ポール少年は天使の小羽根亭を出てから、街中の様々な場所を巡って新聞を配り歩いた。そして彼が次にたどり着いたのは傭兵ギルドのブレンデッド支部の詰所だった。
時刻は4時過ぎ。仕事探しをする傭兵の姿はまばらで、事務手続きを目当てとしたものたちが少しばかりいる程度だった。
受付カウンターの事務員たちも静かな声で談笑に興じている。
「号外です!」
そんな中、姿を現した新聞配達のポール少年に人々の視線が集まる。
「あらポール? 号外って?」
「もしかしてアレ?」
受付の女性事務員たちはそれに噂の入り口を掴み始めていた。
「例の西方国境のやつでしょ?」
「うん。中身はとりあえず読んでみてよ」
ポールは敢えて記事の中身には触れなかった。意識的と言うより、自分が大変世話になった恩人のことが書かれているために自分の口から言葉にするのがはばかられたのだ。
ポールに促されて、彼女達は記事に目を走らせる。
「えっ?」
「なんで?」
彼女たちの口から出てきたのは驚きの声だけだった。彼女たちとて、たくさんの職業傭兵たちを相手に傭兵ギルドの仕事を続けてきた。時と場合によっては他人の人生の重要な局面に何度も触れてきた。
ただそれだけの経験をもってしても、その記事に書かれていた事実は理解しがたいものだったのだ。
「なんでルストちゃんが指揮官をやってるの?」
「彼女、2級傭兵だよね?」
「うん。せいぜいできて小隊長がいいところよ?」
「どういうこと?」
それは一般的な職業傭兵の常識からしてもありえないことだったのだ。
その時だ、彼女達の背後から声がした。
「どうした」
声と同時に聞こえてきたのは杖で床を連続的に突く音だ。声の主はワイアルド・リース、この傭兵ギルド・ブレンデッド支部の支部長を務める男だ。
「支部長」
「これ見てください」
「なんだ?」
女性事務員たちから渡されたそれを見て、ワイアルドの表情は瞬く間に険しいものとなった。
「ルスト――」
驚きというより〝驚愕〟と言う言葉の方が適切だろう。
「ルストちゃんが西方国境の防衛戦で指揮官をしているんです」
「こんなことありえるんですか?」
常識から言えば、無論ありえない。ありえないからこそワイアルドは答えを言葉にできなかった。言葉にしてしまえば彼自らの口で傭兵の常識をひっくり返してしまうことになるからだ。
少しの沈黙を後にしてギルド詰所の中に居る者たち全員に告げた。
「諸君、すまないがこの号外記事はギルド詰所には持ち込まないでくれ。話題にするのも禁止にさせてもらう」
「支部長」
驚きはありつつも反論や批判はなかった。この記事の異常性に少なからず気付いていたからだ。
「いずれ騒ぎにはなるだろうが、傭兵ギルドの総本部が納得のいく答えを導き出すはずだ」
ワイアルドのその宣言に詰所に居合わせた職業傭兵たちはポールが配った号外新聞を自ら回収し始めた。そして一枚残らずポールと返したのだ。
「悪いな。傭兵にもあえて口を噤まないといけない事もあるんだ」
「少なくともこの界隈ではそれは勘弁してくれ」
「ルストの事が大切だと思うのならな」
複雑な表情を浮かべていたポールだったが、傭兵たちの対応がルストの事を思ってのことだというのは痛いことに分かっていた。
彼はただ一言答えた。
「わかりました」
そう述べてから軽く一礼してギルド詰所から去っていく。それが大人の事情と言うものだと学びながら。
ワイアルド支部長がポールの背中に向けてぽつりと漏らした。
「すまんな」
そしてワイアルドは詰所の人々に向けて言う。
「支部長室にはしばらく誰も入れないでくれ」
そう言い残してワイアルドは自らの仕事場である支部長室に入っていく。
そして彼専用の事務机の席へと腰を下ろすと、背もたれに寄りかかり大きくため息をついた。
