…そんなはずは、…無い…
俺は自分を疑った。
込み上げてくる記憶の淵で、疼く唇を噛み締めた。
忘れるはずはなかった。
忘れようにも、忘れられない“思い出”だった。
それを「思い出」と呼んでいいかどうかはさておき、俺にとっては、今でも心に残る“体験”だった。
印象的な出来事だったんだ。
キャンバスに落とした絵の具のように。
晴れ渡る、空の青さのように。
鮮明な「色」をしていた。
あり得ないくらい、眩しかった。
どうしようもないくらい強烈だった。
昔のようで、ずっと近くにあった記憶だった。
俺が初めて、好きになった人との——…
「…アカ…リ…?」
自然と、その名前を口にしていた。
出そうと思って、出た言葉じゃなかった。
彼女の目を見ながら、そう言った。
なんでそう言ってしまったのかの反芻を、すぐにはできなかった。
それくらい、無意識だった。
「思い出してくれた?」
くるッとナイフを遊ばせながら、小さくほくそ笑む。
どこか無邪気で、どこか、大人っぽくて。
胸がすくような気持ちになった。
ジッパーを引いた時のような、あの、“すく”感じ。
炭酸水を喉に落とした時のような爽快さ。
それでいて、蛇口を閉めた時のようなキリの良さ。
何かはわからない。
はっきりと、この胸の奥を突く感情の手がかりを掬えない。
ただ、確かな「情景」だけは、そこにあった。
意識が追いつけるか追いつけないかのギリギリの場所を飛行する、重力。
手が届くようで、届かないもどかしさ。
午後16時の、——下降線。
そうだ。
あの時もそうだった。
訳もわからず部屋に上がり込んだ彼女の横で、何を話せばいいかもわからないほど、緊張してた。
彼女が言ったんだ。
キスしていいか?
って。
俺は唖然としてた。
目が点になったまま、ほくそ笑む彼女の瞳だけを、じっと見てた。
そしたら——
「…嘘だ」
俺の目の前にいる不審者が、彼女なわけがないと思った。
俺の初恋の相手。
不死川アカリなわけが。
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