テレビでCMを見かけない日がない程度に有名な某殺虫剤のメーカーA社が、驚異的な新製品を開発したと発表した。
飲料水などに混ぜると、それを飲んだ人は一定期間まったく「蚊」(正確には、人の血を吸う“産卵前のメスの蚊”のみを示すであろうが、通例的な呼称として全て“蚊”と表記させていただく)にさされないですむという、じつにユニークで画期的なアプローチの防虫剤である。
長年にわたる地道な研究と、さらに長い年月をかけての徹底的な臨床実験により、その確実な効果および人体に無害である確証データは既に完璧にそろっている。
いかんせん、かつて例を見ない全く新しいタイプの製品であるからして、関係各機関との折衝(せっしょう)にはよりいっそう骨を折ると担当者は覚悟していた。
しかし、……幸か不幸か……南米での流行に端を発した致死性の伝染病が、たった1人の旅行者の体を介して日本に上陸し、なおかつ蚊を媒介(ばいかい)として感染拡大の恐れがあるというニュースと時期が重なったため、世論が盛大に後押ししてくれる結果となり、迅速(じんそく)に市販の許可がおりた。
さあ、満を持して全国のドラッグストアの店頭に並ぶやいなや、この製品が飛ぶように売れた。入荷するそばから、たちまち品切れ。工場の生産が追いつかないほど。売れに売れまくる。
購入者からの反響も申し分ない。原液のキャップを開けるとツンと鼻をつく異臭がただようので、はじめは少し抵抗を感じるものの、コーヒーや清涼飲料水など風味の濃い飲料に混ぜてしまえば、難なく飲み干せてしまう。
なにしろ、服用量は、たかだかティースプーン1杯くらいのものなのだ。体格や年齢による多少の個人差はあるが、1回の服用で2週間ほども効果が持続する。乳幼児から高齢の年配者まで服用可能で、アレルギー症状等の副作用のクレームも皆無というからたいしたもの。
しかも、この効果が絶大。
当節ハヤリのいわゆる人気ユーチューバーと呼ばれる人物が、無数の蚊を捕獲した巨大なガラスケースの中にパンツ1枚の格好で一晩過ごすという実験を試みたところ、見事に一か所も刺されることがなかった。
投稿動画が公開されるや、たちまち全世界に拡散され、その再生回数は史上最高記録を塗り替え続け、テレビ各局からの問い合わせが何件も舞い込み、実際にワイドショーやお堅いニュース番組にもひっきりなしに取り上げられた。
発明者であるA社所属のアオイケ博士の談をかいつまめば、この製剤を内服することによって、蚊の嫌悪する匂いがカラダから発生するのだとか。人の鼻では嗅ぎわけられないレベルの臭気だが、蚊にとっては、鼻をつまみたくなるほど(つまめる鼻があればだが)強烈なものらしい。
われわれ人間に置き換えて考えてみれば、たしかに、どんなに美味しいゴチソウを目の前に出されたとしても、それがミモダエするほど臭かったとしたら、とうてい食指は動かないものだ。
むしろ、その食べ物からできるだけ遠ざかろうとするのではないか。
蚊も同意だったようで、この「内服防虫剤」が市場に出回り定着し、大半のユーザーがリピーターとして常用するようになっていくと、人々の生活圏からどんどん蚊が消えていった。内服防虫剤を常用している人間たち……蚊にとっては「鼻が曲がるほど臭い食糧」……が存在している区域そのものから蚊が逃げ出していったのだ。
もはや、プックリ赤く腫(は)れた太ももの斑点(はんてん)が恥ずかしくてお気に入りのミニスカートをあきらめたり、かゆみに耐えかねて血がにじむほど皮膚をかきむしるストレスもなくなり、伝染病におびえるリスクも低減され、ちっぽけな体格のわりに異様な存在感を示すうっとうしい羽音にイラつき怯えながら眠れぬ夜を過ごすこともないのだ。
蚊が人里離れた場所に生息区域を移してくれたおかげで、防火水槽や側溝(そっこう)の水たまり、ため池などで、不快なボウフラの遊泳を見かけることもなくなった。
こうなると、国外からも熱狂的なニーズが押し寄せ、輸出販売も勢いに乗る。
とりわけ、蚊が媒介する伝染病の感染率が高い熱帯・亜熱帯などの地域においては、救世主のようにありがたがられた。
この奇想天外にして素晴らしい内服防虫剤を思いつき開発に従事したアオイケ博士には、ノーベル賞も間違いなしとの呼び声が高い。
伝染病対策に目覚ましい発展を捧げ、世界中の人々の公衆衛生に貢献したとの理由から、科学賞のみならず平和賞とのダブル受賞こそふさわしいのでは……と推奨する世論も強い。
当然、メーカーA社の利益は激増、株価も爆発的にウナギのぼり。
開発チームには破格の年棒がずっと約束され、役員から清掃パートのおばさんに至るまで社内一同に異例の臨時ボーナス支給という大盤振る舞い。
皆そろってホクホク顔なのである。
だが、栄光のかげには、必ずといっていいほど苦汁(くじゅう)をなめるものがいる。悲しいかな、世の摂理。
光が大きければ大きいほど、その影も深く濃くなるものらしい。
すなわち、メーカーA社の大躍進のおかげで、同業他社は一様に大ダメージをくらったのだ。
