〝黒猫〟が黒い革製のハイヒールを鳴らしながら歩いてくる。その姿にモルカッツは答えた。
「あぁ、おかげさまでな」
「そう。それにしても」
黒猫は周囲に視線を投げかけながら言葉をこぼす。
「趣味悪いわね」
冷ややかに告げられるその言葉はモルカッツの腹を刺激したようだ。
「悪かったな下品な好色漢で」
それは自分自身への周囲の目線を解っているかのような言葉だった。だが黒猫はたしなめるように告げた。
「ふふ、違うわよ」
フードを払いショールを脱ぎ、黒地に紫のラメの散りばめられたナイトドレス姿になると香水の薫りを漂わせながらモルカッツへと歩み寄る。
「女の趣味が悪いって言ってるの」
コケティッシュに小首をかしげながら笑みを浮かべれば黒猫の漆黒の黒髪が優雅に揺れていた。
「こんな乳臭い女性士官をはべらすより二人きりで飲まない?」
黒髪の言葉は女性秘書官たちに対してある種の優越感をにじませていた。そしてその意味をモルカッツも解っていた。
「それもそうだな」
不意に機嫌を良くしたモルカッツは秘書官たちに告げた。
「おい! お前ら行っていいぞ」
あれだけ無理強いをしたのに気が変わればさっさと追い払う。モルカッツと言う男の品性がうかがい知れる。退室していく女性秘書官たちだったが、不愉快ながらもホッとする表情を浮かべていた。
そして女性秘書官たちが姿を消したのを確認すると、モルカッツは声を潜めて話し始める。
「それで? 何のようだ? 計画は順調に進捗しているはずだぞ?」
その言葉にうなずきもせずにモルカッツの隣にへと黒猫は腰掛け、しなだれるかかる。そしてモルカッツへと耳打ちする。
「えぇ、ワルアイユの田舎者たちを追い詰める序盤はね」
テーブルの上に置かれたワインのボトルを手にして、モルカッツの空のグラスへと注ぐ。
「前領主の排除までは成功したけど、その次の段階、村を混乱させて統率を失わせるところで躓いてるわ」
情念を込めた低いトーンの言葉が告げられる。モルカッツは驚いたように顔を上げた。
「なに? アルセラの小娘がか?」
黒猫はテーブルの上の料理から、ブロッコリーの香草あえを一つとりそれを口に運びながら答えた。
「いいえ、領主としてはまるっきり無能よ」
「ならなぜだ? 領主代行が可能な人間はあの辺境領地にはいないはずだぞ」
モルカッツがまくし立てれば、呆れたような口調で黒猫はぼやいた。
「それが居たのよ」
「どういうことだ?」
モルカッツのグラスに再びワインを注ぐと、空のグラスを自分でも取りながら黒猫は言う。
「ブレンデッドの傭兵の街で勝手に潜り込んできた傭兵気取りのガキよ。覚えてる?」
モルカッツもワインのボトルを手にすると黒猫の手にしたグラスに注ぎながら言った。
「エルスト・ターナーだったか? 仕事にあぶれた貧乏傭兵の小娘だったそうだな」
「えぇ、その一人前気取りの乳臭い小娘が想像以上の手役になって、ゲームの盤上を荒らしているのよ」
モルカッツと黒猫、互いに手にしたグラスを打ち付けあいワインを口にする。
「アルセラのガキをサポートしながら状況を適切に采配しているようなの。村の混乱を加速させるために行った放火も順調に鎮圧されているらしいわ。まるで策士な参謀気取りね」
「例の査察部隊は? オブリスとか言う偽軍人に現地に送り込ませたあとは敵国内通者とその賛同者にしたてあげる手はずだったではないか?」
「そうよ、そのための偽情報や偽の証拠もばらまいたけど、きれいに対処されたみたいね。と言うより疑心暗鬼にさせようと思ったんだけど、あっさり引き締められたわ。エルスト・ターナーにね」
「なんなのだ? そのガキは!」
苛立ちと怒りを吐き捨てながら、モルカッツはグラスを仰いだ。そんなモルカッツをたしなめるように黒猫はささやく。
「落ち着きなさいな。急いては仕損じるわよ」
そうささやきながら黒猫はモルカッツにしなだれかかる。
「そのガキ、ただの傭兵志願の田舎娘じゃないわね。かなり頭が回るみたいなの。些末な情報戦では分が悪いわ。どうする?」
それは状況への采配を求めた言葉だった。黒猫はモルカッツに指示を仰いだのだ。
モルカッツは、テーブルにグラスを叩きつけるように置きながら告げた。
「人死がでないように穏便にすませられないなら、強硬手段を講じるまでだ。〝叔父〟と〝あのお方〟に連絡して計画の第2段階に移る」
人間とは思えない冷酷な笑みを浮かべながらモルカッツは言った。そしてそれは黒猫も同じだった。赤いルージュの引かれた唇を不気味に笑みを浮かべつつ彼女は言った。
「やるのね? 死人が出るわよ?」
「構わん」
問いかける黒猫に、断言するモルカッツ。到底人間の会話ではなかった。モルカッツは言う。
「被支配住民に落ちるとは言え、生き残るチャンスをあたえられたのに自ら捨てたのだ。ワルアイユの田舎者は開拓農地の肥やしになればいいのだよ」
「トルネデアスの砂モグラにどもに荒らされて?」
「そう言うことだ」
「ひどい人」
「そう褒めるなよ。ハハハ」
モルカッツが笑い声を上げる。悪事をなすのになんの迷いもないのだろう。そんな彼の振る舞いを満足気に見つめながら黒猫は言った。
「いいわ。連絡をとってあげる。正規の方法ではまずいでしょ?」
「そうだな。頼むぞ」
「待ってて。打伝してくる」
「あぁ」
そう言葉をかわし終えると黒猫は立ち上がり退室しようとする。だがふと振り返り彼女は言う
「あとで飲み直ししましょう。それまで他の子、連れこんじゃいやよ?」
そう甘えた声を投げかけてくるのだ。
「あぁ、分かってるとも」
たとえ悪女と解っていても、ほだされれば情が緩むのが男と言う生き物だった。モルカッツは執務室から出ていく黒猫を満足気に眺めている。
そして、執務室から廊下へと出てきた黒猫は、廊下で不安げな表情で待機している女性秘書官たちを見つけた。
彼女たちから声がかかるよりも先に黒猫は言った。
「あなたたち、もう帰っていいわよ」
モルカッツの相手をしている時とは打って変わった冷静な笑みで告げる。
「あの馬鹿の相手は私がするから。あなたたちは本来の仕事をしてらっしゃい」
それは女性秘書官たちには救いの言葉だったに違いない。毎夜のように行われる不当な要求に彼女たちは苦しめられていたに違いないのだから。そんな彼女たちに黒猫は言った。
「その代わり」
黒猫は人差し指を縦にして唇に添えた。その意味を女性秘書官たちは察知した。無言のまま頭を下げると謝意を表して姿を消していく。後には黒猫の姿しか残らない。
その黒猫の姿も陽炎のようにその場から去っていったのだった。
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