「あの人、ナジェークさんよね? エセリア様のお兄様で、王太子筆頭補佐官の」
「確かにそうね」
「あれ、何をしているの?」
「私に聞かないで」
シレイアとオルガは顔を寄せ合い、話題の人物を眺めながら囁き合った。同様に周囲の者達も怪訝な顔を見合わせる中、彼はカテリーナのすぐ目の前まで到達し、一見取り留めのない挨拶を交わす。しかしその直後に繰り出した彼の本題は、シレイアを含めたその場全員の度肝を抜いた。
「二日前の夜会で君からの挑戦を受けたので、昨日、それを実践してみた。もっと端的に言えば、女装してみた」
「………………」
(え? 挑戦って、何の? それに挑戦が、どうして女装に結び付くのかしら? 何か私が知らないだけの、上級貴族間の言い回しとか言葉遊びとか隠語とか、そう言う物かしら?)
ナジェークの衝撃的な台詞に、食堂内が瞬時に静まり返った。シレイアも耳にしたばかりの台詞を頭の中で処理しきれず、見事に固まる。するとオルガが、如何にも疑わしげに話しかけてくる。
「今……、女装とか言った? ナジェークさんが女装をしたの?」
「…………エセリア様がしたのなら単なる扮装で、女装とは言わないと思うわ」
「そういう事じゃなくて! あの人はれっきとした公爵家嫡男で、王太子筆頭補佐官っていう重職に就いているのに!」
「あの方だったら、女装でも問題ないと思う……。寧ろ業務を円滑にするために、陰で女装して好色老害野郎を誑し込むのもありかも……。うまくいけば恐喝のネタにも……」
「ちょっとシレイア! あなた、何を口走っているのか分かっているの!?」
「駄目だわ。私の想像力の限界を超えた……。ナジェーク様、さすがだわ。私もまだまだって事ね……」
「シレイアお願い、現実逃避は止めて! 正気に戻って!」
シレイアは思わず項垂れ、額を押さえて呻いた。そんな彼女の肩を掴んで揺さぶりながら、オルガが小声で叱責してくる。その間も、事態は混沌を極めていた。
「カテリーナ・ヴァン・ガロア。私は女装しても同性からの羨望の眼差しや、称賛の言葉を得ることはないと確信した。故に潔く、自らの負けを認めよう。君の勝ちだ。君の人間的魅力は、私のそれに遥かに勝る」
「ソレハドウモ、アリガトウゴザイマス……」
「これまでの人生の中で、私を完膚なきまでに叩きのめした女性は君だけだ。だから私の妻になれるのは、君くらいしかいない。結婚してくれ」
どこまでも真摯な顔で求婚の言葉を繰り出すナジェークは、傍から見るだけであれば貴公子そのものである。しかし彼と相対しているカテリーナは、半ば魂が抜けたようなありさまで、その落差が凄まじい事になっていた。
「え? 結婚?」
「知らなかったわ……。上級貴族の結婚に関しては、女装や男装の可否が係わってくることがあるのね……」
「そんなわけないでしょう!! シレイア、お願いだからしっかりして!」
静まり返った食堂内に予想以上に響き渡った台詞に、シレイアは思わず顔を上げながら呟く。そんな周囲の困惑には構わず、ナジェークとカテリーナの冷静なやり取りが続いた。
「はぁ? 結婚ですって? あなたと? どうして私が? 馬鹿も休み休み言って頂戴」
「私が相手では不満かな?」
「結婚する必要性を感じないもの。れっきとした職はあるから、衣食住は保証されているし」
「そうすると、君は一生騎士団勤務を続けるつもりか?」
「そうよ? 悪い?」
「別に結婚しても、騎士団勤務は続けられるだろうが?」
「はぁ? あなた、何を言っているの?」
「騎士団を含めた王宮内勤務者の就業規則に『結婚したら退職すること』などという規定はない。そんな条文が存在していたら、官吏の大部分を占める既婚者は、規定違反者になる。女性がくだらない慣例として、自主的に結婚を機に退職しているだけだ」
ここで二人のやり取りを聞いた他の騎士達が、あちこちで何事かを囁き始めた。シレイアも真顔で考え込みながら、独り言のように告げる。
「それはそうよね……、全ての規則に目を通したけど、どこにも成文化されていなかったわ」
「シレイア、あなた本当に全ての就業規則や勤務条項に目を通したの?」
「ええ。勤務に必要だと思ったから、確実に頭に入れているわ」
「さすがね……」
どうやらシレイアが平常心を取り戻したらしいと判断したオルガは、安心して一人溜め息を吐いた。
「それなら聞くけど、あなたは私が結婚後も騎士団勤務をしても構わないの?」
「何か支障があるのか? 私も公爵領の運営を信頼できる部下に任せているし、社交なども必要最低限であれば休暇を利用して対応できている」
「本気で言っているわけ?」
「この場で冗談を言わなければならない理由があるのか? ああ、それから、君が騎士団勤務を続ける上で、私と結婚する他の利点もある」
「どういう利点かしら?」
「二十年後には、私が宰相になる。その暁にはありとあらゆる手段を講じて、君の騎士団団長就任を後押ししよう」
「…………はい?」
相手の調子に合わせて話をしていたカテリーナだったが、ここで面食らった表情になって絶句した。さすがに食堂内の空気も揺れ、あちこちでざわめきが生じる。事ここに至って、シレイアとオルガは半ば達観した表情で問題の二人を見守っていた。
「なんかもう、これ以上何を聞いても驚かない気がしてきた……」
「あの二人なら、本当に就任してしまいそう……」
「ええ。なんだかそんな気がしてきたわ。私達は未来の宰相様の、未来の騎士団長様への求婚の場面を目撃しちゃったのね」
「そのようね。実際のお二人の就任時に、周囲に自慢できそう」
「本当に得難い体験よね……」
半ば投げやりにも聞こえる台詞を交わしていると、当事者二人の様子にも進展が見られた。
「そう……。言われてみれば、確かにそうかもね。隊長を通り越して、女性団長か。もの凄く斬新ね」
「そうだな。斬新で前代未聞だな」
「騎士団史に名前が残りそうね」
「確実に名前が残るな」
そこで一旦口を閉ざして見つめ合った二人は、すぐに如何にも楽しげに「あはは」「うふふ」と笑い合った。
「分かったわ。それならあなたと結婚してあげようじゃない」
上から目線的なカテリーナの宣言に、シレイアとオルガは思わず遠い目をして呟く。
「結婚……、しちゃうんだ。あれで」
「自由過ぎて凄いわね……。とても真似できない」
「真似しようとは思わないわ」
「そうね。一足飛び過ぎるにも程があるわよね」
どうやら首尾よく求婚を受け入れて貰ったナジェークは、手土産を寮に届けておくとカテリーナに告げ、あっさりとその場を立ち去って行った。その姿が完全に見えなくなるまで呆然と見送ったシレイアは、次の瞬間我に返って慌てて席を立つ。
「うわっ! 思わず見入っていたら、休憩時間がとっくに終わってる! 戻ったら、先輩が入れ違いに休憩に入る予定なのに!」
「嘘! 私も残り時間が! まだ殆ど食べてないのに!」
「私、行くわ! それじゃあ!」
「うん、またね!」
壁時計の時刻を確認して蒼白になったシレイアは、慌ただしくオルガに別れを告げた。そして食器を返却すると、一目散に職場に向かって駆け出したのだった。
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