「ただいま……」
精神的な疲労感を覚えながらシレイアは帰宅し、ステラに出迎えられた。
「お帰りなさい、シレイア。お茶はどう?」
「ううん、要らない。夕食まで、少し部屋で休んでいるから」
「そう?」
不思議そうに首を傾げた母親に背を向け、シレイアは自室へと向かった。そしてベッドに寝転がりながら、独り悶々と考え込む。
(マルケス先生が本気だっていうのは分かるけど、アイラさんはどうする気だろう。なんか結婚願望とかとっくになさそうだし、結婚してくれとか言われても喜んでいる感じはしなかったんだよね。凄く動揺はしていたけど)
そのままシレイアは暫く堂々巡りの事を考え、頭を抱えてしまう。
「うあぁぁぁっ! なんであんな場面に居合わせちゃったのよ、私! やっぱりさっさと帰ってくれば良かったぁぁぁっ!!」
そんな口に出しても仕方のない事を叫んだシレイアは、重い気分のまま夕食の席に着いた。
「シレイア。戻って来てから部屋で騒いでいたみたいだけど、総主教会か修学場で何かあったの?」
家族揃って食べ始めてすぐ、ステラが声をかけてきた。どうやら思ったより自分の声が響いていたらしいと理解したシレイアは、少し前の自分の行為を反省すると共に、この場をどう切り抜けるべきか悩む。
「え、ええと……、あったと言えばあったんだけど、あったとは言えないというか、なんというか……」
「え? 何を言っているの?」
常識的に考えれば、他人のプライバシーに関する事を軽率に口にできないのは理解していたが、とても自分の胸の内だけに留めておけないと思ったシレイアは、ノランに縋るような目を向けた。
「その……、お父さん」
「うん? どうした?」
「いえ、カルバム大司教様に、是非とも懺悔をしたい事があります! 聞いた個人情報には、守秘義務がありますよね!?」
「それはまあ、確かにそうだな。だが、一体どうした」
藪から棒に出された娘からの要求に、ノランは目を丸くしつつも冷静に尋ね返した。するとシレイアが、真顔でステラに懇願する。
「そういう事だから、お母さん。ちょっと遠慮して欲しいんだけど」
しかしステラは、大真面目に言葉を返してきた。
「私は空気だから」
「あのね、お母さん」
「私は空気よ」
「だから、そうじゃなくて」
「…………」
「分かったわ。私の話が終わるまで、黙って空気になって聞き流していて」
表情を消したまま口を閉ざし、微動だにしない母を見て、シレイアはこれ以上の論争を諦めた。
「それで? 何があった?」
「今日、修学場で、とんでもない場面に出くわしてしまって……」
再度促されたシレイアは、腹を括ってその日の午後に起こった出来事について語り始めた。
「そういうわけで、思いがけずマルケス先生のプロポーズを立ち聞きする羽目になった挙句、先生とアイラさんにそれを気づかれてしまって、もの凄く気まずい状態になって帰ってきました……」
シレイアは一部始終を語り終えるとともに、がっくりと肩を落とした。
「それはまた……、双方にとって災難だったな……」
「あぁぁぁぁっ! 本当に、私の馬鹿ぁぁぁっ! どうして先客にアイラさんがいた時点で、さっさと帰らなかったのよ! 明日は勤務だし、寮に戻れば頻繁にアイラさんと顔を合わせるのに、気まずすぎる! どうしよう!」
文字通り頭を抱え、泣きが入りかけている娘を困ったように眺めながら、ノランは冷静に言い聞かせる。
「仕方がないな。今後ずっと避けるわけにもいかないだろうし、王宮に戻ってアイラさんと顔合わせたら、まず個人的な話を耳にしてしまった事について謝罪しなさい」
「それは勿論、するつもりだけど……」
「その上で、相手が事を荒立てたくないとこれまで通りの態度で対応してくるなら、お前もそれに合わせて振舞うしかないだろう。平常心を保つのは難しいかもしれないが、それが大人の対応というものだ」
「はい。分かっています……」
叫ぶだけ叫んで幾らか気持ちが落ち着いたシレイアは、父の言葉に神妙に頷いて応じた。
「ところで……。先生やその先輩に対して思う所があったにせよ、第三者が口を挟むような問題ではないのは、私がわざわざ言わなくても分かっているな?」
「それはまあ……。私から見たらお似合いだとは思うし、纏まってくれたら良いかなとは思うけど……。赤の他人がどうこう言う問題ではないのは、重々分かっているから……」
「それならよろしい。今後は気をつけるんだな」
「はい……」
そこで話を締めくくったノランだったが、妻からの視線を感じたらしく、不思議そうにステラに尋ねた。
