太平洋を行く飛行機の上、ファーストクラスの席。
足の伸ばせる広々とした半個室の中、低い仕切りの向こうに少女が座っている。
すました顔で、白猫の入ったケージを抱えている。
「こんな贅沢な席、落ち着かないな。ヨウちゃんは慣れているの?」
「あら、トウコおねえちゃん。緊張しているの? わたしも飛行機は久しぶりよ」
「そりゃあ、外国に行く機会なんて滅多にないからね……。シャオちゃんにも、感謝しないと」
トウコがケージに目を向けると、そこではのんびり眠っている小さい白猫が一匹。
この席に、トウコが座るようなことになったのは、この白猫の気まぐれだろう。
「シンガポールについたら、トウコおねえちゃんとおじさんの結婚式だね」
「そうね。まさか、こんなことがあるなんて、思ってもいなかった……」
そう、少し前のトウコに、こんな未来はまったく予想できなかったであろう。
白猫が運んだ手紙と、そこから綴られた縁。
それは、もう二年ほど前のことだったろうか……。
◇◆◇
「にゃーん」
そんな鳴き声が聞こえて、トウコは眼鏡の位置を直した。
鳴き声は、手を伸ばせば届く、すぐ前にある窓からしたようだ。
パソコンの画面から目を離し、椅子を少し回転させる。
おやつを机から落としそうになって、肘でドライキウイの袋を押さえた。
換気用にすこし開いた窓へ目をやる。網戸に一匹の白い猫が爪をたてている。
(おいおい、それ破ったら、私がお金払うんだぞ)
ここは、都会の片隅だ。1階角部屋の1Kに女一人住まい。
もうすぐ三十二になる私は『Webデザイナー コノベ トウコ』なぞと、大層な名刺を与えられている。
とはいえ、所詮は社会の歯車、単なる画像加工の要員である。
「すいません。少し席を外します。外で猫が暴れていて……」
「はーい。トウコさん、いってらっしゃーい」
「猫って三毛ですか? トラですか? あとでチャットに画像貼ってくださいね!」
(はいはい。写真は、撮る気になったら……ね)
同僚たちはめいめいに反応を返してくれる。仕事がリモートになって、もう半年以上経っただろうか。ずいぶん長いこと、顔を合わせていない。
リモートワークは嫌いではない。文化系で地味を自称するトウコとしては、ノリの軽い営業たちと、顔を合わせなくて済むメリットもある。それでも、電車を目がけて小走りするとかもなくなり、淡々と過ぎていく日々に飽き飽きしている。
「にゃーん」
(ずいぶんとしつこい猫だこと)
トウコは、手入れもサボり気味な眉をひそめる。
ボイスチャットをミュート。カメラを切る。視線をその白い猫へ向け、手を伸ばしたところでトウコは気づく。
「マンチカンあたりかな。首輪付きね」
道理で人馴れしているわけだ、とトウコは勢い良く窓を開ける。
「ほれ、さっさと帰りなさい」
トウコは網戸越しに声をかける。手でひらひらと、あっちいけ、の素振りをしてやった。
これで帰るだろう、と思ったトウコの目論見は甘かったようだ。
白猫はトウコへちらっとつぶらな瞳を向ける。しかし、何事もなかったかのように、再び網戸を引っ搔き始める。
(うちの網戸に何の恨みが……)
どうしようかとトウコは窓辺に立ちすくむ。変な病気とか持ってないよねえ、と思いながら、仕方なく網戸をすこし開ける。
(手で払えば、さすがに逃げるだろう)
おそるおそる手を白猫へ近づけていくと、トウコはその見立てすら甘かったことを思い知る。
白猫は、トウコの手へひょいと寄ると、どういうわけか指をぺろぺろと舐め始めた。
「なんで……」
手を引っ込めたいが、思わず固まってしまった。
(あれのせい……か?)
