「わぁ!」
四月八日、午前八時、寝坊。カーテンを開ける余裕もなく、階段をどかどかと駆け降りる。そして途中でつまづく。床に手をついたにもかかわらず、体を支えきれずにおでこまでぶつけた。
「くるみ! 大丈夫?」
間藤くるみの母・まい子がエプロン姿で走ってきた。
「いった~……。何で起こしてくれないのぉ」
くるみが転んだまま涙目で母を見る。
「起こしたのよぉ? でもくるみが気持ち良さそうに寝てるからぁ」
「始業式の日に寝坊はさすがにまずいよ!」
袖を通すのがまだ三回目の真新しいブレザーを着て、ボブカットの髪も乱れたまま玄関に立つ。
「これで冷やしながら行きなよ」
父・誠次がアイスバッグを差し出した。
「えぇ~恥ずかしいよ~」
「いいから。コブが大きくなった方が恥ずかしいよ」
くるみは仕方なく受け取り、家を出る。
「いってらっしゃ~い」
まい子がベランダから顔を出して呼びかけた。
「いってきます!」
くるみは母の顔をまともに見ることもなく飛び出した。
先週の入学式以来の通学路。高校は徒歩十分ほどの距離で、走れば遅刻せずに済みそうだった。横断歩道を渡って、人けの少ない路地へ。時間が遅いからか、同じ制服の学生はもういなかった。やばいやばい、と冷や汗をかきながら桜の花びら散る公園のそばを駆ける。くるみが全速力で角を曲がると、足元に黒猫がいた。
「おぉっと! 危ない!」
黒猫は一瞬身構えたが、すぐに伸びをしてくるみの目を見つめた。
「間藤くるみ! 魔法族の契約に従って正当に働きなさい!」
黒猫は大人の女性の声で人間の言葉を話した。
「ヒッ」
くるみは驚いて悲鳴も出ない。
「契約に従えない場合、それなりの処罰が下ることになるわよ!」
くるみは足元で流ちょうに喋る黒猫から距離を取った。
「私……階段から落ちて頭おかしくなっちゃったんだ……」
青ざめるくるみに、黒猫は呆れて「何とぼけてるの!」と爪を立てて怒った。
「パートナーのシュガーよ。本来あなたは四月一日にはナトリション王国で正式契約が必要だったの。親御さんから聞いてない?」
くるみは「さ、さよなら……」とシュガーの言葉を無視して立ち去ろうとした。
「あ、待ちなさい!」
シュガーがテクテクあとをついてくる。
「ヒィィ」
くるみはますます怖くなって、震えながら走った。
学校付近の人けの多い場所まで走ると、いつの間にかシュガーはいなくなっていた。
「おーい、遅刻になるぞー」
校門に立っていた教師がくるみに呼びかけた。
「あ、やばい!」
不思議なことはあったものの、くるみはチャイムと同時に教室に入ることができた。
「お前、初日からぎりぎりかよー!」
幼馴染の桐上ほたかが汗だくのくるみを茶化した。
「ちょっと寝坊しただけだよ……」
くるみは周りに注目されてしまい赤くなった。手に持っていたアイスバッグをさりげなく背中に隠した。
「何、あの子知り合い?」
「誰、誰ぇ?」
今日はまだ始業式だというのに、ほたかの周りには既に二、三人の新しい友達がいた。
「あいつ幼馴染なんだ。間藤くるみ。どんくさいけど仲良くしてやって」
「くるみちゃんよろしくー」
「よろしく!」
くるみも引きつった笑顔で挨拶する。
「よ、よろしく……」
くるみとほたかは保育園の頃から現在までずっと同じ学校だった。別にお互い意識したわけでもなく、いつの間にか高校も一緒で、またクラスまで同じになった。
ほたかは友達の輪を作るのが上手で、くるみは苦手だった。くるみは今までクラスで浮いたり、いじめられたことがないのは、ほたかが自分の幼馴染だと宣伝して回っているからなのかもしれない、と薄々思っている。
感謝はしているが、伝える機会は訪れない。ずっと同じ学校でありながらも、常にいる場所が違うからだ。
始業式も終わり、初めての授業を受け、昼休みがやって来た。
「くるみちゃん、何か部活でも入るの?」
くるみは一緒に弁当を食べないか誘ってきた今田麻紀と共に教室で過ごしていた。
「うーん、中学も美術部だったからまた入ろうかなって思ってるよ」
