くるみにこびりついた黒い影は、徐々に面積が大きくなっていった。腕と身体、衣装や足の先までも黒くなった。それにシンクロするかのように、麻紀の影は頭の先から緩やかに消え、眼鏡や制服、両手の指の先まで元通りになった。
「これで半分こだね」
くるみが笑いかけると、麻紀も涙でぐしゃぐしゃになった顔で穏やかに笑みを浮かべた。
「くるみ……」
シュガーはくるみの一連の行いに感極まった。そして今ここに、くるみが無事でいること、笑顔を見せていること。その安堵から視界が揺れる。シュガーの青い瞳から一粒の涙が床に落ちた。涙はなぜか光り輝き、皆を照らした。煌めく雫は、眩しすぎて視界を奪う。全員が目を開けていられなくなった。シュガー自身も何が起こったか分からずに、ただ目を閉じる。
くるみ、シュガー、ほたか、ミソ、凛々、オリーブ、源治、ペッパー。一族全員が次に目を開ける時、その場所は魔空間ではなく駐車場だった。
「何? 何が起こったの!?」
オリーブが飛び上がって凛々の肩に乗る。
「目が痛いです~」
ペッパーが目をパチパチさせるので、源治は「大丈夫か?」としゃがみ込み目線を合わせる。
「元の場所に帰ってきたようですな」
ミソがすっかり暗くなった空を見上げると、星々が昨日までと同じように光っていた。
「あれ! 身体が元に戻ってる……」
麻紀の色を吸収して黒くなっていたくるみの腕や身体は何事もなかったかのように健康的な肌色に戻っていた。
「くるみ! 何ともないのか!? 痛いとこないか!?」
ほたかがやけに心配するので、くるみはクスっと笑ってしまった。
「大丈夫みたい。ほら」
くるみは立ち上がり、変身を解除する。
「良かった……」
元気に立ち上がる姿を見て、シュガーは濡れた目元を前足で拭う。
「何で治ったんだろう」
くるみが何となくシュガーと目を合わせる。
「俺も何か身体が軽い気がする」
ほたかも変身を解除して、その場で軽くジャンプをする。それを見て、凛々も自身の太股の負傷が消えていることに気づく。
「ここに戻る直前、シュガー殿の足元が強く光るのが見えました。影の浄化、身体の治癒。もしやシュガー殿がパートナースキルを発動したのかもしれませんぞ」
ミソの推測にシュガーは尻尾を立てて驚く。
「あれが、パートナースキルだったの……?」
「ねー、また知らない言葉が出てきたんだけど」
くるみが困り顔で頭を掻く。
「話の途中で悪いが、あの子、ほっといたらまずいんじゃないのか?」
源治が指差す方にくるみたちが視線をやると、コンクリートの壁に両足を伸ばしてもたれる麻紀がいた。麻紀の身体も同じく元に戻っており、目を閉じて俯いていた。
「麻紀ちゃん!」
くるみが急いで駆け寄る。
「俺たちはバレないようにどっか行った方がよさそうだな」
源治が変身を解除して私服に戻り、ペッパーと共にその場を去ろうとする。
「もう魔空間の中でバレちゃってるんじゃないですか?」
ほたかが言うと源治は首を振った。
「一族以外の人間が魔空間に入ると、魔空間の中での記憶はほぼないらしい」
ほたか、源治、凛々、そしてシュガー以外のパートナーたちはその場を去った。そして、くるみが麻紀の肩を何度か揺らし名前を呼ぶと、麻紀は唸りながらやっと目覚めた。
「あれ……私……」
「麻紀ちゃん! 大丈夫?」
「……くるみちゃん? 何で?」
「えっと、たまたまこの道を通ったらね、麻紀ちゃんがここで寝てたの! もしかして何か覚えてる?」
麻紀は、ずれ落ちた丸眼鏡をかけ直しながら考える。
「分からない……。何か怖いことがあって、それからずっと悪夢を見てたの」
「どんな、夢だったの?」
「鏡があってね、私の身体が全部真っ黒だったの。ショックでずっと泣いてたんだけど、いつの間にか鏡に映る自分がくるみちゃんになってて、ごめんねって言ってくれたの。それで私の黒い所を全部吸収してくれたの」