蚊対策用の既存の殺虫剤や防虫スプレーは、消費者から見向きもされなくなった。
人のいる場所そのものを蚊が避けるから、蚊取り線香のタグイの需要も目に見えて右肩下がり。
そのうえ、A社に対する圧倒的な信頼度の高まりにより、蚊除(かよ)けばかりでなく、ハエやゴキブリ対策用の殺虫スプレーの売り上げにおいても、ジワジワとシェアを奪われはじめた。
殺虫・防虫剤市場は、A社のブッチギリ独走態勢と化したのだ。もはや誰も追いつけない。
ものの2年とたたぬうちに、同業他社の多くは、商品の販売規模の縮小を大幅に余儀なくされた。
体力のとぼしい業者にいたっては、殺虫剤や防虫剤関連の製品の取り扱いをいっさい中止せざるを得なかった。
キミドリ博士がチーフとして所属していたK製薬の殺虫剤開発部門も、A社の内服防虫剤の販売開始から間もなく閉鎖の憂き目をみた。
「クソッ! アオイケ博士め……」
自宅の書斎に引きこもったキミドリ博士は、握りコブシで何度も机を叩きながらギリギリと歯がみした。
何を隠そう、このキミドリ博士、くだんの内服防虫剤の発明者であるアオイケ博士とは旧来の幼なじみなのだ。それも、幼稚園にはじまり、小・中・高校、大学までも、ずっと同窓生として過ごしてきたほどの。
2人とも幼いころから目立って頭が良く、同郷のせまい町内において共に神童のほまれ高かったから、自然と互いを意識するようになり、学生時代は常に首席をはりあい切磋琢磨(せっさたくま)しあった。いわば、宿命のライバル。
拮抗(きっこう)したライバル関係は大人になっても続き、やがて、それぞれが別々の企業の研究室で、より優れた害虫駆除剤を開発することでシノギを削っていたのだが、ここにきて、ついに積年の勝敗が決したというわけだ。
伯仲(はくちゅう)していたかに見えた実力の差をイッキに引き離された格好で。
……かたやアオイケ博士は次期ノーベル賞の有力候補、対するキミドリ博士といえば、みずからが率いていた研究チームを解散させられ、企業からオハライ箱になったのだから。
「ヤツめ、さぞやオレをせせら笑っていることだろう。ええい、イマイマしい! あの野郎!」
キミドリ博士は、家じゅうに響き渡るような大声で怒鳴りまくってから、悔しさのあまりワンワン泣きわめいた。
物心ついた幼少期にはじまり、中性脂肪の数値がちょっぴり気になりはじめる昨今に至るまで、ずっと周囲の人々に天才奇才とモテハヤされて生きてきたものだから、なにしろヒトナミはずれて自尊心が強いのだ。高々とセセリ上がった鼻は年季の入ったスジガネ入り……それを根元からヘシ折られれば、ひとしきりパニックにおちいったのもムリはない。
あられもなく床の上を転げまわり体中の水分が枯れるまで泣きじゃくると、ようやくキミドリ博士は起き上がった。
ヒックヒックと子供のようにシャクリあげながら、真っ赤に濡れたマブタを白衣のソデでゴシゴシとこすり、
「このままアイツを調子づかせてばかりなるものか。目にものみせてやる!」
と、(まことにヒトリヨガリな)復讐を心に誓った。
もっとも、キミドリ博士がこうまで執拗(しつよう)にアオイケ博士を恨むにはレッキとした事情がある。
じつは、アオイケ博士が発明した内服防虫剤をA社が発売するほんの数日前、K製薬もまた、キミドリ博士の発明した新製品を大々的にリリースしたばかりだったのだ。
これもまた、既存の概念をくつがえす画期的な「蚊取り線香」……一般的な蚊取り線香は、ケムリに殺虫成分が含まれているが、キミドリ博士の発明した蚊取り線香のケムリは、反対に、蚊をウットリとさせるフェロモンのような性質の匂いを発生する。「蚊取り線香」というよりは、むしろ「蚊寄せ線香」とでも呼ぶべきシロモノなのだ。
それにより、周囲5~6メートル内にいる蚊はいっせいにその「蚊寄せ線香」のケムリに集まり、群らがり飛ぶ。
そこを、付属の「超強力・蚊撃退スプレー」で、いっせいに狙い撃ちするのだ。
周辺の蚊を積極的に駆り集め、ヒトマトメに駆除するという点で、キミドリ博士の「蚊寄せ線香」は、従来の蚊取り線香よりも殺虫効果がハッキリと目に見えて実感できるものだ。
また、従来の蚊取り線香は、利用者のなるべく近くで使用する必要があったが、「蚊寄せ線香」は、人の出入りの少ない場所で……いわば「オトリ」として……蚊の採集効果を発揮してくれるから、ケムリのきなくささや殺虫成分の人体への影響を少なからず気にする神経質な消費者にも満足してもらえる製品だったといえよう。
いかんせん、このキミドリ博士のとっておきの発明品が全国のドラッグストアの店頭に並び始めた一週間後には、アオイケ博士の内服駆除剤によって、たちまち陳列棚の上を追い出されてしまっていた。
使用の手軽さにおいても効能においても、圧倒的にアオイ博士の発明に軍配があがった。
なによりも、その発想の意外性において大きく凌駕(りょうが)されたことが、キミドリ博士のプライドを完膚(かんぷ)なきまでに叩きのめした。