「ステラ? どうかしたのか?」
「…………」
「お母さん?」
釣られてシレイアも母親に視線を向けたが、ステラは先程『自分は空気』と宣言した通り、無言で微笑んでいるだけだった。しかし妻を観察したノランは、シレイアに向き直って問いを発する。
「ああ、そうか。シレイア。マルケス先生は確か今、四十代半ばから後半だったと思うが、そのアイラさんという官吏の方も同年配なんだろう?」
「その筈よ。修学場の同級生だった筈だし。それがどうしたの?」
「…………」
シレイアが不思議そうに答えると、ノランは再度妻の表情を窺ってから話を続ける。
「確かにその年齢では実子は諦めていると思うし、『退職したら夫婦二人で静かに過ごそう』とか言っている辺り、本当にマルケス先生はその人の事が以前からずっと好きだったのねと、ステラが感動している」
「……お父さん。何を言っているの?」
「今、ステラは空気だからな。ステラが言いたい事を代弁してみた」
怪訝な顔になったシレイアに、ノランが真顔で応える。それを聞いたシレイアは、もの凄く疑わしそうに尋ねる。
「それ……、本当にお母さんの意見なの?」
「そうだと思うが?」
「…………」
そのタイミングでステラが笑顔のまま頷いてみせたことで、シレイアは半ば呆れながら問いを重ねた。
「どうして分かるの?」
「なんとなく?」
「…………」
(ああ、はいはい。相変わらず夫婦仲が宜しくて、結構ですこと)
両親が微笑んで見つめ合っているのを見て、シレイアは半ば呆れ、半ばうんざりしてきた。しかし気を取り直し、一応母に釘を刺しておく。
「お母さん、くれぐれも総主教会関係者には漏らさないでね?」
「…………」
「『シレイアは私の事を信用してくれないのか』と、ステラが傷ついているぞ?」
「すみませんでした。信用してます」
(ああもう、なんか悩むのが馬鹿らしくなってきたわ)
相変わらず無言のままのステラの気持ちを、すかさずノランが真顔で代弁してくる。それに軽く脱力しながら、シレイアはなんとか気持ちを切り替えるのに成功した。
※※※
父親に諭されて、シレイアは気持ちを切り替えたつもりだった。しかし翌朝、実家から乗合馬車で王宮前広場まで行き、通用門を抜けて執務棟に足を踏み入れて早々にアイラと出くわしてしまい、動揺を隠せなかった。
「お、はよう、ございます……」
「……おはよう、シレイア」
「ええと……、今日は朝から爽やかな陽気で……」
「……そうね。今にも雨が降りそうな、どんよりした曇り空ね」
対するアイラも微妙に笑顔が強張っていたが、そこは年の功と言うべきか、表立っての動揺は見受けられなかった。
(出勤早々アイラさんと出くわすなんて、私の今日の運勢を物語っているようだわ……。それなりに、心の準備をしていたつもりだけど……)
咄嗟に次の言葉が出てこないシレイアだったが、アイラは淡々と別れの挨拶を口にする。
「それじゃあね」
「あの!」
「どうかした?」
思わず呼び止めてしまったシレイアは、次の瞬間、それを激しく後悔した。しかし足を止めて振り返ったアイラに何か言わなければと、殆ど何も考えないまま言葉を絞り出す。
「お仕事、頑張ってください。それから、私は何も聞いてはいませんし、見てもいませんから……」
(うぅ……、謝罪の言葉がごっそり抜けた……。でも謝るなら、何に対しての謝罪なのか、一応口にしないといけないし……)
後輩の困惑が十分理解できていたアイラは、ここで苦笑いの表情になってシレイアを宥める。
「分かっているから。あなたにとっても、予想外の災難だったわよね。気を遣わせてしまって悪かったわ。忘れて頂戴」
「ありがとうございます……」
お互い、始業時間が迫っている事からそれ以上話を長引かせるわけにもいかず、二人はそこで別れて歩き出した。
(う~ん、今のは、気にしていないから今後は蒸し返さないで欲しいって事だと思うけど、アイラさんの台詞がちょっと引っかかるな……。『あなたにとっても』とか『予想外の災難』とか、アイラさんにしてみれば、あのマルケス先生のプロポーズの台詞って、迷惑以外の何物でもなかったのかな?)
そんな事を悶々と考え始めたシレイアは、徐々に気が重くなってくる。
「……今度はなんだか、別な意味で落ち込んできた。今日一日、きちんと仕事できるかな?」
朝からそんな弱音を吐きながら、シレイアは重い足取りで職場へと向かった。
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