冷たくなりはじめた夜風が吹き抜ける中、私はパックさんへと告げる。
「パックさん」
「はい」
私の声に答える彼の佇まいは極めて落ち着いていた。
「場所を変えましょう」
「はい」
この人はいつも冷静だ。そして、礼儀正しく、相手を無理に威圧するところもない。まるで柳の木のようにたおやかなのだ。
その彼とともに野営陣から離れて星の光の下で佇む。互いに向かい合いながら会話は始まった。
私は落ち着いた声で問いかける。
「あなたにお聞きしたいことがあります」
「なんでしょう?」
「あなたの素性についてです」
その問いにパックさんの表情が引き締まった。だが、私は構わずに話を続けた。
「あなたの本来のお名前ですが――〝ハク〟または〝パク〟と言うお名前ですね?」
偽名というのは案外もともとの本名の面影をどことなく残しているものだ。まるっきりの違う名前だと呼ばれてもとっさの時に反応を忘れることがあるからだ。彼がフィッサール連邦出身と言うことも考慮して彼の地の母国語であるアデア公用語での考えられる名前を類推してみた。
「はい」
彼は素直に認めた。私はさらに問うた。
「そしてもう一つ。フィッサールから流れてきた〝密入国者〟ですね?」
流石にその質問にはすこし沈黙を守っていたが、それもすぐに言葉を吐いた。
「おっしゃるとおりです。私の本当の名は白王茯そして――」
本名を名乗り、一瞬息を呑む。
「私は密入国者です」
やはり――と思った。偽名でなければならない理由の一つはまずはそれだったのだ。だがまだ問うことがあった。
「あなたは偽名で職業傭兵をしていました。本名を秘していなければならない重要な事情がお有りなのだと推察しています。正直に答えてください。あなたは何者なのですか?」
偽名である理由――バレバレであれどフィッサールの東方人である事を秘さねばならない理由。彼が偽名である理由のもう一つがそれではないかと私は睨んでいた。
その疑念が彼にも伝わったのだろう。私からの視線に彼も諦めたようについに沈黙を破る。
「そこまで見破られているのであれば秘する必要もありません。すべてお答えします」
そして彼は、諦めたような寂しげな表情で告げる。
「私は〝逃亡奴隷〟です」
奴隷――その言葉が重く響く。それと同時に彼の中にあるどこでもいつでも落ち着いている佇まいのわけがわかったような気がした。
私は彼の言葉をじっと待った。
「私が生まれ育ったフィッサールでは身分制度が極めて厳格でした。特に奴隷として生まれ落ちた者は終生奴隷のままであり、身分から解放されるのは至難の業です――」
聞いたことがある。奴隷制はトルデネアス・ジジスティカン・フィッサールなどで存続しているが、それぞれに特色がある。ジジスティカンの奴隷制は強制労働の方便のようなもので元の身分に戻るのも難しくはない。トルデネアスは戦争で征服した異民族を一時的に割り当てる階級であり帝国内での功績によって平民になることも難しくはない。
だが――
フィッサール連邦の奴隷制は違う。彼の言う通り、奴隷は終生奴隷だ。言い換えれば言葉を話す家畜扱いなのだ。
彼の悲痛な過去が滔々と語られる。
「――そのため私は武術を目指し、その世界で功績を築き上げることを目指しました。その甲斐あって、フィッサールの4つの武術大会にて覇を極め、ついには最強の称号である【龍の男】の名を拝命するに至りました。ですが――」
そこで言葉が詰まった。彼の中で一番絶望的だった過去が思い起こされたのだ。私はその言葉の続きを代弁する。
「ですが身分解放は叶わなかったのですね?」
「はい――」
とうに通り過ぎた過去だとしても心の重荷であることは変わりない。
意気消沈しているパックさんの姿に、私はかつての自分自身――すなわちあの暴君な父の下でひたすら耐えていた自分自身の事を重ねずには居られなかった。
そして私も2年前に逃げ出した。彼が母国を捨てざるを得なかったその理由がわかったような気がするのだ。
「私はその事実に耐えられなくなり逃亡、方々をめぐり逃げ続け、ついには海を渡り、このオーソグラッド大陸へと渡ってきました」
「そして、〝この〟フェンデリオルにたどり着いたと」
「はい――、そこで私は、職業傭兵と言う世界では、真の名を隠したまま自分の技を使える事に気づきました。そして職業傭兵として職を得て今日に至っているのです」
そこで一つ疑問が湧く。
「では、医術の心得があるというのは?」
「フィッサールでは奴隷階級は通常の医師の診察を受けることができません。牛馬のように専門の医師にかかるか、自ら治すしか無い。それとて所有者である主人の胸三寸。そう言う境遇の中で少しでも多くの仲間たちの命を救うために必死に身に着けたものです」
それがフィッサールの奴隷の真実だった。人間を徹底的に家畜として扱っているのだ。彼が医学に対して真剣であることは至極当然だった。
「無論、すべて独学です」
その言葉に彼が周囲の目を盗みながら死にものぐるいで医を学び身につけただろうことは想像だにかたくない。その死にものぐるいの暗闘が伝わってくる。
これまでにどれだけの仲間たちの命が、彼の手の中からこぼれ落ちていっただろう?
これまでにどれだけの同胞たちの命が、理不尽に失われていっただろう?
彼が、メルト村で初めて薬の行商をし、そして子供の風邪を治療した際の真剣さのその理由がわかるような気がしたのだ。
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