「ふあぁ……いま丁度起きたところじゃったぞ」
「あ、良かった良かった」
寝ぼけがひどくなくて何より。
「んで、なんじゃい」
「ミズチさ、実体化したとして僕から離れることってできる? 具体的には戸牙子のいるところまで飛んでほしいというか」
「え……なんのご褒美もなしにか……?」
「ご褒美があればやれるの!?」
「モチベというか、やる気というか、気持ちの問題じゃな。わしって最悪、お前さんの中に片道切符で帰ってくることもできるし。まあ独立行動できる時間はそこまで長くないわな、血があれば話は別じゃが」
血を飲みさえすれば長時間の単独行動もできるなら、もしかして。
「……あのさミズチ、インスタントV・Bほしい?」
「ほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしい」
「わかったわかった! ヤク中みたいなゲシュタルトガトリングと血走った眼をどうにかしてくれ! こわいよ!」
一瞬で実体化したミズチは、僕の首に足を絡ませて血が頭にのぼる逆さまの体勢で腰に手を回し、ズボンのポケットをまさぐってきた。V・Bをポケットに入れているわけないのに。
蛇というか、蜘蛛みたいに僕の全身に絡み巻きつくその姿勢は、服がはだけていろいろなところが丸見えになっているので気をつけた方が良いと忠告するべきなのだろうか。
電話口に声を傾ける。
「えーと、戸牙子聞こえる?」
「あ、はい」
「ミズチ、そっちに送れそうだわ。多分時間も気にしなくて良い」
「ほんと!? ごめんね、助かります!」
鞄の中から、瓶タイプのインスタントV・Bを取り出すと、ミズチはだらりと口の端からよだれを垂らして、待ち惚けている。
ギラギラと輝く蛇眼は、僕を石にしてしまうのではないかというぐらい、興奮と驚喜の意思がこもっていた。
「ちなみに、ミズチに何を聞くつもりなのさ?」
「……えーと」
数秒の沈黙が続く。
どうやら言えないみたいだ。
「まあ、戸牙子を信じてはいるし、悪用はしないと思っているけど、ひとつだけ約束」
「な、なんでしょう……」
「ミズチからどんなに迫られても、絶対に血は飲ませないこと。それを守ってくれるなら、ミズチを送る」
「も、もちろん! 守ります!」
なら、いいだろう。
インスタントV・Bですら、一日一本分しか飲んだらいけないのに、その上戸牙子の血まで飲んでしまったら、一日の摂取量を優に超える。
カフェイン感覚で飲んでいたら、悪影響が現れるのも時間の問題だ。
というより、「一度血を飲んだら、その中に宿る神聖が分解されるまでは飲まない方が良い」というのが、最近分かってきた事実だ。
半神半人である僕は、処女の血という強化栄養剤を自身に取り入れることで、二つの効能が現れる。
ひとつは人としての効能、「肉体強化」
もうひとつは神としての効能、「精神強化」
コインで例えるなら、表と裏が同時に強化された状態。
真と反の属性で例えるなら、ふたつの属性がワンランクアップグレードされた状態。
僕かミズチ、どちらか片方だけが強くなるのではなく、同時に強くなる。
強化と簡単に言ってはいるが、これについてもう少し深く掘り下げると、「パワーアップするからバランスが崩れる」ことが一番の問題だ。
例えるなら「建っている超高層ビルが短い期間に何度も何度も形を変えている」状況なのである。
それは、ありえないことだ。
一度作られて、安定してそこに根を張っている建物が、たびたびふらふらと揺れているのだ。
地震大国の日本であっても、そんな日々が続いたらビルもそこにいる人々も気が休まらないものだろう。
そう、人はたった一人であっても、そこに存在するだけで「環境の一部」を担っている。
怪異であってもそれは同様であり、むしろ人の裏にひっついて過ごしている彼らは、なおさら「世界の一部」であり、環境変化の影響をもろに受ける。
不安定な存在がいるだけで、周りに振動が生まれ、波紋が浮き立つ。
だから、人外ではあるが人間らしく過ごすことが重要であり、社会のなかで静かにひっそりと生きることが、僕の使命でもあるのだが。
「いいかい戸牙子。君がミズチに何を聞くのかは深く問いただすつもりはないけれど、問題が起こったのなら僕は方舟の人間として対処をしないといけなくなる。というか責任が絡んでくる。こればっかりは、友人だからといって見逃すことはできないからね」
「わ、わかってます! ご迷惑はおかけしません!」
「うん、それを分かってくれるならよし。まあこの前くれた『赤い灰』のお礼もしたかったし、丁度良いけどさ」
以前、戸牙子から調査を依頼された「赤い灰」
あれを方舟に持ち帰ったら、虹羽さんはニヤニヤ笑みを浮かべて黙りこくっていたし、シオリさんは眼をキラキラさせて興奮気味に、それこそ今のミズチと同じぐらい鼻息を荒くしていた。
他の人も、各々似たような反応をしていた。
珍しがったり、驚愕していたり。
まあ、僕が子供だからなのか、細かい事情までは教えてくれないんだけどね、あの人らは。
「じゃあ電話を切って待っててね、今から僕の顔面を覆い尽くす蛇っ娘をすぐにひっぺがして送りつけるから」
待て、と命じているのに僕の首を足でがっちりホールドし、窒息させて瓶を奪い取ろうとしてくるミズチ。
耳に入ってくる動物的な荒い喘ぎが、そろそろ限界になってきて僕は戸牙子との通話を切る。
「こらミズチ! 電話中でしょうが!」
「く、くれ……! はやく、はやくはやく! その血を!」
マジで怖い。
眼はうつろだし、過呼吸になっているし、象徴的な二本ツノがなんだかめきゃめきゃと、脱皮するように伸びている。
興奮するとツノが伸びるのか、お前。
シオリさんからもらった「インスタントV・B」栄養ドリンクタイプは、携帯性を重視しているため真空パックの方と比べて保存期間が二週間と、短い。
治験として協力しているわけだから、先に消費するべきは瓶の方だと思い、携帯していたわけだが。
まさかこんなに早く飲ませることになるとは……。
蓋に手をかけると、小さなボタンがあった。
このボタンが安全装置らしく、押し込みながら回して開けるとのこと。
ぐっと押し込みながら蓋を回すと、封が解かれて、ぷしゅっと小気味よい音が鳴る。
「おお……良い香りじゃ……!」
「僕からすると鉄の匂いなんだけどね」
ミズチに瓶を渡すと、ありがたるように両手で包み込み、深々とお辞儀した。
「この世のすべての血と、人類のめざましい発展に感謝を……」
大げさだな……。
しかし、ここまで彼女の反応が良いのは珍しいというか、これまでとは逆だな。
むしろ今までは、僕の方が処女の血を見て「おいしそう」と興奮することが多かったのに。
今では逆転している。僕はインスタントV・Bを見ても、厳密にはシオリさんの血を見ても何も思わない。
まさか、まだ十六歳なのに不全になってしまったのか!?