おやつにしているドライキウイを思い返す。たしか、猫にはマタタビと似た反応をすることもある、と聞いたような気がした。それでも、ほいほい人間の食い物を与えていいはずはない。もっとも、トウコにしてみれば『不意打ちで舐められてしまった』だけなのだが。
それ以上指を舐められないように、トウコはゆっくりと白猫の顎へ手を移す。微かに温かみのあった指先が、少しずつ冷めていく。
気持ちよさそうにしている白猫の毛はとても柔らかい。思わず、トウコの頬も緩んでしまう。
(人懐っこくて、いいこだな)
そうして撫でていると、白猫の方は気分が変わってしまったらしい。
「にゃーん」と鳴き声を残すと、どこかへ行ってしまった。
(思いのほか、時間を食ったな……)
せいぜい三分くらいのはずだが、トウコはそれより長く感じた。網戸の具合は大丈夫だろうか、と窓に顔を寄せると、桟に何かが落ちている。小さな紙切れのようだ。
「さっきの子についていたのか……?」
不思議に思ったトウコは、紙切れを手に取ってみる。何度か折られた紙切れを広げると、そこには、短い文章が書かれていた。
『しゃおちゃんは かわいい』
文字はたどたどしく、子供が書いたであろうことが、すぐに分かった。
妙に脱力して、トウコは再び仕事に戻る。
猫好きな同僚が「写真は? 写真は?」とチャットで連呼してきたが、説明するのもばからしくて、トウコは泣き顔のスタンプだけを返しておいた。
『猫が暴れている』話は、それで終わるはずだった。
◇◆◇
どういう理由なのか、翌日も、そのまた翌日も、白猫は窓辺にやってきた。
網戸の耐久度が、みるみる爪で削られていくのにトウコは頭を抱えたが、それ以上に首をひねるものもあった。
他愛もないことの書かれた紙切れが、毎度置かれていくのである。
『しゃおちゃんは しろい』
『しゃおちゃんは おさんぽ』
『しゃおちゃんと あそんでね』
(しゃおちゃん……ってのが、あの白猫の名前か?)
短い文とたどたどしい文字から、紙切れの主は小学生になったばかりか、それより少し幼いくらいの子供だろう。
人懐っこい白猫が運ぶ紙切れが、トウコには手紙のように思えた。微笑ましい気持ちになると同時に、小さい棘が胸に刺さる。
(あれと喧嘩別れしたのって、四、五年前だったか?)
その頃のトウコはまだ、両親を押し切って実家を出たばかりだった。
ようやく一人暮らしが板についた頃、よく泊まりにきていた男から「ずっと一緒にいて欲しい」そんなようなことを言われた。悪い男ではなかった。しかし、ようやく手に入れた気ままな生活を、トウコは手放す気になれなかった。
「私は、一人でいるのも好きだから」
そんなことを告げると、男は二度とトウコの家へ来ることはなかった。連絡もつかなくなった。もしあのまま運命を委ねていたら、トウコにも、これくらいの子がいたのかもしれない。
待て待て待て、と芋づる式に溢れた記憶に、トウコは首を振る。
本当に子供が書いたとも言い切れないだろう、と思い直す。「これは新手のナンパかもしれない」そんな風に想像を巡らせてみて、トウコは気持ちが暗くなるのを振り払った。
(明日は土曜だし、夜は寿司でも頼んでみるか)
金曜の夜だから、余計なことを考えてしまったのに違いない。世の中、ましてやこんな都会では、素直に物事を受け取ってはいけない。
後頭部をがしがしかきながら、トウコはベッドに寝転ぶ。手の中には、四通の手紙がある。
白猫を無視するのが良いか、それとも、『獣との短い逢瀬』と割り切るのが良いか、そんな議論が頭の中でぐるぐると回っていた。
(あんまり気にしても仕方ないか。もう来ないかもしれないし)
トウコは、楽観的で投げやりな結論に落ち着いついた。しかし、どうにもベッドが、普段より広いように思えて、寝付くのに時間がかかった。
結局トウコは、白猫の『しゃおちゃん』が網戸を叩くと、ついつい構ってしまっていた。
気まぐれな『しゃおちゃん』は、何日か訪れないこともある。手紙も、持っていることもあれば、持っていないこともあった。
だらだらと繰り返される逢瀬は、トウコの『しゃおちゃん』と手紙への執着を、ただ強くしただけかもしれない。
だからトウコは、気まぐれのつもりで、こんなことをしてしまった。
『しゃおちゃんは、いいこだね。わたしはトウ。あなたは?』
トウコは、網戸を引っ掻く『しゃおちゃん』の首輪へ、返事の手紙を挟んだ。
淡々と過ぎる日々に飽きていたのもある。加えて、手紙の送り主への微笑ましさと、人懐っこい白猫へ湧いた愛着が、トウコにそんな行動をさせた。
