そんな時、アルセラの視線が侍女長のノリアさんに向けられた。彼女へと縋ろうとしているのがわかる。
それまで使用人として、余計な口を挟まずに沈黙を守っていた彼女だったが、私とアルセラ、それぞれの視線を受けて彼女も声を発した。
「お嬢様。もう諦めてしまわれるのですか?」
ノリアさんはアルセラを拒絶した。
「数日にも満たない日程で、ワルアイユ全土をあげての祝勝会開催がいかに無理で困難なことかは初めからわかっていたはずです! 当然お嬢様自身にも、今までのアルセラお嬢様とは違う、地方領主として相応しい毅然とした大人の振る舞いが求められるのは端から分かっている話です!」
それは焦りだった。ノリアさんにもアルセラには、ただ状況を覚悟しただけでは足りないものがあるのは判りきっていた。
だからこそだ。使用人でありながら、家族のように姉のように常に共に暮らしてきた彼女だったからこそアルセラの身を案じて、この言葉を告げたのだ。
「今まで誰もお嬢様に必要なことをお教えすることができなかったのは本当に申し訳なかったと思っています。ましてや、お母上様を幼くして亡くなったお嬢様が大切なことを学ぶ機会が少なかったのは本当に不幸なことだと思います。でも!」
ノリアさんはアルセラに歩み寄りながら強く告げた。
「こうして学ぶ機会の得られたのであれば、今までのお辛かったこと。理不尽や不満を感じていたことは、一時お忘れになってください!」
その精一杯の言葉を聞かされて、アルセラの心はついに悲鳴を上げてしまった。それもまた考えられたことだった。
「う、ううっ……」
両手で顔を覆って泣き出してしまう。
「あ、ああぅ……」
大声で号泣してしまった。父親であるバルワラ候を亡くされてから、周囲の励ましを受けて精一杯気丈に振る舞ってきた。
それは突如降って湧いた大舞台を前にして、虚勢と気合いだけではどうにもならないという事を思い知ってしまったのだ。
アルセラはとうとう崩れ落ちて床に突っ伏してしまった。
今私の中で〝やりすぎた〟と言う思いと〝当然の流れだ〟と言う思いとがせめぎ合っていた。ここでアルセラが立ち上がることがなければ、当主継承は諦めなければならない。
だが彼女が再び立ち上がって歩き出すためにも『彼女自身に無いもの』を自覚させる必要があるのだから。
「アルセラ、立って!」
床に突っ伏して泣き崩れている彼女の両手を握って立ち上がらせる。私は涙でくしゃくしゃになっている彼女の顔を見つめながら、真剣な声で言い聞かせた。
「私があなたにひどいことをしているのは十分わかっているわ。でもね、時間がないの!」
私の叫び声が会食室の中に響いた。その声は当然、アルセラの耳と心にも届いているはずだった。私は彼女を傷つけるのを覚悟で必死に語りかけていた。
「生ぬるいことをしていては間に合わないのよ! それほどに候族の当主にとって祝賀行事や催し物での立ち振舞いというのは人々の運命を左右してしまうほどに重要なものなのよ!」
私はアルセラの両手を握りしめながら、なおも言い聞かせた。
「今のあなたにとって、自分に無いものをこの段階で矢継ぎ早に指摘されるのはとても辛いことだとはわかっている。でもダメなものをダメと言わない限り成長も改善もない。だからお願い! 立って!」
アルセラの両手を握りしめる手がじっとりと汗ばんでくる。熱を帯びてもなお私はアルセラの手を握りしめて言った。
「私を嫌いになっても構わない! だから私の指摘に勇気を持って向き合って! 自分自身を改善することに全力を注いで! そうじゃないと間に合わないのよ!」
私自身も辛かった。アルセラが持っていないものを、ほじくり返すようにして突きつけなければ指導にはならないからだ。
だが、彼女が持っていない物を指摘するということは、彼女の生い立ちの中で失われたものを突きつけるということでもある。
不十分な後継者教育、
亡くなられたご両親、
ワルアイユ家に降りかかった苦難、
15になったばかりの彼女の身の上には立て続けに不幸が襲いかかってきた。
それでもなお、次代の領主として人々の求めには答えなければならない。
辛いのは分かっている。彼女に突きつけられている現実が無理難題なのは百も承知だ。
だが、それでもなお彼女には〝厳しい現実〟を理解してもらい、それを乗り越える〝覚悟〟を持ってもらわなければならないのだから。
そう――
立ち振舞いを直すということは、その心根を入れ替えさせるということでもあるのだ。
私がアルセラに仕込もうとしたのはまさにそれだった。
「お姉さま……」
涙声のままアルセラが私の胸に体を預けてくる。私の胸の中でアルセラはその胸の内に秘めていた苦しさ辛さを打ち明けようとしていた。
「なあに?」
アルセラのか細い声が聞こえてくる。
「私、平民の子に生まれたかった……」
それが彼女が押し隠していた一番の本音だった。
「どんなに貧しくても良かったから、お父さんがいて、お母さんがいて、朝起きればおはようが言えて、夜にはみんなで一緒に食事をして、そんな普通の暮らしがしたかった……」
私はその言葉に耳を傾けながら彼女の背中をそっと優しく撫でてあげる。それに促されるように彼女の言葉は続く。
「右も左も何もわからないのに、領主の娘と言う肩書きだけがどんどん勝手に動き回ってしまう。みんなが見ているのはアルセラと言う私じゃなくて、アルセラ・ミラ・ワルアイユと言う女性当主。私が私ではなくなっていてしまうような気がした」
私はアルセラを自らの両手で強く抱きしめてあげた。今この場では彼女が自らの中に溜め込んだ〝苦痛〟の数々を全て吐き出させるしかないだろう。
溢れ出した嘆きの声は止むことはなかった。
「私怖い! 私がどうなっていってしまうのか! とてつもなく怖いの! それなのに私の振る舞い一つでこの里がどうにかなると言われても、私どうしていいかわからない!」
それはごく当然の言葉だった。いかにそれしか道がないとはいえアルセラの小さな背中に全てを押し被せること自体が土台無理な話だったのだ。
ああやっぱりそうだ、これはもう無理だ。
私は最後の救いを与えるかのようにこう優しく告げたのだった。
「アルセラ、どうしても無理だと思うのなら諦めてもいいのよ?」
それが本当に最後に許された〝逃げ道〟だったのだ。
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