「そっか……。私ね、ちょっと忙しくて美術部に入れるかも分からないし、早く帰ることも多くなりそうなの。そんな私でも、これからも一緒にいてくれる?」
「もちろんだよ。あのね、くるみちゃんのこと、嘘つきとか言ってごめん。くるみちゃんにも色々事情があるんだよね……。自分が不安だからって、私、どうかしてた」
くるみが麻紀の両手を掴んで目を合わせる。
「もういいの。これからも仲良くしようね」
「うん!」
二人は微笑み合う。近くで聞いていたシュガーはやれやれと伸びをして、二人を温かい目で見守った。
その頃、ほたかと源治は先に帰路についていた。
「あの凛々って子、どっか行ったみたいだけど友達じゃないのか?」
「あー、あの暴走気味の?」
「そうそう」
「何か俺のこと嫌ってるんですよねー。よく分かんないです」
「そうか……。あ、俺こっちだから。じゃあな」
路地を抜けて、人通りのある広い道に出る。
「あ、待って下さい。よかったら連絡先とか!」
「あー、今携帯とか家だから、また今度学校で会った時な」
「えっ、源治さん、同じ学校なんですか!?」
「まだ言ってなかったっけか。星ノ森高校三年C組。お前たちの先輩だぞ。改めてよろしくな」
「以後よろしくお願いします―」
ペッパーが源治の横でくりくりした頭を下げた。
ほたかとミソは去って行く源治たちの背中を見送る。
「何か後ろ姿、同じ高校生に見えねー」
「ホッ、ホッ、ホッ。源治殿は体格に恵まれてますな」
「俺も鍛えたらあんな風になれるかな?」
「さぁ、どうでしょう。身体が大きいことだけが全てではないですぞ」
「よし、帰ったら筋トレするぞー」
意気込んだ所で、ほたかの腹がグーッと鳴った。
「……その前に飯だな」
ほたかと、少し遅れてくるみが家に帰ると、峰がまだ夕食を食べずに待っていた。二人は食事をしながら峰にそれぞれの戦いの話を興奮気味に話した。そして凛々が話してくれるようになったとくるみから聞いたほたかは、素朴な疑問をぶつける。
「なぁ、何であの凛々って子、俺のこと避けてるんだ?」
「ほたかが嫌われるなんて珍しいわねー」
幼い頃から友人が多かったのを知っている峰は、不思議そうに首を傾げた。
「何かほたかが嫌われてるっていうより、戦士族のことが好きじゃないみたい……。家族が色々あったみたいで……」
凛々の過去を軽々しく口にできないくるみは言葉を濁した。
「ふぅーん。まあ戦士族は野蛮な人も多いっていうからねー」
峰が手に持ったフォークを振ってみせる。
「うちのお父さんも昔は凶暴だったのよ」
峰は小声で言うが、ちょうど風呂から上がった尊がリビングに現れた。
「俺の話をしてるのか?」
尊がタオルで髪を拭きながら峰に尋ねる。
「そ、そうよー! 昔は強かったーってこの子たちに教えてあげてたのー」
「そうか……」
峰がにんまりと人差し指を顔の前に立てるので、くるみとほたかはクスクス笑った。
くるみがその日食べたミートスパゲッティは、優しい母の味がした。しかしそれは普段食べ慣れているものとは味が少し違った。くるみは自分の母の味を忘れない。三人で囲ったあの食卓。今は誰もいないあの暗い食卓。
テーマパーク「アニマルランド」はいつ行っても混雑しているが、その日は平日だったので少しは人が少なく感じられた。
三月。受験を終えたくるみは、星ノ森高校の合否発表の前に家族と訪れていた。くるみの成績ならば合格は間違いなかった。しかし心配性なくるみは、不合格が分かってから遊びに行きたくないと言い張り、そのタイミングとなった。
「あれ乗りたい」
くるみが指差したのは、空中で上下に動物たちが旋回するアトラクション「フライング・アニマル」だった。
「昔からあの乗り物、ほんと好きね~」
