迷路からの脱出を図るくるみたち一行は、くるみの提案で水色の壁へ戻ろうとしていた。
「今日はあの男とは一緒じゃないのね」
道中、不意に凛々が尋ねた。
「あぁ、ほたかのこと? 今日は一緒じゃないよ。でもほたかも来てると思うんだけどなー」
「ほたか君が来てないはずないわ。この迷路空間に気配はないけど。別の場所にいるのかもね」
心配するくるみに、シュガーが言い聞かす。
「……ねぇ、凛々ちゃん。ここを出た後もまた協力して敵を倒す機会あると思うんだけど、どうして一人がいいの?」
くるみが凛々に思い切った質問をする。凛々は少しためらってから「別に、一人がいいわけじゃない」とぼそっと答えた。
「もしかして、私たちが、気に食わない?」
凛々の歩む速度が落ちて、やがて止まった。
「違う……けど……」
凛々は俯いて、くるみと目を合わせない。
「凛々ちゃん、話してあげてもいいんじゃない?」
凛々の右肩に乗ったオリーブが、優しい口調で言った。凛々は硬い表情で沈黙する。全員が静止すると、この魔空間はまるで真空状態になるようだった。場に緊張が走ったが、凛々は深く息をして、薄くなった空気を巡らそうとした。
「歩きながら話しましょう」
くるみとシュガー、オリーブ、そして凛々はうろ覚えの道を時に立ち止まり、悩み、進んで行く。凛々は記憶を辿りながら、淡々と語った。
「私には三つ上の姉がいたの。姉も武闘族で、とても強くて私の憧れだったわ。でも姉は高校二年で死んだの。魔空間の中でね。これは姉のパートナーに後から聞いた話だけど、姉はその時、戦士族の男二人と行動してたらしいの。巨大な食虫植物みたいなモンスターと戦ってて、そいつが姉を捕まえて食べたらしいわ。すぐにそいつを倒せば助かったかもしれないのに、戦士族の二人は怖くなってその場から逃げたって。魔空間で人が死ぬとどうなるか分かる? 遺体すら戻ってこないの。行方不明のまま、ただモンスターの養分にされて、まるでこの世に存在していなかったみたいになるの。魔法みたいに、消えるの……」
凛々の声が震えて、また黙ってしまった。
「軽々しく聞いてごめんなさい……」
くるみは立ち止まって、頭を下げる。凛々も足を止めるが、くるみの方を向かない。
「私はあの日、姉を置いていった戦士族を許すことができない。別にあなたの仲間が悪いのではないと頭では分かってるわ。でもね、”戦士族”という名前を聞くだけで虫唾が走るの」
怒り、悲しみ、憎悪。あまりに大きな負の感情の渦巻きに、くるみは気休めの言葉も浮かばない。同じ深さか、それ以上の傷を負った者でないと、本当の意味での手当ての方法を知らないものだ。
「行きましょう。水色の壁はもうすぐのはず」
皆が黙り込むので、凛々は呼吸を整えて再び歩き出す。角を曲がるとすぐ水色の壁があって、触れると例のプオンという音が三回鳴った。
「やっぱりそうだ」
くるみは確信を持って「次は緑の壁を見つけよう」と意気込んだ。
ほたかたちがミロのヴィーナス像にダメージを与え始めて数十分が経った。ほたかは投げる彫刻刀の命中率が下がり、源治のバリアも心なしか小さくなってきているようだった。ミソとペッパーも息が上がっている。
肝心の像はというと、美しかった腰の曲線はひび割れ、でこぼこと抉れてきている。ほたかたちが想像していたよりもやわで、いずれは崩れ去ることになるだろうが、太い腰が折れるには数時間は要すると思われた。
「源治さん!」
ほたかは扱い慣れた彫刻刀を投げつけた後、源治に問いかけた。
「この調子じゃ自分たちの体力が先に尽きそうです」
源治が次の攻撃機会に備えてしゃがむほたかを見やる。
「さすがにきついか……」