もちろん、トウコとて一人住まいの女である。名を少し変えるくらいの用心はした。
しかし、この手紙が幼い子供のいたずらであろうことは、さすがに疑っていなかった。
(もしこれでナンパだったら、メールにした方が早いと諭してあげよう……)
◇◆◇
次に白猫の『しゃおちゃん』が来たとき、トウコはすぐに折られた紙切れを探していた。
思ったよりも返事を待ちわびていたことに気づき、ついつい苦笑いを浮かべてしまう。
『トウ しゃおちゃんは すき? わたしはよう』
白猫の首輪につけられた紙切れには、やはりたどたどしい文字で、そう書かれていた。
(すごい、ちゃんと届いたんだ)
トウコは微笑みを浮かべて手紙を大事にしまうと、賢い『しゃおちゃん』を撫でる。
なにか良い紙はあったかな、と机を見回して印刷用の白い紙を手に取る。
無地のそっけない物だが、小柄な白猫に、手紙を担いでもらうのは難しいだろう。紙を千切って『よう』への返事を綴る。
『しゃおちゃん、すきだよ。 おへんじ、ありがとう』
呑気に顔を洗う『しゃおちゃん』の姿は、トウコの返事を待っているように感じられた。
(本当に、不思議な猫ちゃんもいたものだ……)
こうして、白猫の『しゃおちゃん』が手紙を運ぶ、トウコと『ヨウ』との、たどたどしい文通が始まった。
◇◆◇
『しゃおちゃん』が運んでくれた手紙は、何通になったろうか。この白くて小柄な郵便屋さんが運べるのは、小さい紙きれだけだ。大したことは書けないが、むしろトウコには心地よかった。
『トウはなんさい? わたしはごさいのおんなのこです』
『トウはもうおとなだよ。 ようちゃんはなにがすき?』
『しゃおちゃんとおとうさん トウはなにがすき?』
(実家にはもうずいぶん帰ってないな……。しかし、なにが好きか、ねえ……)
顔も知らない五歳の女の子から素朴に問われて、トウコは答えに窮してしまった。
普段していることは、仕事をして、一人で暮らして。テレビを見たり、部屋でごろごろしたり。
(たまには友達と買い物にも出るし、そういうのは楽しいけど……)
好きかと言われたら、嫌いではないだろう。でも、ヨウが聞いているのは、そういう答えとはどこか違う気がする。「うーん」と、トウコは手を頭の後ろで組んだ。
『わたしはキウイがすき。 おかあさんは?』
情けない話だ、と思いつつ、トウコは『しゃおちゃん』へ返事を託した。
それからしばらく、白い郵便猫は、トウコの元を訪れることはなかった。
◇◆◇
いつしか季節も変わり、手紙のやり取りや『しゃおちゃん』のことも、少しずつトウコの記憶から消えつつあった。
いつものように1Kの部屋でパソコンの前へ座り、同僚と会話しながら仕事をする。
夜になれば、ベッドの隅で壁に背を向けて眠り、また朝が来る。
道路を挟んだ向かい側のマンションで、工事でも始まったのだろうか。時折、がんがんと、何かを叩くような音がする。
「トウコさん。新しいタスク追加されたので、確認お願いします」
「分かりました。見ておきますが、前にもらった案件の素材が、まだ来ていないです」
「あー、いつも遅いからね……つついておくよ」
「お願いします」
次々と盛られていく作業に、わんこそばじゃないのだから、とトウコは渋い顔をする。
今日は二件、明日は一件、そんな風に締め切りに追われながら、日々はどんどん過ぎて行った。
ようやく週末を迎え、簡単な家事を済ませたトウコは、ベッドに寝転びぼんやりとしていた。スマートフォンを開けば、お決まりの知り合いが綺麗な写真をSNSに載せている。
(よくこんなデコケーキなんぞ作るよなあ。面倒くさいだろうに……)
カボチャか何かで黄色く形作り、チョコの黒とチェリーの赤で装飾を施した人気の電気ネズミ。その写真を眺めて、トウコは益体もない感想を抱いていた。
そんなときだった。
「にゃーん」
トウコは突然の不意打ちに、間抜けな顔をして、目をぱちぱちさせた。
「しゃおちゃん?」
トウコは、頭の中で急にスイッチが入ったように、ベッドからあたふたと立ち上がる。
あわてて窓を開けると、いつものように、網戸をぼろぼろにしようとする、懐かしい姿があった。
「しゃおちゃん、ひさしぶりだねえ」
トウコはちらと網戸を見て、破れてないな、と首肯する。
抱き上げて首を撫でてやると、『しゃおちゃん』は気持ちよさそうにゴロゴロと鳴いた。
(久しぶりだけど、しばらく家の中にでもいたのかな?)
