――夢を見ていた――
夜に紛れた出発後に危機的状況が私たちの前に立ちはだかった。
でも私はそれを自らの力で乗り越えてみせた。その時の光景だった。
この国の首都、中央都市オルレア、その夜の道を一台の馬車が行く。
馬車は夜回りの警備をする官憲たちに停止を命じられていた。
「何事だ?」
馭者が焦りをにじませて答える。
「正規軍の軍警察です。停止を命じています」
それは起こってはならない事態だった。
「まずいな」
「いかがなさいますか?」
「どこの所属の者だ?」
「おそらく夜間の巡回警備部隊かと」
夜の出奔が失敗に終わる不安にかられた。同乗していたお爺様も懸念を隠せなかった。でも私は自ら彼らと交渉する決意を固めた。
「隊員たちの歳の頃は?」
「年齢ですか? 18から20かと」
隊員たちの年齢から考えて軍学校を卒業して初配属されて間もない頃だ。
私はそこに一縷の望みをかけた。
「私が行きます」
「な? 何を考えている?」
お爺様が驚きの声を上げる。当然だ夜に紛れて旅立とうという人間が自分から警備隊員たちと対話しようというのだ。
「ご心配なく。勝算はあります」
私は周囲の不安を押し留めて、馭者の補助受けながら路上へと降りていく。
外へと出るなり私は告げた。
「皆様、夜のお勤めご苦労様です」
努めて冷静さを装って落ち着き払って挨拶をする。
3人ほどの若い警備隊員たちが並んでいる。夜回り警備は数人を単位として動いている。おそらくはこの他に最低1人は責任者がいるだろう。
まずはこの人たちを鎮めなければならない。
「上級候族の御用馬車だと分かっていたがまさか」
「モーデンハイム家?」
「お前だったのか?」
驚く体の声に焦ることなく落ち着き払って答えた。
「お久しぶりです諸先輩方。軍学校以来ですね。昨年のご卒業以後、軍警察部隊に配備されたとお聞きしていましたのでもしやと思いまして」
狼狽一つしない私に戸惑いを覚えている彼らだったが、やはりその疑念は払拭できない。3人の中の一人が強く問いかけてくる。
「軍学校で俺達と共に学んで、優秀な成績で飛び級で卒業までしたと言うのにこんな夜更けにどうしたというんだ?」
さらにもう一人が尋ねてくる。
「その服装、旅支度だな?」
「どこ行くつもりだ?」
彼は声を荒げるようなことはなかった。ただ心のこもった声で私の身を心から案じてくれている。
一人一人の顔を見るたびに学舎でお世話になった時のことを思い出さずにはいられない。
牙剣や戦杖を使っての白兵戦闘訓練で、体格が小さく不利な私を根気よく基礎から教えてくれた先輩、
重い荷物を背負っての行軍訓練で山の中で挫けそうになった時に、陽気に話しかけてきて何度も励ましてくれた先輩、
規律に厳しく風紀検査の時に何度も怒鳴られた。でもそのおかげで自分の心の中に残っていた甘えを取り除いてくれた先輩、
旅立つ理由を教えるべきだ、そうわかってはいるのだがどうしても言葉が出てこなかった。私の身の上の揉め事に巻き込んでしまいそうな気がしたからだ。
「どうかお察しください」
そう答えるのがやっとだったのだ。
戸惑いの空気は晴れない。とても私を開放してくれるような空気ではない。だがその時だ。
「落ち着けお前たち」
聞き慣れた声がする。
「少尉?」
「エルセイ隊長」
エルセイ、その名前に聞き覚えがあった。
20代前半の経験を重ねた優秀そうだ若年士官、彼らの上官だ。
「エルセイ先輩?」
私の記憶の中にあるその名前を呼べば彼はにこやかに微笑んで私に答えてくれた。
「久しぶりだな」
「はい」
隊員の3人はエルセイ先輩に場を譲って後ろにさがる。それと入れ替わるように先輩は私に問いかけてくる。
「今年、卒業資格を得たそうだな」
「はい」
「配属が決まったのか?」
私は言葉で答えることができなかった。俯いたまま顔を左右に振った。視線を合わせることができないまま自分の現状を伝えた。
「配属は未決定です。そのまま予備役扱いとなり軍本部から特別の採決あるまで自宅待機となります」
