――夢を見ていた――
夜の闇に紛れて私は故郷を離れた。街外れの郊外の人家の少なくなった街道沿いに私は来ていた。
ここから先は一人で歩いて行かねばならないのだから。
馬車から降りようとする時、ふと目に入ったものがある。座席の背もたれの上ほどに、とある紋章が飾られている。
――人民のために戦杖を掲げる男女神の紋章像――
金の女神と銀の男神がミスリル銀の杖状の一本の武具を左右から支えている構図で、私の実家の家系を象徴するシンボルだった。
「どうした?」
紋章を見つめる私にお爺様が尋ねてくる。
「この紋章が気になるのか?」
私は静かに答える。
「はい。この紋章、改めて見ると、とても愛おしそうに男女の神様が助け合っているように見えます」
それは男女和合と共存繁栄を意味しているのだと聞かされた事があった。
私の言葉にお爺様は私を慰めるようにこう答えてくれた。
「すまないな。お前に一番縁遠いものになってしまった。お前の兄のこと、お前自身のこと、前当主として私にも責任がある」
私は顔を左右に振った。
「いいえ、お爺様が悪いわけではありません。こうして旅立ちを見送って頂けるのですから」
馬車の扉が馭者によって開けられ、お爺様が先に降り、次が私。一つ一つ足取りを確かめるように馬車から降りていく。
その道のりはまだ夜の闇に沈み、星明かりだけが頼りと言う心細さだ。
だがそれを打ち消し勇気を与えるように、私の脳裏には、かつて学び舎の恩師の言葉が脳裏をよぎっていた。
【人は時には運命に抗い、家畜のように飼いならされる安寧よりも、命がけで荒野で狩りをするような狼の如き道のりを往く事も必要だ】
そうだ。それが今このときなのだから。その眼前を遥かに伸びていく道のりの先を見つめながら私はつぶやいた。
「私は家畜にはならない」
つぶやきは夜の闇へと静かに響く。
「卵を産むことだけを求められる鶏のような生き方は選ばない。たとえ飢えてやせ衰えても、自らの意思で荒野を歩む狼の生き方を掴み取る」
そうだ。まさにそのために、この場所に立っているのだから。
でも――
今一度、最期に一度だけ、過去を振り返る。そこには佇むのは最愛のお爺様だ。
「お爺様」
「なんだね?」
「お母様にも、くれぐれもお詫び申し上げてください」
伏し目がちに語る私の頭をお爺様はそっと撫でてくれた。
「気に病むな。これは致し方ない事だ。私も2度目の悲劇は御免だ」
2度目の悲劇、その意味が痛いほどにわかる。
「お前はお前の道を行きなさい。お前ならきっと自分だけの道を切り開けるはずだ」
「はい」
私は静かに笑みを浮かべてお爺様へと頷いたのだった。その時だ。
「お前に渡すものがある」
お爺様は布地にくるまれた棒状の物を私へと差し出してくる。
「これを持ってお行きなさい。不憫なお前へのせめてもの手向けだ」
それは私の腕一本分くらいの長さがあり、なかなかに大きいものだ。恐る恐るそれを受け取る。
「ありがとうございます」
礼を述べて包みの中を確かめる。だが、そこから出てきた物に私は驚きを隠せなかった。
「こ、これは?」
私は言葉をつまらせた。それは明らかにこの場にあってはならないものだったからだ。
「よろしいのですか?!」
目をむいて驚く私にお爺様は柔和にほほえみながら答えた。
「言ったであろう? お前への手向けだと」
「しかしこれは一族の家宝では?」
私の口から思わず反論が飛び出る。だがその声を強い言葉で遮ったのはほかならぬお爺様だった。
「なにが家宝だ! 二人しかおらぬ子供を幸せにできぬ御家の家宝などなんの意味があろうか!」
それはお爺様の胸中にあった憤りその物にほかならない。私がそれを受け取る事に戸惑いを見せる中で、お爺様は強い力でしっかりと〝家宝〟を私に握らせた。そこには何よりも強い暖かさがあったのだ。
「これはお前が持つべき物だ」
それは家宝、祖先から代々継承される武具。
――戦杖【地母神の御柱】――
大地の精霊の力を自在に操れる強力な精霊武術具だ。
希少な家宝を受け取ると言う後ろめたさはすぐに消え去り、感謝の念が胸の中を満たしていく。
