そして――
その傍らにて佇んでいたのがバロンさんだった。
彼がもっとも重い過去を背負っていることはよく分かっていた。軍務で離れている間に不倫を働いた妻の殺害――、とてつもなく重い十字架だった。
「バロンさん。あなたにもお話させていただきたいことがあります」
「――」
彼は無言のまま答えない。しかし、私の目をじっと見つめ返しているのはわかる。話を聞いてくれる余地はある。
「あなたの亡き奥様のことについてです」
その言葉が聞こえたとき、彼は一瞬、天を仰ぐように目を背ける。だが自分自身を諭すように見つめ返してくる。
「はい――」
「あなたはご自身の罪の本質をご理解してらっしゃいますか?」
「――」
口数少ないバロンさんの人柄そのままに疑問を感じたまま沈黙している。わたしは構わずに言葉を続けた。
「あなたが軍務に奔走しているあいだに起きた事件については私も聞いております。あなた自身が背負った罪のことも――」
ゆっくりと諭すように言葉を続ける。
「私は今回の任務に付く前に、あなたが犯した事件について調べさせていただきました。ギルド長に無理を言って資料を開示して頂いたんです。通常は非開示となる部分まで。そして事件の詳細について読み進めていくうちにあなたが一つだけ〝心得ちがい〟をしている事に気づいたんです」
私が問いかけたその言葉に、バロンさんの口から思わず言葉がこぼれだした。
「え?」
その声は心を開き始めた証拠だ。その事を察して私は続けた。
「夫が軍務に服従して出征しているときは奥様方は独り身です。夫の帰りを不安をいだきながらひたすら耐えて待ちわびています」
それが現実だ。今も昔も変わらない――、悲しい現実だ。
「その寂しさに耐えながらひたすら待っているんです。それは私自身が女だからこそ、その思いがよく分かるんです。もしかすると帰ってこないかもしれない。そう思いつつもきっと帰ってくると信じるしかありません。でも――その心の隙に付け入ろうとするダニのような連中が居たといいます」
コレも現実。残酷で悪辣な現実だ。世の中は聖人君子だけではないのだから。
「これは私が軍学校時代に憲兵部の知人から聞き及んでいた話なのですが、当時、正規軍人の細君をターゲットとして、詐欺や高利貸、麻薬密売や、悪質な愛人行為などが横行していたそうなんです。憲兵部や保安部でも重篤な被害が出る前に対処を急いでいたそうなんですが――」
その時、バロンさんの口から言葉が漏れた。
「間に合わなかった――」
私は強くうなずく。
「あなたが死罪にならず特赦が与えられたのも、そうした軍側が責任を痛切に感じていたことの表れです。そしてもう一つ――、奥さんは死の直前まで謝っていませんでしたか?」
それはあまりに辛い質問だったかもしれない。だが、彼の心の中の闇を解きほぐすには真実を突き詰めるしか無いのだ。
バロンさんは蒼白な表情でうつむいている。敢えて秘していた過去に向かい合うように。
私はさらに畳み掛けるように尋ねる。
「罠にはめられた奥様がたは、悪いことだと分かっていながらも成す術なく深みに嵌っていきました。心のなかに大きな罪悪感を抱えながら。そして、多くの自害者を出してしまったといいます。あなたの奥様もそうだったのでは無いのですか?」
バロンさんへと一歩近づきながら私は告げた。
「あなたが成すべきは絶望の底に逃げるのではなく――亡き奥様の咎を責めるのでもなく――あなたの奥様があなたの背中に見た理想と願いを成し遂げることだと思います」
そして私は最後の言葉を告げた。彼の心の鍵を開けるかのように――
「あなたの奥様は、あなたに何を望んでらっしゃいましたか?」
それは残酷な一言だったかもしれない。彼は自らの胸元を握りしめていた。その表情は苦しそうで――
「妻は――アレウラは――」
バロンさんの頬を涙が伝う。
「名も無き人々のために戦う私の姿が誇りだと――
その姿を見守り支えるのが私の役目だと――
私はその言葉を信じていた――
あの時の光景でそれを裏切られたと――
だがアレウラは許しを請うのではなくひたすら侘びていた。抵抗することなく甘んじて私の刃を――」
そこから先は声にならなかった。両膝から崩れ落ちるバロンさんに、私はそっと歩み寄り両膝をついて彼の震える肩に手を添えた。
「奥様は解放されたかったのだと思います。引き返せない過ちを犯したことも分かっていた。だからこそあなたに裁かれた」
両腕を彼の頭をまわしてそっと抱きしめた。
「すべてはもう終わっています。あなたはあなた自身をもうお赦しになるべきです。そして、あなたの奥様が誇りに思っていたという〝名も無き人々のために戦う姿〟を示し続けるべきだと思います」
私の胸の中でバロンさんが頷いている。
「前を向いて、明日を見つめて――〝戦って〟いただけますか?」
自然に私の腕の中から出て行くとすっく立ち上がり、彼はしっかりと私を見つめていた。
「誓います。私自身の良心と、私を一切責めなかった亡き妻のためにも」
その言葉には一片の曇りない。そこにあるのは重く掛けてしまった心の鍵をやっと外して、本心を解き放った者の姿だ。私は彼に感謝を述べる。
「ありがとうございます――」
なぜなら、自分自身から逃げることなく前へ進むことを諦めなかったからだ。
心の闇を振り払い、壁を乗り越えた二人に私は告げた。
「明日はお二人の働きが重要な意味を持ちます。武功を挙げることを期待いたします」
「はっ!」
元正規軍人らしく敬礼で答える二人。そこには心の澱みは一片もない。
彼らなら戦列の要になってくれるはずだ。今なら分かるのだ。
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