アリステアの個人授業の話を聞いた翌日。放課後になってから、シレイアはローダスと共に統計学資料室に出向いた。
「殿下、お邪魔しても宜しいでしょうか?」
「ああ、アシュレイにモナか。入って良いぞ」
「ありがとうございます」
「失礼します」
機嫌よく応じたグラディクトに頭を下げ、二人は空いている椅子に腰を下ろした。その直後、さりげなくローダスが問いを発する。
「ところで、アリステア様がいらっしゃいませんが、今日はご多忙なのでしょうか?」
「ああ。なにやら今日の放課後は教授に質問に行くから、こちらに出向くのが遅くなると言っていた。真面目で勤勉だと思わないか?」
「はい。誠に、何事にも真摯に取り組むアリステア様らしいお振舞いです……」
「アリステア様の実直さを目の当たりにするたびに、我が身を省みております……」
「そうだろうな」
満足そうに頷いてみせるグラディクトに、シレイアとローダスは強張り気味の笑顔で返した。
(さすがに恥ずかしくて、殿下には居残りの個別授業とは伝えていないのか?)
(それならそれで、多少厳しくても泣き言を言わないで頑張ってくれるなら、こちらの手間も減るのだけど。どうなるのかしら?)
二人が密かに考えを巡らせていると、いきなり乱暴にドアが押し開けられた。
「グラディクト様! 酷いんです、エセリア様が手を回して、私を虐めるんです!!」
「何だと!? それはどういう事なんだ? 詳しく聞かせてくれ」
入室するなり泣き叫んだアリステアを見て、グラディクトは血相を変えて立ち上がった。アリステアはそのまま涙目で一方的な主観だけの訴えを始めたが、ローダスとシレイアは心配そうな風情を装いながらも、すこぶる客観的にその一部始終に聞き耳を立てる。
(初日で泣きついてくるとはな……。それに別にエセリア様は、何もしてないぞ。あんたの礼儀作法が、全くなってないだけだろ)
(向上心の欠片もないらしいわね。それに他人に責任転嫁して被害者意識を募らせるにしても、もう少し程度ってものがあると思うのだけど)
二人が内心で呆れ果てていると、涙まじりのアリステアの訴えが漸く終わった。
「けしからん! 第一、個別授業など、何の嫌がらせだ! 私もそんな事は聞いた事が無いぞ。授業形式までねじ曲げるとは、エセリアの奴何を考えている!? 恥を知れ!! 分かった。アリステア、安心しろ。私がすぐにその教授に抗議して、他の皆と一緒に授業を受けられるようにしてやる」
アリステアの主張全てを真に受けたグラディクトは、憤然として怒りの声を上げた。この間しらけきっていたものの、シレイアとローダスは自分達の役目だから仕方がないと割り切り、グラディクトを宥めにかかる。
「恐れながら殿下、それは差し控えた方が宜しいのではないでしょうか?」
「何だと? モナ。お前、私に指図するつもりか?」
すかさずグラディクトが睨んできたが、シレイアはそれに怯まず冷静に話を続ける。
「いえ、指図など、恐れ多い事でございます。アリステア様にお伺いしますが、その個別授業を受けているのは、きちんとした教室なのですよね? 屋外やホールとかではなく」
「ええ、東棟二階の六番教室よ。そこは空いているから、当面私の授業で使う事にしたって言ってたわ」
「それならばセルマ教授は、きちんとした手続きをして、その教室を使っているわけです。学園長の許可も下りている筈ですし」
「はっ! そんな物! 学園長がエセリアからの賄賂で抱き込まれているのは、絵画展の時にとっくに分かっているぞ!」
(本当にウザいわね、このバカボンが!)