市場販売スタートのタイミングも最悪だった。後出しで発売されたアオイ博士の発明品が一瞬にしてセンセーショナルな話題をさらったおかげで、先行だったキミドリ博士の「蚊寄せ線香」は、その存在すら多くの消費者に知られぬまま市場を立ち退かざるをえなかったのだから。
キミドリ博士の屈辱のほどが知れよう。
「この恨み、はらさでおくべきか」
時代錯誤で物騒なセリフを吐きながら、キミドリ博士は、ハタ迷惑なヤツアタリ……もとい、崇高(すうこう)な報復を遂げるべく、いざ、人里離れた山奥に単身で乗り込んだ。
内服防虫剤の定着により、蚊の活動区域が人のいない場所に移ったことはすでに述べたとおりである。
キミドリ博士は、あえて、その失われた蚊の姿を求めてきたのだ。
真っ青な空に入道雲がもくもくとそびえ広がる夏の日。背後の雑木林からのセミの合唱にせきたてられるように白いヒタイからどんどん汗が噴き出すのは、慣れない野外の日差しのせいばかりではなかった。
ヒザくらいの高さまで生い茂る雑草を踏み分けて、なるべく起伏のない平地を探し出すと、キミドリ博士は、リュックサックの中から自身の発明した「蚊寄せ線香」を引っ張り出し、火をつけて地面に設置した。
すると、さすがはアッパレ、われらがキミドリ博士の会心の自信作。
ユラユラとケムリが空中に立ちのぼるやいなや、ヤブの中から無数の蚊が「プーン……」と羽音をふるわせながら集まってきた。
ものの10分もすれば、ケムリの流れに沿って、さながら黒い竜巻のごとく柱状に群れが密集してきた。
待ってましたとばかり、キミドリ博士は、杖がわりにたずさえてきた非常に目の細かい虫採りアミをヒラリふりあげるや、文字どおり一網打尽(いちもうだじん)に捕獲した。
線香が燃え尽きるまでに、なおも7~8回ほど蚊の集団をとらえ、プラスチックの補虫ケースに密閉してリュックサックに詰めると、ゾッとするような異様な笑顔を満面にたたえ、帰宅の途についた。
それから三年目の夏。
世界中に反響を巻き起こし空前の大ブームとなったアオイケ博士の内服防虫剤の売り上げは、季節を問わず蚊が発生し続ける熱帯の地域では年間を通して横ばいに落ち着き、日本を含むそれ以外の地域においては、オンシーズンでも極端に減少する傾向を見せはじめていた。
蚊の生息域そのものが人間の生活圏から大きく退いたために、日常生活においてその姿を目にする機会がなくなると、消費者の危機感もすっかり薄れたのである。まあ、当然といえば当然の成り行きであろう。
特筆すべきは、ここからで。
すでに廃盤(はいばん)の憂(う)き目を見ていたはずの我らがキミドリ博士の「蚊寄せ線香」が突如としてインターネットのオークションサイトに出品されるやいなや、市場で販売されていたときの数十倍もの高値で次々に落札されたのである。
賢明なる読者諸君には言うまでもなく、この出品者はキミドリ博士そのひとである。
三年前、全国からの大量発注を見込んで工場フル稼働で製造されるなりたちまち販売中止となってしまった不遇な自分の発明品を、博士は……なかばヤケクソで……私財のアラカタを投げ打って買い取っていたのである。
おかげで恋女房は、不毛な見合い結婚の顛末(てんまつ)に対する慰謝料の請求書を添えた三下(みくだ)り半を置いて実家に帰ってしまったが、その悲しみと嘆きもまた、アオイケ博士への復讐心をいっそう増幅する燃料となり、私財の残りと退職金のすべてもそれに注ぎ込むことに微塵(みじん)の躊躇(ちゅうちょ)もなくしてくれた。
かくしてキミドリ博士は、自宅をリフォームした私設の研究室で、たぐいまれなる灰色の脳細胞をフルに活性し、新たなる研究に没頭すること三年。見事にその執念を結実けつじつさせたのだ。
ここでまた改めて振り返るが、そもそも、どうして“蚊”は、これほど人々に忌み嫌われるのか?
まずなんといっても、土着(どちゃく)の風土病(ふうどびょう)を有するような地域では、その病気を多くの人々に感染させる恐れがある。ヤツらは、まさに使いまわしの注射針よろしく不潔で危険な存在。小さな死神だ。
だが、そうした風土病のリスクがない国々では、伝染病に対する不安を意識することさえ少ない。
それでも人々は蚊をおおいに嫌う。小さな羽音がプーンと耳元をかすめるだけで大抵(たいてい)あわてふためいて、顔のまわりを両手でしきりに振り払う。
毛ほども痛みを感じさせず、ほんのわずかの血液を拝領(はいりょう)して去っていく、ただそれだけだったら、たとえ我々が良寛和尚(りょうかんおしょう)ほど慈悲深くはないとしても、ヤツらのほんのササヤカな強盗傷害容疑を不問に付すこともできるだろう。
いかんせん、ヤツらは目立ちたがりの怪盗きどりで、みずからの犯行の痕跡(こんせき)を必ず残していく。
すなわち、犯行場所をプックリと赤く腫らして、あまつさえ、数日間におよぶかゆみを負わせるのだ。
これがいけない。非常に不愉快で腹立たしい。人々がヤツらを嫌悪してやまない所以ゆえんだろう。
そこで、我らがキミドリ博士は考えたのだ。この小さくもうっとうしい吸血鬼どもが、人々から愛されるようになるには、どうすべきか。
どのように“改造”してあげればよいか……?
