれのつもりで、こんなことをしてしまった。



『しゃおちゃんは、いいこだね。わたしはトウ。あなたは?』



 トウコは、網戸を引っ掻く『しゃおちゃん』の首輪へ、返事の手紙を挟んだ。

淡々と過ぎる日々に飽きていたのもある。加えて、手紙の送り主への微笑ましさと、人懐っこい白猫へ湧いた愛着が、トウコにそんな行動をさせた。


 もちろん、トウコとて一人住まいの女である。名を少し変えるくらいの用心はした。

 しかし、この手紙が幼い子供のいたずらであろうことは、さすがに疑っていなかった。



(もしこれでナンパだったら、メールにした方が早いと諭してあげよう……)



◇◆◇



 次に白猫の『しゃおちゃん』が来たとき、トウコはすぐに折られた紙切れを探していた。

 思ったよりも返事を待ちわびていたことに気づき、ついつい苦笑いを浮かべてしまう。



『トウ しゃおちゃんは すき? わたしはよう』



 白猫の首輪につけられた紙切れには、やはりたどたどしい文字で、そう書かれていた。



(すごい、ちゃんと届いたんだ)



 トウコは微笑みを浮かべて手紙を大事にしまうと、賢い『しゃおちゃん』を撫でる。

 なにか良い紙はあったかな、と机を見回して印刷用の白い紙を手に取る。


 無地のそっけない物だが、小柄な白猫に、手紙を担いでもらうのは難しいだろう。紙を千切って『よう』への返事を綴る。



『しゃおちゃん、すきだよ。 おへんじ、ありがとう』



 呑気に顔を洗う『しゃおちゃん』の姿は、トウコの返事を待っているように感じられた。



(本当に、不思議な猫ちゃんもいたものだ……)



 こうして、白猫の『しゃおちゃん』が手紙を運ぶ、トウコと『ヨウ』との、たどたどしい文通が始まった。



◇◆◇



 『しゃおちゃん』が運んでくれた手紙は、何通になったろうか。この白くて小柄な郵便屋さんが運べるのは、小さい紙きれだけだ。大したことは書けないが、むしろトウコには心地よかった。



『トウはなんさい? わたしはごさいのおんなのこです』


『トウはもうおとなだよ。 ようちゃんはなにがすき?』


『しゃおちゃんとおとうさん トウはなにがすき?』


(実家にはもうずいぶん帰ってないな……。しかし、なにが好きか、ねえ……)



 顔も知らない五歳の女の子から素朴に問われて、トウコは答えに窮してしまった。

 普段していることは、仕事をして、一人で暮らして。テレビを見たり、部屋でごろごろしたり。



(たまには友達と買い物にも出るし、そういうのは楽しいけど……)



 好きかと言われたら、嫌いではないだろう。でも、ヨウが聞いているのは、そういう答えとはどこか違う気がする。「うーん」と、トウコは手を頭の後ろで組んだ。



『わたしはキウイがすき。 おかあさんは?』



 情けない話だ、と思いつつ、トウコは『しゃおちゃん』へ返事を託した。

 それからしばらく、白い郵便猫は、トウコの元を訪れることはなかった。



◇◆◇



 いつしか季節も変わり、手紙のやり取りや『しゃおちゃん』のことも、少しずつトウコの記憶から消えつつあった。


 いつものように1Kの部屋でパソコンの前へ座り、同僚と会話しながら仕事をする。

夜になれば、ベッドの隅で壁に背を向けて眠り、また朝が来る。


 道路を挟んだ向かい側のマンションで、工事でも始まったのだろうか。時折、がんがんと、何かを叩くような音がする。



「トウコさん。新しいタスク追加されたので、確認お願いします」


「分かりました。見ておきますが、前にもらった案件の素材が、まだ来ていないです」


「あー、いつも遅いからね……つついておくよ」


「お願いします」



 次々と盛られていく作業に、わんこそばじゃないのだから、とトウコは渋い顔をする。

 今日は二件、明日は一件、そんな風に締め切りに追われながら、日々はどんどん過ぎて行った。

 

 ようやく週末を迎え、簡単な家事を済ませたトウコは、ベッドに寝転びぼんやりとしていた。スマートフォンを開けば、お決まりの知り合いが綺麗な写真をSNSに載せている。



(よくこんなデコケーキなんぞ作るよなあ。面倒くさいだろうに……)



 カボチャか何かで黄色く形作り、チョコの黒とチェリーの赤で装飾を施した人気の電気ネズミ。その写真を眺めて、トウコは益体もない感想を抱いていた。


 そんなときだった。



「にゃーん」



 トウコは突然の不意打ちに、間抜けな顔をして、目をぱちぱちさせた。



「しゃおちゃん?」



 トウコは、頭の中で急にスイッチが入ったように、ベッドからあたふたと立ち上がる。

 あわてて窓を開けると、いつものように、網戸をぼろぼろにしようとする、懐かしい姿があった。



「しゃおちゃん、ひさしぶりだねえ」



 トウコはちらと網戸を見て、破れてないな、と首肯する。

 抱き上げて首を撫でてやると、『しゃおちゃん』は気持ちよさそうにゴロゴロと鳴いた。



(久しぶりだけど、しばらく家の中にでもいたのかな?)