腹立たしく告げてきた彼に、シレイアは本気で苛つきながらも、何とか平静を装いながら話を続けた。
「ですが学園側がアリステア様に対して、個別授業を行う事を認めているのは事実です。それを殿下が糾弾したところで、『学園の運営に、一生徒たる殿下が口を出さないで頂きたい』と、学園長に一蹴されるだけです」
「それに一蹴されるだけならともかく、殿下の王太子としての資質に問題ありと、陛下に報告されるかもしれません」
「それは……」
すかさずシレイアの話に乗る形でローダスが口にした可能性を聞いて、さすがにグラディクトが口ごもる。そんなやり取りを聞いたアリステアが、決意溢れる表情で告げた。
「グラディクト様、私の事は気にしないで下さい。どんな事で難癖をつけられるか、分かりませんから」
「すまない、アリステア……。私はなんて無力なんだ……」
「いえ、グラディクト様が私の事を気にかけて下さっているだけで、私は十分ですから」
手を取り合って自分達の世界に入り込んだ二人に向かって、シレイアが気合いを振り絞って話しかけた。
「アリステア様、確かにセルマ教授は厳しい方かもしれませんが、自分の仕事には誇りを持っていらっしゃる方です。幾らエセリア様の指示であなたを個別授業する事になっても、間違った事を教える事はあり得ません」
「その通りです。それに寧ろこれは、アリステア様にとっては、絶好の機会なのでは? 周りの目を気にせずに、集中して礼儀作法を学べるのですから」
「え? でも……」
シレイアに続きローダスも言い聞かせるとアリステアが戸惑った表情になり、グラディクトも不満そうな顔になる。しかし二人は、重ねて冷静に言い聞かせた。
「何と言ってもグラディクト殿下は、王太子殿下であられるのですから。今後も殿下のお側に控える為には、セルマ教授から認めて貰える程度の、立ち居振る舞いができなくては後々困りますよ?」
「いや、確かにそれは、そうかもしれないが……」
「逆に言えば、セルマ教授に認めて貰えて初めて、王太子殿下と並び立つ資格があるとも言えますわね。あのエセリア様でさえ、時折セルマ教授には叱責されておりますし」
シレイアがそうエセリアを引き合いに出すと、途端にアリステアはやる気満々の笑顔になって、力強く宣言した。
「分かりました! 私、頑張ります! 一生懸命努力して、セルマ教授からグラディクト様の婚約者に相応しいと、認めて貰いますから!」
「アリステア。その気持ちは嬉しいが、無理はするなよ? どうしても我慢できない時は、ちゃんと私に言ってくれ」
「はい。その時は私の話を聞いて下さいね?」
「ああ、勿論だ」
そして再び手を取り合って見つめ合う二人を眺めつつ、ローダスは本気で首を傾げた。
(あれ? 俺達、この女がセルマ教授が満足する位に礼儀作法をマスターしたら、この女を王太子の婚約者とか妃として認めるとか、そんな話をしたか? してないよな?)
(個別授業をされている段階で、セルマ教授が求めるレベルの遥か下だって、本当に分かって無いのね。だけど勝手に勘違いして、頑張って頂戴。取り敢えずこれで、殿下がセルマ教授の所に怒鳴り込むのを、阻止できたわね)
シレイアは悉く自分達に都合良く曲解している二人に呆れつつ、無駄な騒ぎを回避できそうだと密かに胸を撫で下ろした。
「ところで……、アリステア様の向上心の高さには感服いたしますが、それほどまでに自分自身の能力を信じて努力できるのは、どうしてでしょうか? なにか強い信念がおありとか、正しく導いてくださる方でもおられるのでしょうか?」
気を取り直しつつ、シレイアは慎重にこの間考えていた内容について探りを入れてみた。するとアリステアは、キョトンとした顔になりながら答える。
「え? 信念? 正しく導いてくださるのは、グラディクト様に間違いはないけど。どうしてそんな事を聞くの?」
「いえ、その……。常に自信に満ち溢れているアリステア様が、羨ましいと思いまして。常々、自分の至らなさを思い知っておりますので……」
シレイアが神妙に、それらしい言葉を口にして誤魔化した。するとアリステアが満面の笑みで断言してくる。
「前から思っていたけど、モナさんって謙虚過ぎるくらい謙虚なのね! でも大丈夫よ! 周囲のまやかしに惑わされず、グラディクト様を支持してくれているんだもの! それだけでも十分優秀だわ!」
「そうだぞ。アシュレイもそうだが、お前達は人を見る目がある上、謙虚で目端が利く人材だ。もっと自分に自信を持て。私が保証する」
「ありがたきお言葉……」
「感謝の念に堪えません……」
(あんたに保証なんかされたら、金輪際出世できなくなりそうよ)
(確実に、あんたは人を見る目がないな)
能天気なアリステアの言葉に続き、グラディクトから偉そうに上から目線で評された二人は、多大な精神的疲労感を覚えながらその場を離れたのだった。
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