さて、キミドリ博士の“蚊寄せ線香”が、インターネットのオークションサイトで高値で落札されまくったことはすでに述べたが、同じ頃、やはりインターネットの、とりわけSNSの界隈(かいわい)では、妙なハッシュタグがチラホラとハヤリはじめていたのだ。
#モスキュート
モスキート(蚊)ならぬ、モスキュート、なのである。
そして、目端めはしの利くSNSユーザーのいずれかによる造語とおぼしきこの謎のハッシュタグの付いた投稿には、
“モスキュート最高”
“あたしもモスキュートに噛まれたい”
“モスキュート気持ち良すぎてヤバい”
などという胡乱(うろん)なツブヤキがアフレており、画像の貼付も多かった。
この画像というのが、投稿者の手や足などの一部分をみずから撮影したもので、それぞれ多少の大きさの差はあるが、1~2センチ四方のかわいらしいハートの形をしたピンク色の痣(あざ)がプックリと浮き出ているものだ。
とりわけ、魅力的な若い女の子が、鎖骨の周辺のキレイな白い素肌の上に4つ、ちょうど四つ葉のクローバーの格好で散らばっているそれを撮影した写真が拡散されたときには、「かわいい! けど、何これ? タトゥー?」「モスキュートって、なに?」などと、インターネットを介して国内外にザワつきが一気に伝播(でんぱ)した。
どんな伝染病よりも早く……。
これこそがキミドリ博士の発明の成果なのである。
キミドリ博士の研究により生み出された新種の蚊は、その噛み跡はピンク色のハート型を模(も)すために、素肌を直接 飾るポップなアクセサリーとして、とりわけSNS好きの女性たちを喜ばせた。いわゆる「インスタ映え」するとされ、すこぶる大人気だ。
ゆえに、「モスキート(蚊)」と「キュート」を合成して、「モスキュート」なる造語が生み出されたのだ。
いかにも安易で軽薄なダジャレは、決してキミドリ博士の本意ではあるまいが、せっかくなので便宜上(べんぎじょう)この新種の蚊をここからはモスキュートと記していくこととして……、
さてさて、我らがキミドリ博士の天才奇才の真骨頂(しんこっちょう)は、ここからなのである。
モスキュートの噛み跡は、ハート型にいろどられるばかりではなく、まったくかゆみを感じさせない。
いや、むしろ、とてつもない快感を呼び起こす。
モスキュートの唾液には、従来の蚊のごときかゆみを引き起こすアレルギー物質の代わりに、エンドルフィンやドーパミンなど人間の脳内の快感ホルモンを爆発的に分泌させる誘発成分が含まれているのだ。
いまだかつて、世にこれほど合法的で安価な「麻薬」が存在したであろうか?
なにせ、明るく陽気なセルフィーをお手軽にSNSに公開するかたわらで、脳内マリファナ・脳内モルヒネ・脳内大麻などの異名を持つ快感ホルモンがひとりでに大量分泌され、誰しも、とてつもない多幸感に陶酔(とうすい)できてしまうのだから。
運び屋だの売人ばいにんだのカルテルだのといった、危険な闇社会の連中と関わりを持つ必要はいっさいない。
キミドリ博士は、自宅の研究室でモスキュートを発明して繁殖をはじめると、数日おきに人知れず近所の公園にバラまいた。
すでに蚊に対する危機感を失いつつあり、くだんの内服防虫剤の服用をやめていた人は少なくなかったので、モスキュートに噛まれて血を吸われる者も当然あらわれた。
ピンク色のハートの痣(あざ)と衝撃的なまでの多幸感と、モスキュートとの因果関係について、はじめに誰かが気付くまでには、いくばくかの時間を要したが。
それから人々のウワサにのぼったのは、あっという間だった。
こうして、インターネットのオークションではモスキュートの捕獲(ほかく)を目的として「蚊寄せ線香」が唐突(とうとつ)に注目を集めるようになったというわけだ。
モスキュートが、キミドリ博士の三年間の研究の真髄(しんずい)であり、ましてや、遠大にして壮大な復讐劇の主役であろうなどとは、誰ひとり気付く者のないまま……。
キミドリ博士が近所の公園に放った累計およそ十万匹あまりにのぼるモスキュートたちは、その半数近くが、オークションで「蚊寄せ線香」を落札した人たちによって捕獲された。
ガラスやアクリルの密閉ケースなんかに詰めこまれたモスキュートの大半は、主にインターネットを介して個人取引されたが、豪快なヤカラに捕獲されると、週末の繁華街の露店(ろてん)で、ガマの油さながら堂々とタタキ売りされたりもした。
ちなみに、このユニークな新種の蚊は、その全身と羽も一面あわく光るコバルトブルーに彩られていて特殊だが、大きさと形状はかつて日本中でよく見かけられた在来種と変わらない。
露天商(ろてんしょう)は、分厚いゴム手袋をはめた手に小さめのタッパー容器を持ち、モスキュートが群れ飛ぶアクリルケースの中に突っ込むと、金魚すくいの要領(ようりょう)で1匹づつ慎重に容器の内部に追い込みながら、素早くフタをして客に手渡すというわけだ。
かくも珍奇な光景に、まだモスキュートの存在を知らなかった人々も面白がってのぞきこみ「いったい、あの虫はなんなんです?」と、長い行列をなす客たちに問いかけたりしていた。
ちっぽけながらもひどく厄介(やっかい)な害虫として忌み嫌われ続けてきた蚊が、数千円から数万円もの単価で売買される日がこようとは、いったい誰が予想できただろう?