そうしてトウコは、懐かしい感触をひとしきり堪能する。そういえば、と首輪を探る。案の定、折られた手紙がついていた。
『しゃおちゃんとわたし おひっこしするの』
書かれていたのは、トウコの想像していたものと違う内容だった。てっきり、また『ヨウ』とのやり取りが再開するのだと思っていた。
(そうなんだ……)
久しぶりの再会と突然の別れ、そんな相反することが同時に起こって、トウコはしばらく呆然としてしまった。
◇◆◇
都会では、他人となんて、ただすれ違うばかりだ。よくあることである。
日々顔を合わせていた同僚たちが、画面越しの存在になったのも、ただ一通の業務連絡だった。『在宅指示のお知らせ』ただそれだけだ。
それから辞めて行った人間だっている。彼らがどうなったのかなんて、もう知りもしない。それまであった見送りの会も、画面越しになってからは減った。
顔を合わせていた人間とですらそうなのだから、見知らぬ『ヨウ』との別れなんて、あっさり訪れて当然のことだ。
トウコだって、白猫の郵便屋のことも、たどたどしい手紙のことも、少しずつ日常に流されて、埋もれつつあったのだ。
(いたずらはやめなさい、とか親御さんに言われたのかもしれないね)
顔をあげると、しゃおちゃんはこちらを向いて「にゃーん」と鳴き、身を翻した。
行ってしまう、そう思うとトウコは勝手に体が動いていた。
何かに突き動かされるように家から出ると、どういうわけか玄関前にしゃおちゃんが待っていた。
(待って。もう少しだけ……)
抱きかかえようとして手を伸ばすと、しゃおちゃんは走り出す。
「にゃーん」
コンビニの前、アパート横の壁上、工事中のマンション……。
時折振り返りながら、しゃおちゃんは進んでいく。
「にゃーん」
トウコはあとを追い、角を曲がる。そこにあったのは、工事中のマンションに備え付けられた小さな公園だった。
そこに、ゆっくり地面を歩いていたはずの、しゃおちゃんの姿は見えない。
「しゃおちゃん どこいってたの?」
あどけない声が聞こえて、トウコは声の方を見る。
小さい女の子に抱えられる見慣れた白猫、傍らには若い青年がいた。
トウコは驚いて目を見開く。
しゃおちゃんは振り返って、トウコを見た。
笑いかけられた、トウコにはそんな気がした。
(こんな不思議な出会いなんて、もう二度とないだろう)
久々に走ったせいだろうか。息も少し上がっている。どきどきと鼓動が早くなっているのは、走っただけじゃない。予感と緊張、その両方を持って、トウコは白猫を抱く小さな女の子へ声をかけた。
「あなたが、しゃおちゃんのおともだちの、ヨウちゃん?」
「ええと、どちらさまでしょうか?」
傍らの若い青年が、トウコの姿を見て首を傾げている。
トウコは、自分の言動が不審者のものだと気づいて、あたふたと紙切れを取り出す。
先ほど、しゃおちゃんから受け取った手紙を、青年と女の子へ差し出す。
「こんにちは。はじめまして。トウです」
「しゃおちゃん! トウさんを呼んできてくれたの!」
トウコの予感は正しかったようだ。『ヨウ』は想像していた通り、小さな女の子だった。みつあみのおさげ髪に赤と白の水玉ワンピースを着た、かわいらしい娘だった。
青年は、何か理解したような表情で頷き、『しゃおちゃん』とはしゃいでいる『ヨウ』の頭を撫でた。
「あなたがトウさんでしたか。良かった。最近はシャオがあまり手紙を運んでくれないと、『葉』が言っていたのです」
「すいません。急に声をかけて驚かせてしまって。たまたま何度か、しゃおちゃんの持っていた手紙を見て、ついお返事をしてしまったものですから……。久しぶりに見かけて、つい……」
「ああ、いえいえ。こちらこそ『葉』と手紙のやり取りをしてくれて、ありがとうございます。私は『葉』を預かっている『貝原』です。ちょうど引っ越しの準備をしている時にシャオが逃げてしまって、探していたのですよ」
『引っ越し』その言葉を聞いてトウコは少し眉を下げる。『最後に会えてよかった』そんな気持ちと合わせて、『せっかく会えたのに』と、さびしさも感じる。
「トウおねえちゃん これ 読んでね!」
ヨウは何通かの手紙を渡してくれる。
トウコはその手紙たちを受け取り、中を開く。
たどたどしい字で、色々と質問や、日々のことが綴られていた。枚数からすると、ヨウは手紙を書くのが嫌になったり、止められたりした訳ではなさそうだった。