「確かに地母神の御柱、拝領いたしました」
お爺様はさらにもう一つのアイテムを差し出した。
「それからこれも持ってお行きなさい」
それはコインの大きさほどの陶器製の卵型のペンダントだ。淡い薄緑色をしていて月明かりの下でもその輝きは絶えることはない。
星明かりに輝くそれをお爺様は私にかけてくれた。
「良いかね? お前がもし抜き差しならぬ窮地に立たされたのなら、そのペンダントの〝中身〟を使いなさい。きっと、お前を救ってくれるはずだ」
首にかけられたそれを、私はしっかりと握りしめる。自然に感謝の言葉が溢れ出た。
「ありがとうございます。お爺様」
ペンダントを着衣の中へと隠しながら託された戦杖を手にする。 私は別れの言葉を口にした。
「お爺様、数々のご厚情、本当にありがとうございました。それではこれにて出立させていただきます」
いよいよ、永の別れのときだ。
「達者でな」
私を見送るお爺様の声はどこか寂しそうだ。それに対して詫びる気持ちを堪えながら私は応えた。
「お爺様も、幾久しくお元気で」
そう言い残し、軽く会釈をして身をひるがえして、まだ見ぬ土地へと歩きだす。
その時だ――
私たちの頭上を覆っていた黒雲が左右に割れる。溢れんばかりの月明かりが降り注ぎ夜道を照らす。闇に隠れていた旅路の行き先を顕にしながら。
「天もお前の旅立ちを祝福するか」
お爺様が漏れるが、私は振り返らなかった。確かな足取りで闇夜の中の旅路をひたすらに歩いていく。
私は国を代表する上流階級の高家の一つの当主息女だ。
だがその身分も今宵まで。理不尽なしがらみとともに、家を捨て、家族を捨てた。そして、不確かな未来とともに、限りない自由を手に入れた。
月明かりの下の旅立ちの時のあの光景が、鮮明に浮かび上がってくる。
私の人生の最大の分岐点となったあの日のことを。
――私は夢を見ていた――
――私は夢を見ていた――
――私は夢を見ていた――
長い夢を、長い長い夢を、そしてそれは目を覚ましても色濃く記憶の中に残っていたのだった。
† † †
「ん……」
私は少しずつ目を覚ます。夢の中から現実へと戻ってくるとゆっくりとその瞼を開いた。
左腕に傷の痛みを感じながら目を覚ませば、私は大きく息を吸い込むとそれをゆっくり吐き戻した。
「ふぅ――」
その時傍らから声がする。
「お? 目を覚ましたか?」
「え?」
声のした方に視線を向ければそこに腰を下ろしていたのはプロアだった。
「プロア?」
「おう」
視線が合えば彼は笑いかけてくれた。
「途中でテラメノさんと交代したんだ」
「そうなんだ」
「ああ、ずっと寝ずの番というのも悪いと思ったからさ」
「うん、そうだね」
私もゆっくりと体を起こす。想像以上に汗をかいていたのがよく分かる。彼が清潔な布で私の額の汗を拭いてくれる。
その際に彼はこう言った。
「随分とうなされてたな」
「えっ?」
「夢見が悪かったのか? かなり辛そうだったぞ」
そう語りかけてくる彼の顔はとても真剣に私のことを心配してくれているようだった。
何を聞かれたのか少し怖かったが、そこは敢えて問い返さなかった。
私は答える。
「うん、ちょっと昔のことを夢に見たの。辛かったこと色々とね」
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫。もう終わったことだから」
「そうか」
彼は言う。私の肩に手を置くと私を寝かせながら。
「もう少し寝てろ。日が昇るまでまだ時間がある」
「うん。そうする」
私は素直に言うことを聞くことにした。再び体を横たえれば睡魔が襲ってくる。
「ごめんね。手間かけさせちゃって」
「気にするな」
彼は私の頭にそっと手を触れて撫でてくれる。
「おやすみ」
「うん、おやすみなさい」
プロアが見守る中で私はもう一度眠りに着いた。
今度は昔のことを夢に見るようなことはなかった。
私はゆっくりとその疲れを癒したのだった。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!