 そうしてトウコは、懐かしい感触をひとしきり堪能する。そういえば、と首輪を探る。案の定、折られた手紙がついていた。



『しゃおちゃんとわたし おひっこしするの』

 


 書かれていたのは、トウコの想像していたものと違う内容だった。てっきり、また『ヨウ』とのやり取りが再開するのだと思っていた。



(そうなんだ……)



 久しぶりの再会と突然の別れ、そんな相反することが同時に起こって、トウコはしばらく呆然としてしまった。



◇◆◇



 都会では、他人となんて、ただすれ違うばかりだ。よくあることである。

 日々顔を合わせていた同僚たちが、画面越しの存在になったのも、ただ一通の業務連絡だった。『在宅指示のお知らせ』ただそれだけだ。


 それから辞めて行った人間だっている。彼らがどうなったのかなんて、もう知りもしない。それまであった見送りの会も、画面越しになってからは減った。


 顔を合わせていた人間とですらそうなのだから、見知らぬ『ヨウ』との別れなんて、あっさり訪れて当然のことだ。


 トウコだって、白猫の郵便屋のことも、たどたどしい手紙のことも、少しずつ日常に流されて、埋もれつつあったのだ。



(いたずらはやめなさい、とか親御さんに言われたのかもしれないね)



 顔をあげると、しゃおちゃんはこちらを向いて「にゃーん」と鳴き、身を翻した。


 行ってしまう、そう思うとトウコは勝手に体が動いていた。

 何かに突き動かされるように家から出ると、どういうわけか玄関前にしゃおちゃんが待っていた。



(待って。もう少しだけ……)



 抱きかかえようとして手を伸ばすと、しゃおちゃんは走り出す。



「にゃーん」



 コンビニの前、アパート横の壁上、工事中のマンション……。

 時折振り返りながら、しゃおちゃんは進んでいく。



「にゃーん」



 トウコはあとを追い、角を曲がる。そこにあったのは、工事中のマンションに備え付けられた小さな公園だった。

 そこに、ゆっくり地面を歩いていたはずの、しゃおちゃんの姿は見えない。



「しゃおちゃん どこいってたの?」



 あどけない声が聞こえて、トウコは声の方を見る。

 小さい女の子に抱えられる見慣れた白猫、傍らには若い青年がいた。

 トウコは驚いて目を見開く。


 しゃおちゃんは振り返って、トウコを見た。

 笑いかけられた、トウコにはそんな気がした。



(こんな不思議な出会いなんて、もう二度とないだろう)



 久々に走ったせいだろうか。息も少し上がっている。どきどきと鼓動が早くなっているのは、走っただけじゃない。予感と緊張、その両方を持って、トウコは白猫を抱く小さな女の子へ声をかけた。



「あなたが、しゃおちゃんのおともだちの、ヨウちゃん?」


「ええと、どちらさまでしょうか?」



 傍らの若い青年が、トウコの姿を見て首を傾げている。


 トウコは、自分の言動が不審者のものだと気づいて、あたふたと紙切れを取り出す。

 先ほど、しゃおちゃんから受け取った手紙を、青年と女の子へ差し出す。



「こんにちは。はじめまして。トウです」


「しゃおちゃん! トウさんを呼んできてくれたの!」



 トウコの予感は正しかったようだ。『ヨウ』は想像していた通り、小さな女の子だった。みつあみのおさげ髪に赤と白の水玉ワンピースを着た、かわいらしい娘だった。


 青年は、何か理解したような表情で頷き、『しゃおちゃん』とはしゃいでいる『ヨウ』の頭を撫でた。



「あなたがトウさんでしたか。良かった。最近はシャオがあまり手紙を運んでくれないと、『葉』が言っていたのです」


「すいません。急に声をかけて驚かせてしまって。たまたま何度か、しゃおちゃんの持っていた手紙を見て、ついお返事をしてしまったものですから……。久しぶりに見かけて、つい……」


「ああ、いえいえ。こちらこそ『葉』と手紙のやり取りをしてくれて、ありがとうございます。私は『葉』を預かっている『貝原』です。ちょうど引っ越しの準備をしている時にシャオが逃げてしまって、探していたのですよ」



『引っ越し』その言葉を聞いてトウコは少し眉を下げる。『最後に会えてよかった』そんな気持ちと合わせて、『せっかく会えたのに』と、さびしさも感じる。



「トウおねえちゃん これ 読んでね!」



 ヨウは何通かの手紙を渡してくれる。

 トウコはその手紙たちを受け取り、中を開く。


 たどたどしい字で、色々と質問や、日々のことが綴られていた。枚数からすると、ヨウは手紙を書くのが嫌になったり、止められたりした訳ではなさそうだった。



(手紙が来なかったのは、しゃおちゃんの気まぐれ、ってわけね)