私の語る言葉に驚きが広がった。
「なんだって?」
「ありえない。飛び級でしかも首席で卒業したお前だぞ?」
「静まれ」
エルセイ先輩はざわめきを封じる。だが代わりに先輩が私に尋ねてきた。
「どういうことだ? お前なら軍の中央本部でそのまま採用されることだってありえたはずだ? 何があった?」
私は覚悟を決めて事実を伝えることにした。
「私は、正規軍に採用されることなく実家当主の直令により婚姻することが決定いたしました。その際において私の意思は一切考慮されておりません」
あまりにもありえない事実に誰もが言葉を失っていた。
「おそらくは私の父の意向が働いているはずです。1年前自ら命を絶った私の兄の代わりに婿を取らせるつもりでしょう」
私の語る言葉にエルセイ先輩は悲痛な表情で問いかけてきた。
「お前はそれに納得できるのか?」
彼らは求めている。私が本心を語ることを。どうして今このような状況にあるのか? その理由を。
私は語る。事実の全てを。静寂の中で坦々とした私の声が響いた。
「私の父は暴君そのものでした。巨大な権力を持つ上級侯族の当主と言うのは絶対的な存在です。たとえ家族であったとしても逆らうことは許されません。それは皆様もよくご承知のことだと思います」
誰も否定せず、ただ静かにうなずいている。
「普通なら当主でありつつも人の親としてそれぞれを使い分けながらも子を思い慈しむ。上級侯族の親とはそう言う存在のはず。ですが、私の父は違いました」
私の声は震えていた。そこににじみ出る苦痛は目の前の彼らに伝わっていた。
「父にとってすべてが自分の栄誉と立身出世のための道具。娘である私も、息子である亡き兄も、ただただ父の傲慢にひたすら耐える毎日。そんな私たち兄妹が自分自身を開放して胸を張って暮らせた場所こそが〝軍学校〟だったんです」
先輩たちの一人が言う。
「それは知っている。お前が休暇の時にも実家に帰らないのは分かっていた」
私は言葉を続けた。
「学業と訓練に邁進する毎日。それは私が私である事を許された貴重な時間でした。だからこそ軍学校を卒業した後も祖国の正規軍に身を置き、軍人として身を立てようと思っていたんです」
それが私のささやかな願いだった。だが悲劇は起きた。
「兄も私と同じ様に正規軍人を目指していました。ですが軍学校の卒業を控えたある日のことです」
私はそっと顔を上げると、皆の顔を見つめながら語る。そして、ついに訪れてしまった惨劇を滔々と口にした。
「あの血も涙もない暴君は兄を無理矢理に軍学校から除籍させました! そして実家へと連れ戻したんです。自分の従者として連れ歩くために! 自らの傀儡とするために! 酷使するために! その現実に耐えられなかった兄はついに心と精神を病みました。そしてついには――」
私の声は震えていた。言葉が出ない、喉から絞り出せない。その先に何があったのか? 語らねばならないが、どうしても声にできなかった。
エルセイ先輩が事実を察して言う。
「後継者を失ったお前の父上君は、その埋め合わせをお前に求めたんだな? 婿取りをさせて、その結婚相手を意のままに手懐けることで」
「その通りです。私に〝人生の全て〟を諦めさせて!」
固く固く握りしめられた私の両手には、耐え難いほどの心の痛みが現れている。
「今回の事態の裏工作は父が講じました。私を軍学校から無理矢理に連れ帰れば兄の二の舞となる。それを避けるため、私の夫候補を密かに用意し、私の正規軍への配属辞令を徹底して潰しました」
それは狡猾そのもの。親としての情は微塵もない。
「婚姻を拒否をすれば私には生きる場所はなくなる。逃げようにも軍関係者にも学業関係者にもすでに圧力がかかっていました。誰が見ても言う通りにするより他はないでしょう」
語られた残酷な事実に誰もが言葉を失っていた。
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