さらに大幅な利ザヤをもくろむ連中は、モスキュートの繁殖を試みたりもしたが、そちらは成功しなかったようだ。
というのも、キミドリ博士が放ったモスキュートは、すべてメスばかりだったからである。
捕獲をまぬがれた残りのモスキュートたちは、公園の緑にとどまり、それぞれの薬指にハートマークを刻むという偶然の演出でベンチに寄りそうカップルをウットリさせてみたりもしたが、ほとんどの個体は公園を飛びだし勇敢に未知の空に旅立ったものだった。
住宅の庭に商店街、オフィスや工場を飛び回り、あるいは、そこで行き会った人々の肩にコッソリ乗っかって、車やバスやトラックなどで気ままなヒッチハイクを楽しむのもいた。
さらには、最寄りの駅に向かい乗客のスーツケースに便乗すると、新幹線や飛行機を乗り継いで海外に遠征する猛者(もさ)もあらわれたり……。
ジワジワと着実に、その生息区域を広げていく。
こうなると当然、テレビや新聞や雑誌など、あらゆるメディアでも話題になる。
かつてアオイケ博士の内服防虫剤がセンセーショナルに喧伝(けんでん)されたとき以上に、モスキュートは、世界中のマスコミに華々しいデビューを飾ったのだ。
高名な生物学者・昆虫学者らのもとには、各国・各様の当該機関から問い合わせが殺到(さっとう)したが、あまりにもその出現が突然すぎたため、研究者たちの調査がまったく追いついていない。
モスキュートのブームの発生源が日本であることまでは、ひとまず確認ができた。目撃件数の分布だけを見ても、圧倒的に突出している。
と同時に、にわかに脚光(きゃっこう)を浴びたのは、ほかでもないキミドリ博士の「蚊寄せ線香」だ。
とにもかくにも研究用の個体をより多く確保せねばと色めきたっていた各国の研究調査員たちにとって、まさに渡りに船のミラクルグッズ。
じつはキミドリ博士、K社を退職する際に「蚊寄せ線香」の特許を自分自身に帰属(きぞく)させる手続きをすませていた。開業以来の大赤字を背負わせた世紀の失敗作を開発者ともども完全に厄介払(やっかいばら)いすることを、K社では、むしろふたつ返事で了承していたのだ。
かくして、開発者にして特許の所有者でもあるキミドリ博士に向けて、世界中からオファーが届きはじめた。
陰謀論好きな連中にいたっては、「これは、第三国の秘密研究所で開発された新手の生物兵器である」と、毎度オナジミのロジックをのたまった。
だが、実際には、犯罪や暴動などの件数は、モスキュートの流行以来、世界規模で目に見えて減少していたのである。
モスキュートの口針に刺されると、誰もかれもが至上の快感を得られる。
となれば、既存の麻薬や覚せい剤などのいわゆる危険ドラッグに手を出す人がいなくなってくる。
危険ドラッグに手を出す人がいなくなれば、その製造販売を“シノギ”にしていた犯罪組織は、みるみる壊滅(かいめつ)状態におちいる。
風が吹けば桶屋がもうかるといったところ。あるいは、かそけき蝶(ちょう)の羽ばたきが地球の裏側で嵐を起こす……と例えるほうが気がきくか。
世界中の警察がどれほどの知略と犠牲をふりしぼってもかなわなかった巨大な麻薬カルテルや凶暴な犯罪シンジケート等が、蝶よりももっと微細(びさい)微細な蚊の羽ばたきによってアッケなく崩壊(ほうかい)に向かったことは、善良な民衆たちにとっては実に痛快(つうかい)であった。
そのうえ、どうやら、モスキュートがもたらす快感を重ねるたびに、人々は、どんどん穏(おだ)やかでフレンドリーな精神状態になっていくらしい。
利己的で思いやりのない知人が、ありえないほど柔和な笑顔で老人に席を譲っているのを電車内で見かけて驚いた、とか。
ささいなことであちこちクレームを入れるので有名な職場の同僚が、定食屋の店員の粗相(そそう)でスーツに醤油をひっかけられたけれど、ひとことの文句も言わず許してあげていた、とか。
横断歩道を歩きながら夢中でスマホをいじっていたとき、見るからにケンカっ早そうなガラの悪い風体(ふうてい)の男の背中に思いっきりぶつかってしまったが、怒られるどころか「ケガはないか?」と心配されるしまつだった、とかとか。
似たりよったりの話がそこかしこであふれだした。
やがて秋が深まってくると、モスキュートの姿は減りはじめた。
一般的な在来種の“イエ蚊(か)”と同じように、モスキュートも、気温が10度くらいになると活動がにぶくなり、民家の物置きだの公園の木の洞(うろ)だの、神社のお社(やしろ)やらに身を隠し、冬眠して寒さをやり過ごすのだ。
だが、温暖な地域では、まだまだ元気に飛び回っていたため、モスキュートが与えてくれる快感を求めて観光客が例年以上に多く集まり、思いがけない特需(とくじゅ)効果にあやかった。
居心地のいい常夏(とこなつ)の地に引っ越せた幸運なモスキュートたちは、殺到(さっとう)する観光客らから思う存分に血液をちょうだいすると、その地に元からいた在来種のオスたちとアバンチュールを楽しんだ。
一年中たわわな果実やかぐわしい花々の蜜(みつ)を主食にしている熱帯のオスは、みんな強靭(きょうじん)でたくましかった。
