――夢を見ていた――
私は燃え盛る暖炉の前に佇んでいた。
私は衣装部屋《ドレッサールーム》に居た。
そこには、私自身に降り掛かった苦しみがあった。
すなわち〝婚礼衣装〟だ。
純白のロングドレス、シュミーズドレススタイルで襟が首筋までを覆うハイネックが特徴的だった。
さらには頭頂からつまさきまで包み込むようなロングベール、純白のシルク地の上には光り輝くビジューが散りばめられている。それが部屋の中央にこれみよがしに飾られていた。
本当ならば喜びともに身につけるはずの婚礼衣装を、忌々しげに見つめながらスタンドから外す。そして、それを部屋の隅の暖炉へと運ぶと投げ込んだ。
さらにオイルランプも一緒に投げ込めば、オイルランプの油と炎で婚礼衣装は真紅に燃え上がった。
――ヴォッ――
シルク地の婚礼衣装はよく燃えた。
部屋の片隅にある姿見の大鏡に私の姿が浮かび上がる。
厚手の丈夫なワンピースのスカートジャケットに、ハーフ丈のフード付きマントコート。
足元はロングタイツにショートブーツ履き。さらに襟元にはスカーフを巻き、肩には大柄なショルダーバッグが斜めに下げられている。できるだけ庶民的な服装を心がけた。
銀色の長い髪の私が鏡の向こうから自分自身をじっと見つめていた。不安に憂いを帯びていたはずの翠色の瞳は、自分自身の姿を見つめているうちにその眦に力を取り戻していた。
自ら焼き捨てた婚礼衣装の炎を前にこれからは一人で生きていくと決意を秘めていた。自分の力で前に進むのだと。
――夢を見ていた――
自ら命を絶ってしまったお兄様の部屋で私は別れの言葉を口にする。
お兄様の部屋の中には、生前を偲ぶ思い出になるようなものはすでに何もなく肖像画だけが遺影のように飾られている。それに向けて私は告げる。
「お兄様、私は、お兄様の分も自分の意志で生きようと思います」
ただただ薄幸だった愛するお兄様の思い出をじっと記憶の中だけで噛み締めるしかできない。でもその時確かにはっきりと聞こえた。
――行くがいい、お前の望むままに――
「ありがとうございます、お兄様」
私は今生の別れとして一礼をする。
そして部屋の扉を静かに締めると、そこから立ち去ったのだ。
――夢を見ていた――
【 お母上様へ 】
そう記された封筒を私は手にしていた。
封筒は蜜蝋で封印されている。それを自分の机の上にそっと置く。この出立が私自身の意志によるものだと証明するためのものだ。
そして私は周囲を見回す。
5歳のときに与えられた私室、それから10年、私をはぐくみ育ててくれた大切な場所だった。
「今までありがとう」
天蓋付きのベッド、
幾段もの引き出し付きの机、
友と語らったテーブルと椅子、
物憂い時に何度も夜空を眺めたバルコニー、
その全てに思い出が詰まっているが持っていくことはできない。
意を決して立ち上がりオイルランプを手に部屋から出て行く。
ここへは帰らないだろうと決意して。
――夢を見ていた――
私は館の中から裏手から外へ出るための薄暗い通路を一人歩いていた。私の前に立ちはだかるように人影が現れた。
「お嬢様」
私を待っていたその言葉に応え返す。
「セルテス?」
燕尾服にルタンゴトコート姿の執事、私のお爺様の側近秘書をする人物だ。名前はセルテス、
彼は私が小さい頃からずっと私を頼もしく見守ってくれていた。幼い私のわがままにも穏やかな笑みで受け入れてくれた。今もまた、昔と変わらぬ穏やかな笑みで彼はたたずんでいる。
彼は私に告げる。
「旦那様はまだご婚礼先との会合の最中です。先程、先方の屋敷の従僕がそのまま先方に宿泊なされるとご伝言を承りました」
旦那様とは、私の父のことだ。
「〝あの人〟は今回の政略結婚がうまくっているものと機嫌を良くしています」
「お嬢様。今が好機です。お急ぎください」
セルテスは私を準備の終わっていた2頭立てのブルーム馬車へと案内してくれる。そこでは馭者が発車の準備をしていた。
私は馬車へと乗り込もうとする。だが、そこには想定外の人物が私を待っていた。
「来たか、エライア」
「お爺様?!」
それはほかならぬ私のお爺様だった。
黒いズボンにロングテールコートに、更にその上にロング丈のルタンゴトコートを重ねている。襟元にはクラバットではなく濃紺のスカーフ、手には上流階級としての嗜みである黒檀の杖が握られていた。
真夜中の出奔と言う行為にお爺様から叱責が飛んでくるのを恐れた。だが、お爺様は荒ぶること無く穏やかに落ち着き払っている。お爺様は私へとうながす。
「座りなさい。周りに気づかれる前に出るぞ」
「はい」
お爺様の言葉は私に勇気を与えてくれた。お爺様は私の旅立ちを手助けしてくれるつもりなのだ。
安心して祖父の隣へと腰を下ろし窓を開け、敬愛するセルテスへ別れを告げた。
「今までありがとう」
彼との思い出が湯水のように湧いてくる。
幼い頃からの無理の言い通しだった。
学問の進路について不安と悩みを聞いてもらったこともあった。
あの人が私の飼っていた子猫を勝手に捨ててしまった時も私の気の済むまで慰めてくれた。
愛する兄を失ったとき、私の深い悲しみを一番に受け止めてくれたのも彼。
彼は私の全てを甘んじて受け入れて支えてくれた人なのだ。
泣きたくなるのをこらえながら私は震える声で告げる。
「ごめんなさい、勝手なことをして」
彼とて私の〝出奔〟に加担したとなればただでは済まないだろう。現当主である父からどんな叱責を受けるやも知れないのだ。だがセルテスはそれを承知の上で協力してくれているのだ。
彼の覚悟に満ちた力強い声が聞こえていた。
「お嬢様、ご心配は無用です。あとのことは全てこの私、セルテスめにお任せください」
それが彼の答えのすべて。何があっても彼は私の味方なのだ。セルテスは笑顔で別れを告げた。
「いつかまたお会いしましょう。それまで、幾久しくお元気で」
その言葉が終わると同時に馬車は静かに走り出す。
窓越しに館の方を見つめれば、セルテスはいつまでも私を見守ってくれていたのだった。
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