源治のバリアは自らの魔力を消耗しており、有限だった。ほたかは傷や青あざはほぼ治っていたものの、体力だけは奪われていく。
「俺、あいつに彫刻刀直接ぶっ刺そうと思ってるんですけど、やっていいですか?」
「ぶっ刺すって、まずあいつにどうやって近づくつもりだ?」
源治は彫刻刀を跳ね返しながら、ほたかの説明を聞く。
「もし失敗したらまた壁に吹き飛ばされてお前、無事で済まないぞ」
「やってみせます!」
ほたかの指示通り、源治は像へとできる限り近づく。近づくほどに発射される彫刻刀を受け止める力量が試された。源治はバリアをさらに厚くして対応したが、最大出力は長くは続かない。
「行けるか?」
猛る金属音に、さすがの源治もバリアを破られないかと冷や汗をかく。
「この攻撃が止んだら行きます!」
ほたかの右手には一本の三角刀。源治のバリアに守られながら、像の行動を注意深く観察する。ヘッドバンドが光り、足元もジリジリと電気を帯びる。蓄電は十分だった。
何度か魔法陣が消えた後、一瞬の静けさが訪れた。攻撃が一時的に止んだのだ。
「行きます!」
ほたかは立ち上がり、一度壁際へ走る。そして中央に君臨する像を見据え、一気に走り出す。それは雷鳴のごとく一瞬の出来事だった。
「ジェットライジング」
この放電に必要だったのは助走だった。助走により蓄えた雷エネルギーを、最後の跳躍時に全て放つのだ。直前にほたかの道を空けるように避けた源治も、その速さは目で追えなかった。気づけば二メートル以上ある像の頭の上より高い位置にほたかがいるのだ。それはまるで、成層圏から宇宙へと昇る神秘的な青い雷のようだった。
飛び上がったほたかに像は反撃の魔法陣を生成しようとしたが当然、手遅れだった。ほたかは空中で三角刀を素早く両手で持つ。腕を伸ばし、刃だけが像に触れるよう調整する。そして全身全霊の力を込めて、脳天めがけて刃を振り下ろした。
その刃は像に刺さったというよりは、像をかち割ったという表現が正しかった。ほたかの落下と共に像は白い石片となり、塵が舞った。ほたかが着地する頃には、像は刃の通過した箇所から無残に大破していた。美しくも恐ろしいその顔は見る影もなくなり、足元の方の下半身が一部残るだけだった。
像の魔力は急激に失われ、息の根は止まったようだった。やがて新たなポータルが現れた。その邪悪な色味から、これは出口ではなく次の魔空間のエリアへのポータルだろうとほたかたちは察しがついた。
「この魔空間、まだ先があるのか」
ほたかはやり切ったつもりでいたため、身体がまた重くなるのを感じた。
「いくつもエリアが続くことはよくあることだぞ」
源治は勇ましく、新たなポータルに入る。
「さあ行きますよー! まだこの先にモンスターの反応がありますからね!」
ペッパーも先ほどまでの戦闘などものともしない威勢のよさで源治の後を追う。
「元気すぎだろ……」
ほたかは苦笑いしながら冷たくなった剣をまた握り、進む。
次にほたかたちが着地したのは、ざらざらした木目の床だった。そこにはくるみとシュガー、そして凛々とオリーブがいた。
ほたかたちがミロのヴィーナス像を倒す少し前。くるみたちは紫の壁に戻ってきていた。青、水色、緑、黄緑、黄、オレンジ、赤。色相環の順に壁を回り、その最後と思われるのが紫だった。
「触るね」
くるみが緊張した面持ちで紫の壁に手を伸ばし触れる。
“プオン プオン プオン プオン プオン プオン プオン”
“プオン”
八回目の機械音が鳴り、紫の壁が歪み始めた。歪んでできた黒紫色のポータルは、明らかに次なる強敵が現れそうな不吉な色合いだった。
「お手柄ね」
凛々がくるみを褒める。
「すごーい! 何で分かったの?」
オリーブが飛び上がってくるみに尋ねる。