そんな彼らとモスキュートとの間に誕生した子供たちは、その体は父親ゆずりのスタイリッシュなストライプ模様で飾られており、すこぶる丈夫で健康、羽はクリアーなコバルトブルーで、もちろんメスの唾液には人間を快感に導く成分が標準装備されている。両親の長所ばかりを見事に受け継いだといえよう。
しかも、この新世代のメスの咬み跡は、ハート型ばかりではなく、丸や三角形や四角形、ときには星型や雪の結晶を模した形を刻むこともあって、いっそう若い女性たちにもてはやされた。より変わった形状の咬み跡が肌に浮かび上がれば、その画像を即座にSNSで公開して、もっと多くのユーザーたちから注目を浴びようといきまいた。
この新世代の“ハイブリッド・モスキュート”が、温暖な気候に守られながらせっせと交配にはげみ、その特性をさらに強化させつつ爆発的に個体数を増やしていくと、あるいは人工的な繁殖をもくろむ人々によって意図的に、あるいは観光客のミヤゲ品などにまぎれたりして、ふたたび世界中に散らばった。
年はめぐり、季節はふたたび新しい夏を迎えようとしていた。
このころ我らがキミドリ博士は、A社の研究室に籍(せき)をおいていた。
A社の研究室といえば、宿敵(しゅくてき)アオイケ博士が辣腕(らつわん)をふるっていた職場ではないか。
キミドリ博士は、破格(はかく)の好条件を提示していた国際的な研究機関や世界的グループ企業のオファーをけって、あえてA社への再就職を志願したのである。
アオイケ博士にとっては、はなはだ面白くない話だ。
しかし、彼の発明した内服防虫剤の需要は、これからまさにカキ入れ時シーズン目前というのに、昨年の半分以下に落ち込んでいたのだ。
かたやパッケージも新たにA社からリバイバルされたばかりのキミドリ博士?謹製(きんせい)・蚊寄せ線香は、工場を昼夜フル稼働しても追いつかないほどの人気である。
とりわけ、飼育用の備品とケースと蚊寄せ線香とをセットにしてオンラインで限定数のみの販売を試みた「モスキュート・ハッピーキット」は、受注開始の時刻と同時にサーバーがダウンするほどの争奪戦となった。
気を良くしたA社では、すぐさまその追加受注と、さらにオプションの備品を充実させて豪華にデザインした「モスキュートハッピーキット・デラックスエディション」のリリースにも乗り出した。
この飼育キットがあれば、夏が過ぎてもモスキュートたちは活発にケースの中を飛びまわり、メスが飼い主の血を吸いながら、どんどん子を産み増やすことができた。
モスキュートを人間から遠ざける「内服防虫剤」は、いまやモスキュートを愛してやまない多くの人々にとって忌み嫌うべき危険な毒薬だ。
このたび発足(ほっそく)した“国際モスキュート愛護協会”のたび重なる要請を受けて、A社では、ついに内服防虫剤の製造販売を全面的に中止することを決定した。
なにしろ、“国際モスキュート愛護協会”には、世界的規模の実業家や大富豪、有力な政治家らが多数パトロンについているから、これはもう要請というより脅迫に近かったのだ。
もっとも、A社としても、「内服防虫剤」から完全に手を引く条件として、「蚊寄せ線香」ならびにモスキュートの飼育キットのグローバルな製造販売網を拡充させるための莫大(ばくだい)な資金の援助を得ることができたので、異論のあろうはずもなかったが。
キミドリ博士が、アオイケ博士を押しのけてA社の研究室長の座についたのは当然の処遇(しょぐう)といえよう。
かたやアオイケ博士の職場は、研究棟の地下にある薄暗い資料室に移った。
これにて、ようやくキミドリ博士の溜飲(りゅういん)は下がった。
「思い知ったか、アオイケ博士め。どれどれ、地団太(じだんだ)ふんでくやしがる顔を見てくれよう」
と、用もないのに地下室に足を運ぶ。
キミドリ博士に負けず劣らず自尊心の強いアオイケ博士が、A社の花形である研究開発のリーダーから、文字どおり日の当たらない閑職(かんしょく)に異動させられたのだから。
なまじ栄光の頂点を知っているだけに、ひょっとしたら、かつてのキミドリ博士が味わったよりも、屈辱は大きいかもしれぬ。
ところが、当のアオイケ博士、デスクに雑然と散らかったファイリング用の書類を前に、かおり高い紅茶なんぞをノンキにすすりつつ、
「やあ、キミドリ博士。おかげさまで、のんびり過ごさせてもらっているよ」
なんともおだやかに微笑んでいるのだ。
キミドリ博士、すっかり拍子抜(ひょうしぬ)けしてしまった。深慮遠謀(しんりょえんぼう)なる復讐をついに遂とげたというのに、これではまったくハリアイがない。
「いや、まあ、それはなにより……」
モゴモゴとアイマイに語尾をにごしながら、きびすを返そうとしかけたときに、気付いた。
ティーカップを持つアオイケ博士の手の甲に、ハートと星の形をしたピンク色の小さな痣(あざ)が3つ4つ散らばっていることに。
かくてキミドリ博士の復讐劇(ふくしゅうげき)は一応の幕引(まくひ)きとなったが、モスキュートたちは、まだ主演舞台を降りるつもりはないようで。
モスキュートたちは気付いてしまったのだ。人間たちに愛されることで安泰な生涯が約束されるということに。