「ほんとに!? 私も美術部だったの! 明日の部活見学、一緒に行こうよ!」
麻紀は丸眼鏡を光らせて、興奮気味に話した。
「すごい、偶然! 行こう、行こう」
くるみはひとまず教室で一人ぼっちでなくなったことに胸を撫で下ろした。麻紀と談笑している間に、ほたかが友達を引き連れて食堂から帰ってきた。
「ほたかバスケ部入ろうぜー」
「いやー俺、部活とかもうダルいからいいってー」
いつもほたかはグループの中心にいる。くるみはほたかを目で追いながら改めて感心した。
「ほたか君、だっけ。幼馴染なんでしょ?」
「えっ、うん。朝の、聞いてたの?」
「あー、うん、ほたか君が大きな声で言ってたから」
「あれは聞えるよね……。恥ずかしい」
「幼馴染なんていいなあ。私にはいないや」
麻紀もほたかを目で追った。
「ただの腐れ縁だよ。別に関わりないしね」
「そうなんだぁ」
少しの間があって、昼休み終了五分前の予鈴が鳴った。
六時間目まで授業が終わり、くるみは何とか一日を終えた。麻紀は帰る方向が違ったため、一人でゆっくり帰ることになった。朝はどうなることかと思ったけど、友達もできたし何とかなりそう、とくるみは充実感を覚えた。そして同時に、朝の黒猫を思い出した。
――間藤くるみ! 魔法族の契約に従って正当に働きなさい!
また人けの少ない路地に差し掛かる。あれは一体何だったんだろう、と考えたくもないことをくるみは考えてしまう。
まだ夕方だというのに公園にはなぜか人っ子一人いない。遠くで車の走る音だけが聞こえる街。西日がくるみの赤茶色の髪を照らす。
「間藤くるみ! 近くで強力なモンスターの反応があるわ! 直ちに向かうのよ!」
シュガーが公園のフェンスの穴から飛び出してきた。
「嫌ぁぁぁぁあ!」
全力で来た道を戻る。しかし驚きすぎてスクールバッグをその場に放ってしまった。
「待って! モンスターの反応はあなたの家なの! あなたの家族が危険かもしれない!」
シュガーの訴えに、くるみの足が止まる。
「え?」
「今すぐに駆けつけられるのはあなたしかいないの。お願い、契約のことは後でいいからとにかく来て!」
言われるがままシュガーの後ろをついていく。全く、喋る黒猫を追いかける状況は訳が分からなかったが、くるみは父と母の顔を思い浮かべながら必死に走った。
「やっぱりこの中よ」
まい子が朝干していた洗濯物がベランダにそのままあった。
「私、どうしたらいいの?」
玄関の前に立つ。シュガーは辺りを警戒する。
「ひとまず玄関に入ったらすぐ変身しましょう」
「へん、しん?」
シュガーは目を見開いてくるみを見上げる。
「あなたやっぱり何も知らないのね……。細かいことはいいわ。とにかくあなたは変身できるの。そしてモンスターを退治する。分かった?」
「全然分かんないけど、分かった!」
玄関の扉を開けると、いつもと何ら変わりない光景が広がっていた。まい子と誠次の靴が朝のまま一足ずつあり、写真立ての家族写真が外から漏れた光できらりと反射する。
「おかえり」
廊下の奥からまい子が歩いてきた。
「ママ!」
「おかえりくるみ」
「パパも!」
誠次が二階から下りてきた。くるみが足元にいるシュガーに視線を送る。シュガーは警戒して硬くなっていた。
「二人とも何ともない? 平気?」
「何言ってるの? 元気よー?」
「くるみ! その猫どうしたんだい。野良猫は家に入れないでよ」
誠次がシュガーを見て注意した。
「そうよ、汚いわぁ。返してきなさい?」
「くるみ、騙されないで。残念だけど、これはあなたの親御さんじゃないわ!」
シュガーが構わず人語を話す。
「うん、何か……変」
くるみは怯え、両親から一歩下がった。両親は動物が好きで、猫を邪険に扱ったことなど今まで一度もなかったからだ。
「くるみ、変身よ! これを受け取って、プロミネンスって叫ぶの!」
シュガーの顔の前に赤い炎のブローチが現れ、くるみの胸元に飛んだ。くるみはそれを右手で掴み「プロミネンス!」と言われた通り叫ぶ。手から眩い赤い光が溢れ出し、全身を包む。
「ぐぅぅ、眩しいっ!」