「何でだろ。ピンと来たっていうか。中学の時に興味あって色の本とかよく読んでたからかな」
くるみは照れ臭そうに頭を掻く。
「やったわね、くるみ。でもまだ魔空間は続いてるみたいよ。今度こそモンスターがいる気配よ。みんな、気を引き締めて行きましょう!」
シュガーが気合を入れ直し、くるみたちはやっとの思いで迷路空間を後にする。そしてポータルを抜けると、そこは古い木造の一室だった。部屋はミロのヴィーナス像の部屋よりさらに一回り大きく、天井は四メートルはある。癒しさえ感じる木の匂いがしたが、どこにも扉や窓はない。
「あれ……」
くるみが部屋の奥を見ると、木製のイーゼルと白いキャンバスが見えた。近くには背もたれのない丸椅子が置いてあり、そこに女性がキャンバスの方を向いて座っていた。
「あれがこの魔空間の主みたいね」
シュガーが敵の魔力を察知する。女性は膝の上に両手を置き、背中を丸めて寝ているように見えた。くるみはその後ろ姿に見覚えがあった。もしかしてと思って声をかけようとしたその時、くるみたちの右手側にポータルが現れ、源治、ペッパー、ミソ、ほたかが順番に出てきた。
「ほたか!?」
「おう! やっぱ来てたんだな」
くるみは体格の大きい見知らぬ男性と猿に目を泳がせる。
「あぁ、こっちはさっき知り合った源治さんとパートナーのペッパー。そんで、あれが幼馴染のくるみです。あの黒猫がシュガー。あとはー……」
ほたかがくるみにアイコンタクトする。
「あぁ! こっちは凛々ちゃん。同じ学校で同じ学年の子だよ。パートナーはインコのオリーブちゃん」
「改めてよろしくー!」
オリーブは気さくに挨拶したが、凛々はほたかの顔を見ようともしない。凛々にとっては最悪の再会だった。
「皆さん、敵が立ち上がりましたぞ!」
ミソが警戒して全員に呼びかける。女性はいつの間にか立ち上がっていた。動かずにただ下を向いている。
「麻紀ちゃん……? 麻紀ちゃんだよね?」
くるみが数歩だけ女性に近づき、確認する。女性は身体は動かさずに、首だけを少し左に回した。薄暗い部屋でも顔立ちがぼんやり見えて、大きな丸眼鏡をかけているのが分かった。
「やっぱりそうだ! 麻紀ちゃん、何でこんな所に!」
くるみがさらに近づこうとするので「危ないわよ!」とシュガーが制止する。
「ふふふ」
麻紀が笑った。様子がおかしい。足元の暗い影が徐々にまとわりつくように麻紀の身体を侵食していく。
「誰のせいでこんな所にいるのかな」
麻紀が抑揚のない声で問いかける。まとわりつく影は麻紀の身体を真っ黒に染め上げていく。源治は槍を、ほたかは剣を構える。凛々も既に戦闘態勢だった。
「誰のせいって……。モンスターに閉じ込められたの?」
くるみの質問への答えはなく、麻紀はくすくす笑う。
「嘘つきなんか、死んじゃえばいいのに」
麻紀の声が低くなる。影が跳ねるように急激に麻紀の全身を覆った。麻紀は同化したように髪も肌も服さえも黒く染まった。にたにたと見え隠れする歯と、鋭い目玉の白だけが浮いているようだった。
「そんな……」
くるみがたじろいでいる間に凛々が飛び出す。その勢いに躊躇はなかった。きしんだ床の音が一瞬で凛々まで到達し、水流をまとう拳が麻紀に向けられる。
「待って! その子は私の……!」
くるみが凛々を止めようと叫ぶ。
「私の……」
言葉が詰まる。
――くるみちゃんって嘘つきなんだね
――嘘つきなんか、死んじゃえばいいのに
くるみの頭の中に麻紀の刺々しい言葉が流れ込む。止めようとした左手が自信をなくして下がる。くるみの目がうつろになる。
『麻紀ちゃんって、友達じゃ、ないのかな』
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