「ぷっはー! いやあうまい! あの関西弁女はすごいものを作っておるのぉ!」
勢いよく、一気飲みをするミズチ。
「それはよかった。んでだ、取引には応じてくれるかい?」
「ああそういえば、なんじゃった?」
「戸牙子のもとへ行って欲しいんだけども」
「よいのか?」
「ん? なにが?」
ミズチがV・Bの小瓶を袖にしまいながら言う。パクるつもりか。
「わしだけを行かせて。そのあいだお前さんは一人になるが」
「なにさ、僕のことを小児かなにかだと思ってるのか? まあ君から見れば全人類なんて赤子同然なんだろうけども」
「子守的な意味ではないぞ。わしがいない間、お前さんは半神半人でありながら、神としての力を全く振るえないという意味でじゃ」
それは、何か問題があるのだろうか?
だって、普通に生活をするのなら神の力なんてなくていいはずだし。
「んー、まあお前さんが特に意識しておらんのなら、わしも無粋なことは言わん。戸牙子との件でどのくらい時間を取られるかは知らんが、契約の品は頂いたしな。言うことは聞こう」
「こっそり飲んだらだめだよ」
「……ちょっとも?」
「僕たち、心臓がリンクしているんだよ。君が戸牙子の血を飲んだことに気づかないと思う?」
「ぐぬ……しゃあないのぉ」
全く、戸牙子だけでなく本人にも口すっぱく言わないといけないなんて、子供なのはミズチなのではないのか?
渋い顔つきのまま、腕を伸ばしたり足を回したりして準備運動をするミズチ。
空中に浮きながらやっているのだが、果たしてそれは運動になるのだろうか。
「んじゃ、行ってくるの。わしがいないからって泣くんじゃないぞ?」
「姉さんがいるから」
「きっつ」
棘のある捨て台詞と共に、ミズチの体は水球をまとって地面に染み込んで、消え去った。
久々の一人になった。
冬休み前、ミズチと取引をしてから僕のなかにはずっと、彼女がいたわけだし。
眠っている時はあっても、やっぱりどこか自分の体に「何かいる」感覚は付いて回っていた。
それが、今では綺麗さっぱり消えている。
ふうむ、一人とはこんなに清々しい気分だったのか。
久しく忘れていた、最高じゃないか、ひとり。
たとえ家族と言えども、四六時中共に過ごすことはないわけで。
ミズチとの一心同体な感覚に慣れている自分もいたが、逆に慣れたからこそ、解放された今が一周回って新鮮な感覚だ。
……まじで久しぶりのひとりだ。
高校生男子として、健全な時期の一人。
今から何をやったとしても、誰の目線も気にすることはない。
何しよっかな!
なんだか羽がついたように心が軽い!
今の僕なら、どんなに恥ずかしい行いをしたとしても、ミズチに知られない!
つまり、突っ込まれない。
いくら黒歴史を作ったとしても、それを抱えるのは僕だけのこの状況を活かさない手はない!
さあて何からしようか。まずはお小遣いを銀行から下ろして、懐をあったかくしてから、姉さんに「今日の晩御飯は作り置きの物を食べてね」と連絡だけ入れておけば、あとはもう自由だ!
女子の目を気にする必要のないことをいくらでもできるなんて、ここ数ヶ月なかった感覚だ!
なんだこの開放感は!
僕はこれまでとんでもない鎖を付けられていたんだな、いやはやミズチめ、君は姑のように厄介な女だ!
姉さんに告げ口をされる可能性も低い、これは大きなアドバンテージだ!
と、そんなことを考えていたら、ポケットのスマホが震える。
背中から、じわりと冷や汗が滲み出てきた。
地獄耳持ちの姉さんは、耳だけでなく勘でさぐりを入れてくることもある。
これまで僕が悪さをしていた時も、だいたい「なんとなく、悪い予感がした」と連絡をしてくることがあった。
恐る恐る、長時間震えるスマホを取り出す。明らかに電話だ。
まだ、僕は何もしていない。
うむ、言い訳する必要もない。たとえどう突っ込まれようが、探りを入れられようが、現時点の僕は無実だ!
悪事を考えている時まで罪だと数えられるだろうか、いやそれは許せない!
そうやって、自分の心を慰めながら奮い立たせつつ、ちらりと液晶を覗き込む。
しかし、そこに映る名前は今もっとも恐れている相手ではなく。
僕と、過保護で恐るべき姉さんにとって幼馴染みである女の子の、母親だった。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!