(手紙が来なかったのは、しゃおちゃんの気まぐれ、ってわけね)
その中にある一通は、最後にトウコが送った手紙への返事だった。
『おかあさんはおしごとでがいこくにいるの』
思わずトウコは表情を固くして、目を細める。「小さい子の母親が外国にいる」そこから連想されることは、それほど多くない。
ヨウちゃんのお母さんはもしかして、とトウコは悲しそうな視線を青年へ送る。
青年はトウコの視線と言いたいことに気づいたのか、膝に手を付き、ヨウをのぞき込む。
「葉ちゃんは、僕の従妹なんだよねー? おとうさんとおかあさんは?」
「うん! おとうさんとおかあさんは……えーっと……し、しん……しん……」
ヨウが目と唇を歪めているのを見て、トウコはその先を聞きたくなくなった。『死んじゃったの』そんな言葉を聞いたら、どんな表情で受け入れれば良いのだろう。
「しん……シンガポール! マーライオン!」
「へ?」
トウコは思わず間抜けな返事をしてしまった。予想外の答えに、顔が抽象画のようになっていないだろうか。
「そうそう! シンガポールで社長さんしてるんだよね!」
「……そうなんですか……てっきり……」
「ご心配しているようなことではありませんよ。ちゃんと健在です」
トウコは、ヨウが不憫な境遇なのかと想像したが、それは取り越し苦労だったらしい。
まあ、それでも寂しいは寂しいか、と思い直してヨウの前へしゃがみ込む。
「お引越しして、遠くに行っても、ちゃんと元気にしていてね」
「ん? とおく?」
ヨウは首を傾げて、貝原と名乗った男を不安気に見上げた。その小さな手に、男のズボンを掴んでいる。
「あぁ、いえ……。ここのマンション、工事中なので一時的に向かいに引っ越すんですよ。ほら、あそこの……」
指差す方向を見て、トウコは立ち上がって目を見開いた。
そこには、見慣れたアパートが立っている。
いや、見慣れたではなく、住み慣れた、と言った方が良いだろうか。
「え? え? 私、あそこに住んでいるんです!」
「え? そうなんですか? 偶然ですね!」
ヨウはトウコと貝原を交互に見ながら、白猫を撫でている。
「あっ、しゃおちゃん!」
白猫はヨウの手から飛び降りると、振り向いてあくびをして、顔を洗い始めた。
「もうー! 今日は勝手に遊びに行っちゃダメだよ!」
(……なんだろう。この感じ)
何が何やら、トウコはしゃがみ込んでため息を吐きたくなった。いや、実際吐いていた。
てっきりヨウのことを、気の毒な身の上の子だと想像していた。だが、話しを聞く限り、実際には外資系企業の社長令嬢ということになる。
(むしろ羨ましい話だな。これ……)
おまけに、トウコはヨウの引っ越しで別れが訪れると思っていた。これもただの勘違いで、トウコとヨウたちはこれから隣人となるようだ。
しゃおちゃんにも会えるし、ヨウはかわいい女の子だ。貝原という男もこざっぱりした好青年で、悪い人間には見えない。
(私のやきもきした気持ちを、返してくれ!)
朝から驚いて、どきどきしながら追跡して、心配したと思えば肩透かしされて……。
この白猫にいいように振り回されてしまった。
トウコは、間抜けな己の姿に思わず笑ってしまった。
「ふふ……これからしばらく、ご近所さんですね。よろしくお願いします」
「そうですね。よろしくお願いします」
丁寧に貝原は頭を下げる。トウコも一礼する。
「トウさん、今度あそぼうね!」
「そうだね、ヨウちゃん」
「ぜひ、よろしくお願いします。さすがに、僕も男一人だとなかなか大変でして……」
「そりゃあ、こんないたずらっ子の猫ちゃんまでいたら、そうでしょうねえ」
トウコと貝原は顔を見合わせて笑う。いたずらっ子認定されたシャオは、我関せずと言ったように、抱きかかえようとするヨウと追いかけっこをしていた。
「にゃーん」
都会の片隅にある公園には、一組の男女と小さな女の子、それから白猫が一匹。
日差しは暖かで、緑が眩しい。風がゆっくりと木々を揺らしていた。
◇◆◇
(白猫の郵便屋さんは、本当に人騒がせだったねえ)
飛行機の上で思い出に耽ったトウコは、手を組んで前に伸ばす。
夢みたいに不思議な縁、いまでもトウコはそう思っている。しかし、小さな白猫『しゃおちゃん』、このお騒がせな郵便屋の届けた手紙は、こうして、一つの縁を作ったのだった。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!