そして懐に1枚だけ忍ばせておいたあの号外新聞を取り出して眺めた。
しばらくの沈黙の後にワイアルドは重い気持ちを絞り出すように言葉を吐いた。
「何をやっているんだ、ルスト!」
その言葉の後にさらに背もたれに寄りかかると天井を仰いで両手で顔を覆った。
「お前がモーデンハイムの家を離れ別人の名前を手に入れてまで、傭兵の世界に足を踏み入れたのは何のためだ!」
それは言外にワイアルド自身がルストの正体を既に知っているということにほかならなかった。
そして彼は意外な言葉を吐いた。
「まったく、ユーダイムの親父と本当にそっくりだ! 自分のことを後回しにしてまで他人に救いの手を差し伸べようとする! たとえ傷だらけになってもだ! なぜそこまでして自分を犠牲にする!」
そして硬く握り締めた右手で机を強く叩いた。しかし、どんなに苛立っても起きてしまった事態は決して変わらない。ルストが国境線防衛のために指揮官役を務めたという事実はもはや変わることがない。
「分かっているのか? ルスト! いやエライア! お前が名前を上げてその存在が知れ渡ることで、お前のあの父親がお前を連れ戻そうとするかもしれんのだぞ!」
そしてその事実はルストにとってもはや選択の余地のない事態を引き起こすかもしれないということを意味していた。
「お前の兄、マルフォスを死に至らしめたあの男がだぞ! それでもいいのか!」
それはワイアルドがルストのことを思い、必死になって今日まで彼女を陰ながらに守り抜いてきたがゆえの言葉だった。
ワイアルドはこれまでの日々に思いを巡らす。エライアが別人の名前を手に入れてルストとして暮らしてきた中で身バレしそうな危険な状況は行く度もあった。その度にワイアルドが裏から手を回して追求から守ってやってきたのだ。
ワイアルドは机の鍵付きの引き出しを開けるとその中から一枚の白黒の写真を取り出した。
そこに写っていたのはとある候族の一家の写真。
壮年の父と母、その息子である二人の兄弟、兄と思わしき方には妻が居り、その妻の腕の中には生まれたばかりの女の子の赤子、足下には2歳か3歳程度の男の子の姿があった。7人が並んだ記念写真。傷んではいるが大切にされていたことはよくわかる。
おそらくは赤子の誕生記念だろう。
だが二人兄弟のうちの兄の方はその顔は塗りつぶされていた。まるでそこにいることが罪であるかのように。
「写真を撮ってすぐだったな、俺があそこと縁を切ったのは」
思い懐かしむ過去の中には、喜びもあれば苦しみもある。そしてぬぐい去りきれない苦い思い出もあるがゆえに彼は自らの家族と縁を切ったのだ。
「ユーダイムの親父なら最悪の事態は回避してくれるとは思うが……」
その写真に視線を向けているうちにワイアルドの表情は焦りや苛立ちは消え失せて、真剣な表情へと変わっていった。
そして何かを覚悟したような表情となった。
「よし」
力強くそしてシンプルに彼は呟く。
「エライア、お前はお前の覚悟で今回の戦いの指揮をとったはずだ。ならばその覚悟の結果、お前に降りかかる現実から守ってやるのが〝叔父〟である俺の役目だ」
無論、ルストはワイアルドとの本当のつながりを一切知らない。そしてこれからもワイアルドが真実を告げることもないだろう。
そして、その写真を再び鍵付きの引き出しに仕舞うと杖を頼りに立ち上がる。
「まずはギルド総本部と話し合いだ。その後にユーダイムの親父とあたりをとらないとな……」
そう言葉を漏らしつつ執務室から出て行く。ワイアルドはルストとの秘密のつながりをこれまで通り秘したまま動き出したのである。
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