その中にある一通は、最後にトウコが送った手紙への返事だった。



『おかあさんはおしごとでがいこくにいるの』



 思わずトウコは表情を固くして、目を細める。「小さい子の母親が外国にいる」そこから連想されることは、それほど多くない。


 ヨウちゃんのお母さんはもしかして、とトウコは悲しそうな視線を青年へ送る。

 青年はトウコの視線と言いたいことに気づいたのか、膝に手を付き、ヨウをのぞき込む。



「葉ちゃんは、僕の従妹なんだよねー? おとうさんとおかあさんは?」


「うん! おとうさんとおかあさんは……えーっと……し、しん……しん……」



 ヨウが目と唇を歪めているのを見て、トウコはその先を聞きたくなくなった。『死んじゃったの』そんな言葉を聞いたら、どんな表情で受け入れれば良いのだろう。



「しん……シンガポール! マーライオン!」


「へ?」



 トウコは思わず間抜けな返事をしてしまった。予想外の答えに、顔が抽象画のようになっていないだろうか。



「そうそう! シンガポールで社長さんしてるんだよね!」


「……そうなんですか……てっきり……」


「ご心配しているようなことではありませんよ。ちゃんと健在です」



 トウコは、ヨウが不憫な境遇なのかと想像したが、それは取り越し苦労だったらしい。

 まあ、それでも寂しいは寂しいか、と思い直してヨウの前へしゃがみ込む。



「お引越しして、遠くに行っても、ちゃんと元気にしていてね」


「ん? とおく?」



 ヨウは首を傾げて、貝原と名乗った男を不安気に見上げた。その小さな手に、男のズボンを掴んでいる。



「あぁ、いえ……。ここのマンション、工事中なので一時的に向かいに引っ越すんですよ。ほら、あそこの……」



 指差す方向を見て、トウコは立ち上がって目を見開いた。

 そこには、見慣れたアパートが立っている。

 いや、見慣れたではなく、住み慣れた、と言った方が良いだろうか。



「え? え? 私、あそこに住んでいるんです!」


「え? そうなんですか? 偶然ですね!」



 ヨウはトウコと貝原を交互に見ながら、白猫を撫でている。



「あっ、しゃおちゃん!」



 白猫はヨウの手から飛び降りると、振り向いてあくびをして、顔を洗い始めた。



「もうー! 今日は勝手に遊びに行っちゃダメだよ!」


(……なんだろう。この感じ)



 何が何やら、トウコはしゃがみ込んでため息を吐きたくなった。いや、実際吐いていた。

 てっきりヨウのことを、気の毒な身の上の子だと想像していた。だが、話しを聞く限り、実際には外資系企業の社長令嬢ということになる。



(むしろ羨ましい話だな。これ……)



 おまけに、トウコはヨウの引っ越しで別れが訪れると思っていた。これもただの勘違いで、トウコとヨウたちはこれから隣人となるようだ。

 しゃおちゃんにも会えるし、ヨウはかわいい女の子だ。貝原という男もこざっぱりした好青年で、悪い人間には見えない。



(私のやきもきした気持ちを、返してくれ!)



 朝から驚いて、どきどきしながら追跡して、心配したと思えば肩透かしされて……。

 この白猫にいいように振り回されてしまった。

 トウコは、間抜けな己の姿に思わず笑ってしまった。



「ふふ……これからしばらく、ご近所さんですね。よろしくお願いします」


「そうですね。よろしくお願いします」



 丁寧に貝原は頭を下げる。トウコも一礼する。



「トウさん、今度あそぼうね!」


「そうだね、ヨウちゃん」


「ぜひ、よろしくお願いします。さすがに、僕も男一人だとなかなか大変でして……」


「そりゃあ、こんないたずらっ子の猫ちゃんまでいたら、そうでしょうねえ」



 トウコと貝原は顔を見合わせて笑う。いたずらっ子認定されたシャオは、我関せずと言ったように、抱きかかえようとするヨウと追いかけっこをしていた。



「にゃーん」



 都会の片隅にある公園には、一組の男女と小さな女の子、それから白猫が一匹。

 日差しは暖かで、緑が眩しい。風がゆっくりと木々を揺らしていた。



◇◆◇



(白猫の郵便屋さんは、本当に人騒がせだったねえ)



 飛行機の上で思い出に耽ったトウコは、手を組んで前に伸ばす。


 夢みたいに不思議な縁、いまでもトウコはそう思っている。しかし、小さな白猫『しゃおちゃん』、このお騒がせな郵便屋の届けた手紙は、こうして、一つの縁を作ったのだった。


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