遺伝子レベルで悟ったのだ。
いかんせん、この頃にもまだ、かたくなにモスキュートを忌み嫌う人々が少なからず存在する。
致死性の高い伝染病が発生する風土(ふうど)で生活する人々だ。
モスキュート愛護協会の活動によりアオイケ博士の内服防虫剤の輸入がストップしたことで、彼らは嘆き、猛烈(もうれつ)に怒っていた。
その怒りを殺虫剤のスプレーに込めて、モスキュートたちに噴射(ふんしゃ)しまくった。
毒の霧から命からがら逃げ伸びたモスキュートが、もがき死んでいく仲間を遠巻きに見つめながら、
「どうしてここの人間たちは、我々をこれほど嫌うのだろう?」
と考えたかどうかは知らないが、かの地のモスキュートたちは切迫した生存本能にかられて今まで以上に活発に在来種との交配にはげんだ。
やがてハイブリッド・モスキュートと南国の在来種の子が北方の在来種と交配し、さらにその子がハイブリッド種と東方の在来種との間の子と交配して……
何世代にもわたって交配を繰り返すうちに、ついに“スーパー・ハイブリッド・モスキュート”が爆誕した。
難解にして複雑怪奇なメカニズムの詳細は割愛(かつあい)するとして、とにもかくにも、このスーパー・ハイブリッド・モスキュートのメスは、ピカピカ輝く銀色の口針そのものが伝染病のウィルスをシャットアウトできる仕様となっているのだ。
無数の人間の生命をおびやかしてきた小さな害虫は、ここに完璧なる幸福のアイコンとして生まれ変わった。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」……かくも博愛に満ちた至言を遺した心優しい薄幸の童話作家が、かつて、いたそうだが。
しかし、実際、どうだろう。
都会の大病院の産科病棟で産声をあげる子もいれば、田舎の自宅で近所の助産婦に取り上げられる子もいる。
長男、長女に末っ子、一人っ子。大家族に核家族。
生まれおちた出発点が異なれば、それぞれの価値観は大きくズレていく。
複雑に曲がりくねったその線が、他の誰かの線と交差することはあるとしても、完全に一本に重なる軌跡(きせき)を描くことなど絶対に不可能といえよう。
自分にとっての幸福は、何か? その価値観は十人十色だ。
だとすれば、逆に、「世界中の個人それぞれが幸福にならないうちは、世界ぜんたいの幸福はありえない」のではあるまいか。
そして、ひとりひとりの幸福に対する価値観というものが異なる以上は、それも実現不可能な幻想にすぎないはずだっだ。
だが、モスキュートが、その幻想を実現させてしまった。
ひとりひとりの人の脳髄(のうずい)に直接作用する圧倒的な快感が、それぞれの主義主張、思想、宗教、国境や肌の色、歴史、文化、イデオロギーなどなど……あらゆる価値観のボーダーを、たやすく軽々と飛び越えた。
老いも若きも、富める者も貧しき者も、だれもかれもが、それぞれみんな最高に幸せだった。
誰も他人を恨(うら)んだり妬(ねた)んだりする必要がない。
殺人、テロ、戦争……そんな概念(がいねん)そのものが、じきに人々のアタマから消滅した。
モスキュートが世界ぜんたいに平和をもたらしたのだ。
さらに月日が過ぎた。
一年か、二年か、それとも三年ほどか、……カレンダーというものを目にしなくなって久しいキミドリ博士には、もう見当がつかない。
人類とモスキュートとの蜜月(みつげつ)は、思ったより長くなかったようだ。
人間の歴史が存続していくためには、生殖によって子孫を残さなくてはならない。
しかし、モスキュートのもたらす快感は、どれほど美しく蠱惑的(こわくてき)な恋人とのセックスよりも、ずっと心地いいものだった。
人々は、まず性欲を失った。
最愛の伴侶(はんりょ)との子供を産んで育てたいという願望も自然と消えた。
となれば、何のために勉強をして何のために良い学校を目指すのか、何のために良い会社に入って出世したいのか、何のために良い伴侶(はんりょ)を得たいのか、何のために良い家庭を持ちたいのか、そも何のために家庭が必要なのか。
理由が分からなくなってきた。
というより、理由がなくなった。
幸福の絶頂を日常的かつ手軽に味わえる今、あらゆる欲望が消え去っていく……。
A社の研究棟の地下倉庫に立ったキミドリ博士は、整然と棚に並んだ無数の段ボール箱のうち手近のフタを開くと、コンビーフの缶詰(かんづめ)をひとつ取り上げながら、長いタメ息をついた。
昔から多くの人々が、人類の終焉(しゅうえん)を想像してきた。アルマゲドン、隕石の衝突、核戦争による放射能汚染、パンデミック、AIの暴走……。
――しかし、
「よもや、飢(う)え死(じ)にして絶滅(ぜつめつ)するとはなぁ」
自嘲(じちょう)めいてつぶやく声は、コンクリートむきだしの殺風景な空間にムダに大きく響き渡った。
もはや地上は、人間以外の動物に占拠(せんきょ)されている。
うっかり屋外に出ようものなら、野生化した犬の群れにいっせいに咬みつかれるか、山から降りてきたクマどもの爪でヤツザキにされるだろう。