白のワンピースを着たまい子が、くるみの隣で優しく微笑む。五分ほどアトラクションの列に並ぶと、すぐにくるみとまい子の番になった。黒猫のキャラクターの顔がついている乗り物の席に着くと、可愛らしい曲と共に空中へ数メートルふわりと浮き上がり、回り始めた。
「おーい!」
「あ、パパだ!」
誠次がアトラクションの下で、二人にスマートフォンを向けて撮影をしていた。二人は誠次のいる方角が回って来るたびに笑顔で手を振った。
くるみは特別このアトラクションに思い入れがある訳ではないし、新鮮味もなかった。しかしこのテーマパークに来た時には必ず乗っている。絶叫系のアトラクションが苦手という理由もあったが、風を切りながら家族とゆったり過ごせる時間が何よりも好きだった。
「あれ?」
「どうしたの?」
くるみが一つ前のうさぎの顔がついている乗り物を見ると、着ぐるみが乗っていた。その着ぐるみは黒猫で、一人で静かに乗っている。
「あの着ぐるみ、さっきまで乗ってたっけ?」
くるみは前の乗り物には誰も乗っていないと思っていた。
「えー? ずっといたわよー?」
まい子が不思議がって笑う。黒くて大きい着ぐるみが前に乗ったらすぐに気づきそうなものだが、くるみの目には映っていなかったのだ。
「あれ? パパいなくなった?」
イチョウの木の下にいるはずの誠次がいなくなっていた。
「あら? 隠れたのかしら?」
まい子はそんなに気に掛ける様子もない。そしてくるみがもう一度前を向くと、着ぐるみがこちらを向いていた。大きい目に、にっこりと変わらない愛らしい表情。
「ねぇ、何か見てるよ?」
可愛らしいはずのキャラクターも、あまり動かずこちらを凝視してくると不気味にも思える。
「あらほんと」
やはりまい子は冷静だった。動く訳でも手を振る訳でもなく、ただこちらをじっと見てくるその猫目に、くるみは恐怖を覚えた。
「ねー、何か怖いよ」
まい子のなびく服の袖を右手で掴む。
「汚いわぁ」
「え?」
「黒猫なんて縁起でもない」
くるみはまい子の発言に耳を疑った。
「ママ、猫好きだよね?」
「嫌いよー。動物なんてろくなことないわぁ」
くるみの鼓動が速くなる。
「ママ、そんなこと……」
袖を掴む手を離す。まい子はくるみと目も合わせず、ただ前をぼんやり見ていた。全身から汗が噴き出す。アトラクションの可愛らしい曲のキーが半音下がってテンポが遅くなる。旋回の速度もスローになり、謎の緊張感が漂う。
「ママ……じゃない……」
くるみは青ざめて、小さく呟く。
「オーイ」
いなくなったと思われた誠次の声が下からして、くるみは瞬時に助けを求めようとする。しかし、誠次は木の下で変わり果てた姿で手を振っていた。
「くぅるぅミィ」
低い化け物の声で名前を呼ばれた。くるみは思い出した。この声、あの醜い姿は、四月にシュガーと見るあのモンスターだった。しかし思い出したようで、何も思い出せてはいないのだ。
「シュガーって何だっけ……」
三月のくるみの記憶に、当然シュガーはいないのだ。
「くくくくくくルミ。猫をステテテテテきなさイ」
まい子が気が狂ったような喋り方でくるみに命令する。くるみが見ると、まい子も誠次と同じく青白く、爪は伸び、まるで死体のような色に様変わりしていた。
テーマパークはいつの間にか暗くなって、他の人間はいなかった。可愛らしい音楽は低くなり、途切れ、不快な周波でくるみの混乱を誘う。隣のモンスターから異臭が漂う。アトラクションは回り続ける。めまいがした。
「助けて!」
やっと声が出て、正面を見ると着ぐるみはまだこちらを向いたままだった。着ぐるみは変形して潰れていた。そして歪んだ目から血の涙を流す。
「ニャーーー」
大きくおぞましい鳴き声が耳をつんざいて、くるみは失神した。
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