まい子と誠次はその光に怯み、目を覆った。くるみを包んだ温かい光は、くるみの体温とすぐさま溶け合い、着ていた制服をファイアーレッドの華やかな衣装に変えた。ブローチは胸元に装着され、右手には先端にルビーが輝く魔法の杖が現れた。
「す、すごい」
初めて着る煌びやかな衣装に、くるみは思わずスカートを揺らしてみせた。
「感心してる場合じゃないわよ! 相手の目が眩んでるうちにフレイムって叫んで、敵に杖を向けるの!」
「ふ、ふれいむ!」
ルビーが一瞬、きらりと光った。しかし何も起こらず、臭い煙が少し出た。
「もっと、気持ちを込めて!」
くるみは思い切り息を吸い込んで、杖を振る。
「フレイム!」
ルビーが光る。先端が熱くなり、火の玉が放たれた。
「嘘……」
シュガーはその攻撃を見て絶望した。今にも消えそうな小さな火の玉がひょろひょろと飛んでいき、敵前で消滅したのだ。
「くるぅぅみぃ、ナニシテるの」
まい子と誠次の姿をしたモンスターは、目から血を流していた。声は低くなり、爪は伸び、体の色も青ざめていった。
「どうしよう、どうしたらいいの!?」
くるみは変わり果てていく両親の姿にうろたえ、声を震わせた。
「仕方ないわ。応援を呼ぶからとにかく今は逃げて。あなたにはまだ死なれては困る」
くるみが玄関のドアに手をかけるが強く押しても開かない。
「開かない! どうなってるの?」
「敵の魔力で塞がれたのね。私がおとりになるから、とにかく敵の攻撃を避けることに集中して!」
「くるみぃ、ソノ猫、捨ててキナサァァァァイ」
モンスター二体がくるみに襲いかかろうとする。シュガーは高く飛び上がり、モンスターの顔を素早くひっかく。モンスターがおぞましい声を上げる。くるみはその間にしゃがみ込み、四つん這いで二体の隙間をかいくぐる。
「二階なら……」
くるみは立ち上がり階段を上り始める。窓やベランダから外に出られる可能性にかけた。
「ドコイクノォ」
モンスターたちは顔の前を飛ぶシュガーを叩き落とした。強烈な一撃にシュガーは弱ってうまく動けない。モンスターたちはシュガーには目もくれず、くるみを追いかけた。
「くるみ、逃げ切って……!」
くるみはベランダに出る掃き出し窓を開けようとするが、どうやっても開かない。モンスターたちの足音が迫る。廊下を走って自室へと駆け込む。カーテンを開けて、窓のロックを外そうとするがそれもうまくいかない。
「どうしよう……」
モンスターたちが西日の傾いた薄暗いくるみの部屋へゆっくり近づいてきた。
「くぅるぅミィ」
右手の杖を強く握る。
「もう一回……!」
やり方は分からなかった。しかし何となく両手で持ってみる。大きな炎をイメージする。深く呼吸する。モンスターたちが部屋に入ってきた。距離は三メートルほど。モンスターが正面を向いた瞬間。
「フレイム!」
くるみは二度目の魔法を放った。ルビーがまた熱く燃え上がる。さっきよりも大きな火球が生成され、先端から放たれた。
「ガァァ」
少しは勢いがあり、モンスター一匹に命中した。
「そんな……」
確かに命中したのだが、モンスターは小さなうなり声を上げただけだった。
「もう……無理だよ……」
足がすくんで、もう立てなかった。モンスターたちは手の届く位置まで迫った。目が潤んだ。くるみはうずくまる。そしてモンスターが鋭い爪を振り上げる。死を覚悟した。
「どりゃああああ!」
その時だった。どこか聞き覚えのある雄叫びが響き、薄暗い部屋に閃光が走る。
「グワァァァァァァ」
閃光はモンスター二体をまとめて両断した。モンスターたちは断末魔の叫びと共に崩れ落ちた。上半身がまだ床でうごめいていたが、やがて邪悪な光に包まれて消えていった。
「え……? ほたか?」
視界が開け、くるみは顔を上げて驚いた。ほたかはシャンパンゴールドの煌めく衣装に、電気をまとった太い剣を両手に構えていた。
「くるみ、大丈夫か?」
まるで勇者のようなほたかに、くるみは呆然とするばかりだった。
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