白衣と呼ぶにはおこがましい程度に薄汚れたそのポケットに缶詰を1個放り込んでから、キミドリ博士は、巨大な冷凍庫の前で立ち止まると、合掌(がっしょう)しながら頭を下げた。
もともとは薬品や実験標本の保管目的で置いてあったものだ。
「とっくに電気が通っていないから、中は惨憺さんたんたるアリサマだろうな」
心なしか、腐臭が外に漏れ出してきているような気がしないでもない。
ささやかな後ろめたさにも追い立てられ、ソソクサと倉庫を後にする。
キミドリ博士がこの研究棟の地下に住み着いてから、半年あまりになるのだろうか。
その最初の日、キミドリ博士は、給油ランプが点滅しはじめた愛車をギリギリすべりこませた最下階の駐車場から建物の中に入り、二重扉を厳重にロックしてから、シンと静まり返ったフロアを順々に点検してまわりながら階段を上がっていった。
やがて資料室のドアを開けると、キラキラと青く輝きながら微細(びさい)に震えうごめいている一つのカタマリが床に広がっていたものだった。
キミドリ博士が近づくと、青い光のカタマリは、いっせいにパッと天井近くに散らばって逃げた。
青い光のカタマリ……すなわちモスキュートの大群……が去った後には、男の死体がひとつ転がっていた。
生前のダテ男ぶりがウソのようなボサボサの頭髪はフケにまみれ、伸び放題の無精髭(ぶしょうひげ)に覆われた顔と白衣に包まれた長身は、ガリガリに痩せて骨と皮しか残っていなかった。
宿命のライバルの凄惨(せいさん)な最期の姿を見ても、キミドリ博士は、しかし少しも驚かなかった。
すでに地上で、さんざん見慣れていたからだ。
ただ、骨と皮のみのミイラと化した死体からもまだ執拗(しつよう)に残り一滴の血液までも吸い尽くそうとするモスキュートどもの貪欲(どんよく)さに、いまさらながら身震(みぶる)いしながら、死体を倉庫室に引きずって巨大冷凍庫に押し込んだものだった。
至上の幸福におぼれた人類は、人間の本能的な三大欲求を失ってしまった。
最愛の伴侶(はんりょ)とのセックスも、ふかふかの寝具に包まれながら美しい夢路をたどる安らぎの眠りも、三ツ星シェフのとっておきのフルコースも、モスキュートがもたらす快感には遠くおよばなかったのだ。
今、キミドリ博士は、研究員用の休憩ロビーとして使われていた快適なフロアで、フタを開けたばかりのコンビーフの缶詰と、自宅を出るときトランクいっぱいに詰め込んできた酒瓶のうちの1本を机の上に並べると、ゆったり椅子に腰かけた。
アルコール綿でねんいりに拭きあげた300ミリリットルの三角フラスコに美酒を注ぎ、孤独な晩餐(ばんさん)の準備を完璧に整えると、仰ぐように天井を見上げれば、モスキュートの大群が、コバルトブルーの羽をキラキラと輝かせながら舞い飛んでいる。
昨日よりもグッとその距離が狭まっている。じきに“内服防虫剤”の効き目が切れてくる頃合いだからだ。
宿敵アオイケ博士の稀代(きだい)の発明品を、実は発売当初からずっと欠かさずに愛飲してきたキミドリ博士であった。
だが、もう、それも終わりにしようと思っていた。
地上にたった1人だけ生き延びる空しさに絶望したとか、そんなのではない。
あの日、冷たいリノリウムの床に仰向(あおむ)けに倒れていたアオイケ博士の死に顔が、あまりにも幸せそうで、それが脳裏に焼き付いて離れないのだ。
地肌がまったく見えないくらいモスキュートの咬み跡で埋め尽くされていたが、あの恍惚(こうこつ)として満ち足りた表情は、うらやましくてならない。妬(ねた)ましくさえある。
キミドリ博士の心の声が届いたかのように、コバルトブルーの群れが、急にグンと鼻先近くまで降りてきた。
ヤツらは、とてつもなく飢えているのだ。もともとの生みの親であるキミドリ博士の遺伝子操作のせいで、人間以外の生物の血液を摂取(せっしゅ)したのでは交配できない性質を持つから。
人間なしでは子孫を残せない寄生虫と化しているのだ。
互いにウィンウィンの良好な関係を築いていたはずが、より多くのリターンを求めてひとりでに進化を繰り返した結果が、宿主を滅ぼしてしまったというわけだ。
「かわいそうなことをした」
いったい誰に対してか、キミドリ博士は、しかし所詮(しょせん)はヒトゴトのように肩をすくめて、机上に顔を戻した。
静かすぎる晩餐(ばんさん)には、飢えた寄生虫の群れが浮き足立って乱舞する羽音すら、貴重なBGMだった。
――宿主を食いつぶした寄生虫は自分も滅ぶしかないことを、ヤツらは気付いているのかな?
と、キミドリ博士は、フラスコを口に運びながら小首をかしげた。
――いや、ひょっとしたらヤツらは、寄生虫どころか、“この地球(ほし)”が、みずからのカラダにまんべんなくふりまいた強力な「殺虫剤」なのかもしれないぞ。タチの悪い本当の寄生虫を残らず一掃するために……。
とっておきの美酒に酔えば、そんな突拍子(とっぴょうし)のない妄想も頭によぎる。
この悪質な寄生虫が、もうまもなく全滅するから、その宿主は、きっと健康を取り戻して、元気に生き長らえることだろうな……。
おわり
.
読み終わったら、ポイントを付けましょう!